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空想ワーク

空想上でワークするのではなく、ワーク中によく空想というかフィクションのことを考えてしまうことがある。これはワークの多忙さが中途半端な時にいいフィクション作品についてのネタがあると非常に困る日で、今日はまさにそんな感じであった。いっそ多忙なら労働しかやってるヒマがないので安定するのだが。
素晴らしいアニメを見てしまうと労働中になんとなくフリーになった心は昨晩のそれのことばかりを考えてしまい、マジで感動で涙が浮かんできたりする。あんまりサボりまくっているのもよくないなと思って労働に戻ろうとするも、頭が完全にアニメ・モードと化しているので延々とぐるぐる同じシーンのことを考えてしまう。今期最終回ラッシュが始まってしまったので、ちょっと警戒している。ちなみに今日はリステDDキャプBEST30を挙げるなら何を挙げようかな、ということを考えていた。

今日見たアニメ。『八男って、それはないでしょう!』#12、堂々の最終回。熱烈杉田劇場も最高に面白かったが、最終回も全体的にやりたい放題で本当の笑顔になってしまった。一方で一話と対比させるシーンを振り返ってみると、八男くんが豚バラ味噌炒め~カイワレを添えて~に巡り合うまでのお話だったのだな、としみじみ思ってしまう。今期は地に足のついた生活描写としての食事がとても多く、興味深い。
『かくしごと』#12、ひたすら種まきをしていた11話までを踏まえた着地をどうするのかわりとハラハラしていたが、あまりにも綺麗に完結して脱帽。親子のお話として、「かくしごと」が「隠し子」のダブルミーニングである、というネタをブラフとして回収しつつ、二人のすれ違いの本質を捉えるお話の構成があまりにもお見事だった。言えなかった好きな仕事のこと、深く想い合うが故の遠慮、そうした些細であまりにも小さな"隠し事"こそが本当に微妙に、しかし確かな歪みとして現れていたのがいままでの11話だったのだ。もう少しだけ互いのことを深く知る、そんなほんの一歩はワンクール作品の物語を全て費やすにふさわしいほどの大事件なのである。
さてこの作品においてもう一つ避けて通れないのが、これが「漫画家久米田康治のある種の自伝的な色をもった作品」ということである。後藤可久士の描く下ネタギャクマンガである『風のタイツ』は明らかに『南国サッカーアイスホッケー部』などの下ネタ時代を描いていた自身の体験を踏まえたものだろうし、作中ではそうした久米田作品らしいネタが満載されている。その上で最終回では「漫画を書くことが楽しい」といい切ってしまうことのなんと清々しいことだろうか。久米田という作家は自虐ネタが十八番で、風刺ギャグへの路線変更に際してこうしたかつての下ネタ時代を所謂「黒歴史」的なネタとして扱っていたりもしたわけだが、そんな彼が今この作品でそうした時代全てを含めて、漫画家として作品を生み出してきた日々を肯定する。わたしはそこまで熱烈なファンと言うほどではなかったとは思うのだが、それでも彼の過去への愛情に満ちた眼差しを感じてしまうと、こうなんというか、胸がいっぱいになってしまう。
親子と娘、過去と現在、そうして離れていた2つが"繋がる"のは他ならぬ可久士が描いた漫画によって、であった。くたびれた原稿を読むのと共に次々とかつての記憶が蘇っていく演出があまりにも美しくって、思い返すと参ってしまう。かくして復活した可久士は「漫画家ネタを今度は書いてみてはどうですか」と劇中劇オチめいた次回作の構想を練り(すなわち漫画家や父として苦悩に満ちていた妻との悲しい過去すらも作品として昇華するのだ!)そして姫は父に内緒で漫画を書きはじめる。かくしごとという作品は"妻/母を失った親子の話"と"久米田康治自伝的作品"の両方で常に過去への眼差しを感じる作品だったが、最終回で見事に未来へと繋げたこの構成はあまりにも天晴。久米田先生、あなたにはこんなにも世界が輝いて見えていたのだろうか?
今回もまたちょっとあまりにも"緑"の読解をしすぎたかもしれないが、しかし『かくしごと』という物語は、人や過去、そうしたものを受容していくお話だったように感じる。

ところで今期アニメも気がついたらもう終わりの時期らしい。受け入れがたいが……。

2020/06/18


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