見出し画像

2024/07/25 ソシャゲについて(ブルアカ)・アニメ

ソシャゲについて(ブルアカ)

いろいろと思うところがあったため、今日はお気持ち長文を記すこととする。一応、非難や悪口では自分ではないとは思っているのだが、とはいえお気持ち長文にはほかならないので、ご認識いただきたい。

さて、ブルーアーカイブのアビドス編の3章を読んだ。細かいところにはやや不満がある(非ネームドキャラクターがあまりに舞台装置然としていて動かし方に面白さがないこと、今回だけで語られるものではないにしろスオウに対する「なんだったんだよ」の拍子抜けの感、地下生活者の介入による意図的であろうとはとはいえ焼き直し感の強いホシノの葛藤、シナリオのテンポを阻害するホシノとユメ先輩の過去エピソードの挿入、など)が、とはいえ盛り上げどころで盛り上げてくるのはやはりブルーアーカイブだなと思ったし、ホシノVSヒナやシロコ・テラーの再登場にはアツいものがあった。認識的には今までのブルーアーカイブのシナリオとそこまで大きくは遜色ないとは思ったが、とはいえ私個人の話でいうと明らかに今までに比べてノリきれない結果となってしまった。

これは作品の評価に起因すると言うよりは、純粋に個人の問題としてノリきれなかったな、という印象だ。理由として思いつくのは2つあり、1つは「アニメブルーアーカイブの出来に明らかに納得がいっていないこと」もう1つは「ゲームとしてのブルーアーカイブへの疲弊」だ。

前者のアニメについてはちょうどアビドス編の話だったため、ブルーアーカイブの、特にアビトス周辺への魔法がアニメによって私の中で解かれていて、以前のゲームシナリオによって魔法がかかっていた好感度のままで受け取れなかった、という印象がある。
アニメの放送タイミングはむしろ今回の3章との相乗効果を狙ったものだと思うのだが、こと私的には圧倒的にマイナスに働いてしまった。純粋に残念なことだと思う。

後者は、あくまで個人的な話ではあるが、とにかく最近のブルーアーカイブの出すエンドコンテンツが面倒なだけで面白さを感じず、私がネットの編成や動きをコピーして試行回数を増やす、という手段でばかり突破していて、ゲーム部分への精神的な疲れがあった、というのが思いつく。
特に制約解除戦をほぼ完全にスルーしている私にとって、セトの憤怒は「面倒くさくて新規コンテンツが追加されるたびにテンションが下がる最近のブルーアーカイブ」の象徴だったので、セトの登場に際しては地下生活者氏の盛り上がりに比べて、私の方はと言うと大層盛り下がってしまっていた。

ブルーアーカイブはソシャゲという媒体で物語を紡ぐということを熱心にやろうとしている印象で、これは私がブルーアーカイブを好ましく思っていることの一つでもある。今回に関してもゲームからはその姿勢を感じたものの、しかしながらあまりうまくそこを楽しむことができなかった。
自分の感覚では、せめて制約解除戦が今回のシナリオに合わせて登場であったなら、先行して「なんかよくわからんボス」の印象が私の中で定着せず、にもっと素直に盛り上がれたかもしれないと思うのだが、どうだろうか。制約解除戦に不真面目すぎたために、シナリオ上でのゲームシステムの取り込みに、イマイチ盛り上がることができなかったと感じている。当初のこのコンテンツの実装スケジュールはどうだったのだろうな、と思ったりもするが、ここについては内情の憶測にしかならないため置いておきたい。

ところで、これを書いたのはもう2年半も前ということだ。これを書いた時に私が思ったのは、先ほども書いたようにブルーアーカイブがソシャゲという媒体ならではの物語を紡いでいこうとしていることの好印象と、更にそれが実現できていたことへの感動だった。
しかし、今回はソシャゲという媒体で物語を紡ぐことの難しさについて、改めて考えてしまった。アビドス3章が仮にノベルという形でリリースされていたならば、少なくともセトに対する印象は変わっていたのではないか。もちろん、ブルーアーカイブのシナリオはゲーム性と強く結びついているため、これは実にナンセンスな仮定の話なのだが……今回物語の外部要因によって物語が十全に楽しめなかったな、という感覚があると、ちょっとそんなことを考えてしまう。

ソシャゲで物語をやるということの難しさについて、「いくつかの要素が絡まり合って成立している」というここまでの話題に加えて、私が思うのはソシャゲという媒体がどうしても「続けていくこと」が目標になってしまうということについてだ。

話がちょっと逸れる。先日読んだライトノベル『こちら、週末停滞委員会。』の解説で「最近のラノベなどはローコストで継続することが当然だが、本作は情報過多すぎて物語の密度が凄まじい(超意訳)」みたいなことが書かれていたのだが、ことソシャゲにおいてもコンテンツを続けていかなくてはならないから、設定の開示や、あるいは物語の完結を迎えるには相当長い目で見なくてはならない、という難しさがある。その間ずっとユーザー(私)が熱を持続できるか、というと怪しいものがある。
『こちら、週末停滞委員会。』は少なくとも多少はブルーアーカイブを意識したのではないかと個人的には思える作品で(青春というワード、銃を持つ生徒の学園生活、神秘のあり方、など)それ故に、『こちまつ』のあまりの後先考えてないような濃縮っぷりと、"継続"しなくてはならないブルーアーカイブの濃さを比較してしまっていることは否めない。や、ブルーアーカイブってソシャゲの中では「物語の一つの完結」を見せることは、相当頑張ってちゃんとやってはいるんだけどね。

加えて、個人的にソシャゲで苦しいなと思うのは、いつもソシャゲというのは「飽きて、引退する」ことを自分から選択しなくてはならず、ソシャゲに夢中になれていない自分にどこかのタイミングできっちりと向き合うハメになることだ。
基本的にアニメは短ければ1クールの3ヶ月でスパッと終わるので、熱を抱いたままその終わりを迎えることができ、終わった後に飽きたとしてもなんとなくいい思い出として残ってくれる。しかしソシャゲというのは"継続"していくものであるから、どうしてもそうはならず、末期の苦しい思い出が残ってしまう。アニメのような別れができるソシャゲは、「物語があまりにも面白かったが商業的には失敗して早期にサ終した作品」だけだ。なので、これはあんまり積極的に求めるものでもないと思う。
とはいえ、飽きた自分と向き合う……という話は、極めて個人的な苦しさにすぎない。少なくとも、ブルーアーカイブに関しても、2年半もかなり楽しませてもらっていたら充分だろと思う。

私は先日学マスのゲームとシナリオ(フレーバー)の融合について感激してひとつこの記事を書いたが、この学マスにしろ、正直この素晴らしいゲーム性とフレーバーのバランスをいつまでも持続することはできないだろうな、とどこかで諦めてしまっている。
ブルアカ・学マスに限らない話だが、ソーシャルゲームの中の物語について、果たして"継続"させなくてはならない・「終わることのできない」というこの媒体で、いかなる作品に触れたとしても「どれほどきれいに、私が熱を保っている間に、終わってくれるのだろうか……」と考えがよぎる。
物語というのは基本的に終わって初めて「完成」するものだと思うのだが、ソシャゲというのはどうしても、物語というジグソーパズルの完成形をいつまで経っても見ることのできないまま、絵にハマるピースをずっと探し続けなくてはならない、そんな印象を抱いてしまっているのだ。(もっとも、ここに関しては世の長期連載作品はいくらか同じ性質を持っているだろうとは思うが……)
そして、また違う話ではあるが、ノベルはノベルで続きが出なく打ち切りになってしまう、というような難しさがあったりもするだろう。あらゆる物語があるべき終わりに落ち着くことができるならそれは幸福なことであるが、実際はなかなかそうもいかないのだろう、とは思う。

……という感じで、最近ソシャゲについてあれこれ思っていたことを、なんとなく改めて考えてしまった体験だった。だいたい書きたいお気持ちはこれで書いたかな。
や、ブルーアーカイブ今すぐやめるつもりは全然ないけどね。とはいえ、ひとつ区切りとして、残しておいたほうがいいタイミングって今かもしれないなと、そうちょっと考えてしまう日であった。

アニメ

義妹4、パリイ4、疑似ハー4、ハズレ枠4。

なんだかんだでやっぱゆるっと見られる疑似ハーが嬉しい曜日かもな……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?