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きものの世界を知ろう


ご訪問いただきありがとうございます。
このnoteは、「きもの」を知りたい、これから学びたい、さらに深めていきたい方へ向けて、「そこにきものがあるような」「そこに先生がいるような」
そんなページを届けています。


1、きものってなに?

人類最初の衣服は、腰に巻いた一本のひも、「ひもい」といわれます。
生活に必要なものを下げました。
また粗布や毛皮を腰に巻いて腹部を保護しました。巻衣ーといいます。
いずれにしろ、「巻く」ことがその始まりでそれは、不思議に世界中同じです。

ここから様々な形が生みだされ、意味づけられて今日に至っています。
時とともに文明が熟し、地位の象徴となり、装飾となり、個人的なおしゃれへと変わってきました。衣服の歴史は「身にまとうことの進化過程」ともいえるでしょう。日本のきものが、いつどのように現在の形をとるようになったか、その流れをたどってみることも、着付け技術や知識の理解を増すことでしょう。

2、大陸からの風

三世紀の半ばに中国大陸の「魏」の国の使者が、我が国を訪れました。
書き残された魏志倭人伝は、我が国に関する最古の記録です。
これによると、当時の人々は「貫頭衣」(かんとうい)や「袈沙式衣」(けさしきい)をつけていたことがわかります。

貫頭衣/布の中央に穴をあけて、頭を通して着るもの。

袈裟式衣/肩から斜めに布をかけて曖に巻きつけるもの。
古代の人は神代の衣服として尊びましたので、これらの衣服は儀式用として長く残りました。中世の頃まで使われた「小忌衣」(おみごろも)や
現代も見られる「たすき」は、その変化したものと考えられています。

3、古墳時代の衣服

交通が盛んになると、朝鮮半島を経由して稲作、織物、裁縫、土木、金属製法などの技術が伝わってきました。富と力を蓄えた豪族が各地に誕生し、巨大な墓(古墳)を建設しました。古墳に埋葬された供物の人物埴輪が当時の衣服を伝えています。

衣褌(きぬばかま)、衣裳(きぬも)/洋服の原型

男女とも筒袖の上着(衣)に倭文(しずり)の帯をしめ、男性は太めのズボン(褌)、女性はロングスカート的なもの(裳)をはいています。
上着の衿はつめ衿で、が「左衽」(ひだりまえ)に合わせた形が多かったようです。この上下二部式の衣服は中国西域、胡の騎馬民族の服で、
「胡服」(こふく)といいます。これが今日の洋服の原型といわれています。胡服と同時に「胡座」(あぐら)の習慣も伝わってきました。

衣服素材は麻がほとんどで、布=麻でした。楮(こうぞ)や藤などの植物繊維も使用され、絹はどの国でも貴族の象徴で、歴代天皇は大陸から技術者を招いています。

古代日本人の色彩感覚は、
明=赤、暗=黒、顕=白、漠=青で、光の感覚でした

4、南方系?北方系?

衣服は南方系と北方系に大別できます。
南方系は、「貫頭衣」「袈沙式衣」にその特徴をみることができます。
ワンピース型で植物性繊維を素材とし、衿、袖、裾などが解放的で、熱が発散しやすく、仕立てが大まかのため、着付に重点がおかれます。

北方系は「衣禅」「衣裳」に代表され、活動的なツーピース型で、防寒のため衿、袖、裾は体をきちんと包む形になります。このため体の線に沿った細かい仕立が要求され、素材も動物性繊維です。

日本の衣服は本来南方系であったところへ、北方系を取り入れ、変化発展させて、南方系の衣服である「小袖」を作り上げたといえます。
一方、北方系の二部式は活動的で、庶民の労働着として受け継がれ、後に武士の衣服に影響を与えたと言われています。

5、今日のまとめ

いかがでしたか?

現代を知るには、やはり時代を遡ってみることで、見えてくるものがありますね。
そして、現代のファッションにも、取り入れられているように思います。
特に、貫頭衣は、ポンチョ的ですし、流行りのオーバーサイズTシャツも
似たものがあります。

次回は、次の時代に進んでいきます。


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