うつわのおはなし ~麗しの三川内焼 (前編)~
今日は、長崎県佐世保市で焼かれる 磁器 「三川内焼」についてのおはなしです。
やきものには、大きくわけて土からつくる陶器と、石(陶石)からつくる磁器とがあります。
三川内の里では当初、陶器がつくられていましたが、陶石の発見により磁器がつくられるようになり、その白い肌には 美しい絵付けや装飾が施されました。
三川内焼の繊細な美しさは、19世紀前半には ヨーロッパでも大人気となっています。
私は昨年11月に現地を訪ね、趣のある山里と、その麗しのうつわを堪能しました。
その余韻は今でも続いています。(本当に麗しいうつわなのです!)
すこし時間が経ってしまいましたけれど、その時の写真も添えながら、2回にわけて おはなししします。
今回は、三川内焼の誕生とあゆみについて。次回はその技法と、里の様子について綴ってみたいと思います。
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はじめに
歴史に関することには、「諸説ある」ことが多いように感じます。
とくに三川内焼の誕生・発展の歴史には様々な情報があり、複数のものを照らし合わせると、まったく整合性がとれませんでした。(私の知識や理解が不足しているからかもしれませんけれど…。)
専門家の方によっても部分的に見解が異なるのです。
私が尊敬する お2人の専門家、行政の発刊する資料、そして現地当事者の方の説なども、それぞれ部分的に大きく異なりました…。
土地の時代背景もあってその成り立ちが少々複雑であることと併せ、現存するエビデンスが不足しているからでしょう。
推測や “言い伝え” から 語られる歴史もあるように見受けられます。
私はこのnoteを書くにあたり、信頼できる(私が信じたいと思う)いくつかの資料を選び、その全てに共通する内容にすることを心がけましたが、そうもいきませんでした。。
結局、私がいずれかの説からチョイスしてしまった部分もあります。
つまり、次の「三川内焼の誕生とあゆみ」は、 “うつわ好き素人” の私が、現時点で「もしかしたら、通してみるとこんな感じ?」と思う内容になっているということです…。
チョイスしている箇所については、それがわかるように書いたつもりですけれど、このような状況であることを、どうぞお含みおきください。。
加えて、またしても 長文です。
もしもご興味とお時間がありましたらお付き合いください。
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三川内焼の誕生とあゆみ
以前にも触れているのですけれど、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役 1592年、慶長の役 1597年)の際、主に九州の大名たちは、朝鮮から競うように優秀な陶工を招き、藩の窯を開きました。
そのことにより、朝鮮半島の作陶技術が伝播し、その土地のやきものの文化は大きく花開いたのです。
三川内焼もそのひとつ。
朝鮮半島からの陶工により誕生し、発展をとげたやきものです。
その朝鮮人陶工による 三川内焼誕生のルーツは、2つあると考えられます。
それぞれ、三川内焼の発展に 大きな影響を及ぼした陶工「巨関」と「高麗媼 」がポイントになります。
1つ目のルーツ。朝鮮→平戸→三川内の流れです。
肥前国平戸藩 初代藩主 松浦鎮信は、慶長の役の際、約100名もの陶工を朝鮮から領地に招きました。1598年のことです。
その中の「巨関」という陶工が 平戸島中野村(現在の平戸市)に窯を開いたのが三川内焼の始まりだとされています。
平戸で開窯されたため、三川内焼は、別名を平戸焼ともいいます。
しかし、平戸では良質な陶石に恵まれず、巨関と その子・今村三之丞が転々と陶石探索をした結果、三之丞が三川内(佐世保市)に「網代陶石」を発見したことで、三川内に落ち着くこととなりました。(1633年)[※1]
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もう1つのルーツは、朝鮮→唐津→三川内の流れによるものです。
朝鮮から平戸ではなく、唐津を経由したルーツです。
唐津焼といえば、九州で最も歴史ある施釉陶器。(生地の上にガラス質の釉薬を施した陶器のこと。)
佐賀県北部に誕生し、朝鮮半島からの陶工によって目覚ましい発展をとげたやきものです。
ところが、唐津の岸岳に城を持ち、陶工たちを保護していた波多氏は、文禄の役における活躍が不十分だったとして秀吉から怒りをかい、取り潰されてしまいました。
それにより庇護者を失った唐津の陶工たちは、有田や波佐見、そして三川内などに離散してしまったのです。
これを「岸岳崩れ」といいます。(1593年)
三川内近辺では、唐津から移ってきた陶工たちにより陶器の窯が開かれました。
この窯が、「三川内焼」の始まりだとする見方もあります。けれど、これはあくまで「唐津焼」の陶器であり、三川内焼の始まりは 先述の巨関が平戸に開いた窯であるという見解の方が 圧倒的にメジャーなように思います。
いずれにしても、三川内の地では、この頃から陶器の窯が活動していたということです。
そして三川内焼にとって重要なのは、朝鮮から唐津領内に来ていた陶工「高麗媼 」(日本名 : 中里エイ)が、岸岳崩れの後、多くの陶工を連れて三川内に移り、長葉山窯という窯を開いたことです。(1622年)
夫の死を契機に、“三川内にいた朝鮮出身の陶工” を頼って移ったとも言われています。[※2]
高麗媼 は、斬新な方法でやきものをつくる、とても優秀な陶工でした。
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一方、その三川内では、先述の巨関の子・今村三之丞の網代陶石発見により、1641年には平戸藩の命で三之丞を棟梁として磁器の窯が設置されました。
藩窯の誕生です!
そしてこの最初の藩窯は、高麗媼 の開いた長葉山窯に置かれたといわれています。
別の言い方をすれば、高麗媼 は、最初の藩窯に参加したのです。
こうして巨関と高麗媼 を中心とする2つの朝鮮人陶工の流れが、三川内の地で1つになりました。
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さらにその数年後には、三川内の他、木原、江永にも製陶所(出張所)がつくられました。九州では、古くからやきものを焼く里を「皿山」といいますが、この3つを指して「三川内三皿山」と呼びます。
その後 平戸藩は、 1650年に平戸にいた全ての主力陶工を三川内に移し、御用窯としての体制を整えました。
その体制のもと、1662年には、巨関の孫にあたる今村弥次兵衛が、もとから使っていた網代陶石と、新たに発見された熊本の「天草陶石」のブレンドに成功し、純白の磁器を完成させました。
三川内焼の磁器としての技術を確立させたのです。
この天草陶石の真っ白い磁器は、後の国内外における三川内焼の発展にとって、とても重要なものとなりました。
それだけでなく、弥次兵衛は染付や細工などの技術を駆使し、優れた作品を次々と生み出して、平戸藩の藩窯を大成させたといわれています。
これが、巨関、高麗媼 と並んで、今村弥次兵衛が三川内焼発展の功労者と言われる所以です。
三川内の里にある「釜山神社」には高麗媼 が、
「陶祖神社」には “如猿” こと今村弥次兵衛が祀られています。
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“如猿”とは、平戸藩主が今村弥次兵衛に与えた称号なのですが、これにはちょっと面白いエピソードがあります。
色黒で猿のようだった弥次兵衛は、“猿の如し” の名に心がおさまらず、猿がペロッと舌を出して三番叟(能や歌舞伎の演目)を踊る人形をつくり、献上しました。
ところが、その面白さが藩主やオランダ商人たちにウケて評判となり、大量に輸出されるようになったと伝わるそうです。
ナポレオン三世の皇后も買い求めたのだとか。
私は残念ながら実物を観ていないのですけれど、首や舌が動くそうですから、それは楽しそうです。
その「舌だし三番叟」の作陶には高度な技術を要するそうですが、現在もたった1軒、「嘉久房窯」において一子相伝で受け継がれています。
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次回へ
三川内焼の誕生については 言い訳をしつつ、長くなってしまいました。
うつわの個性は、誕生した土地の歴史や風土によって育まれるものだと思っています。
ですから、私なりに ちょっと丁寧に書いてみたいと思ったのです。。
長文をここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。
次回はもう少したくさんの写真を添えながら、うつわの特徴や里の様子を綴りたいと思います。
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2月6日 「後編」をアップしました。