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英国王チャールズ3世戴冠式とヘンデル 

はじめに

昨日、2023年5月6日、ロンドン、ウェストミンスター寺院にて英国王チャールズ3世とカミラ王妃の戴冠式が執り行われました。
 
英国王の戴冠式ではヘンデルの《戴冠式アンセム》の演奏が恒例となっており、今回も演奏されていました。演奏されたのはカンタベリー大司教が新国王に油を塗る(塗油:とゆ)という最も神聖な場面においてでした。
昨夜はテレビ朝日がライヴ中継するとのことで期待して観ていたのですが、現場のライヴ中継はほとんどなく、スタジオでの雑談に終始していました。
このため、肝心な塗油の場面(囲いの中で行われた)はほんの一瞬しか映りませんでした。一瞬ではありましたが、《戴冠式アンセム》の中の最も有名な曲「祭司ザドク」が演奏されていることは確認できました。

以下、ヘンデルの《戴冠式アンセム》について解説していきますが、その前に、そもそも「王」とはなにか、「戴冠式」とはなにかについてのお話から始めましょう。 

1. 王とは、戴冠式とは:イスラエルの初代王サウル


戴冠式とは神から王権を授かる宗教的儀式で、司祭が神に代わって王に油を注ぎ(塗油:とゆ)、王権の象徴である王冠を頭上に被せるのです(戴冠)。
 
キリスト教との関連において、初めて王がイスラエルの民を統治するようになるのは紀元前11~10世紀頃のことです。
王権は人間が勝手に創り出したものではありません。
神がふさわしいと認めた人間に絶対的な統治権(人を裁く権利、徴税や徴兵の権利)を与えたのです。
 
その経緯は旧約聖書『サムエル記:上』第8章に書かれています。
以下はその概略です:
イスラエルの民がまだ王をもたなかった頃、彼らは周辺の異教徒の国と同じように自分たちにも王が欲しいと願うようになります。預言者サムエルがその願いを神に伝えると、神は「王は不当な徴兵や徴税によって民を苦しめることになる」と警告します(ここですでに「権力者は必ず腐敗し、圧制によって人々を苦しめる」と、独裁が孕む危険性について指摘していることに驚かされます)。
しかし、神の警告にも拘わらず民衆が強く王を求めたため、預言者サムエルは青年サウルに油を塗って王とします。こうしてサウルがイスラエルの初代の王となりました。
 
補足:ヘンデルは旧約聖書の登場人物を題材として多くのオラトリオを作曲していますが、このサウルも傑作オラトリオに仕立て上げています。ヘンデル・フェスティバル・ジャパン(HFJ)は2014年1月に《サウル》を演奏しました。
 

HFJ《サウル》公演チラシ

2. ヘンデルの《戴冠式アンセム》


ヘンデルの《戴冠式アンセム》はジョージ2世とその妻キャロライン王妃の戴冠式のために作曲され、1727年10月11日、ウェストミンスター寺院で執り行われた戴冠式で演奏されました。
 

作曲の経緯

1727年6月11日、ジョージ1世がハノーファーからイギリスへの帰途、急死すると、その長男ウェールズ皇太子フレデリックが即座に王位を継ぎ、6月15日、ジョージ2世を宣します。

戴冠式は10月に予定されました。
このような国家的行事のための音楽は本来、王室内の音楽家の最高位に就いていた「王室礼拝堂オルガニスト兼作曲家」モーリス・グリーンの仕事でした。しかし、ヘンデルと親密であった新国王ジョージ2世はグリーンではなくヘンデルに作曲を依頼したのです。
先に投稿した『英国王室とヘンデル』でも述べたとおり、ジョージ2世は元々ヘンデルを「王室礼拝堂オルガニスト兼作曲家」に任命したかったのですが、側近たちの抵抗でやむなくモーリス・グリーンを任命しました。しかし、ジョージ2世は王室の結婚式、葬式、戦勝祝いなど、重要な行事ではグリーンではなくことごとくヘンデルを指名していきます:

《アン王女のための結婚アンセム》
《フレデリック皇太子のための結婚アンセム》
《キャロライン王妃のための葬送アンセム》
アーヘン和約記念の《王宮の花火の音楽》
などなど。
(英国王室とヘンデル作品の詳細については2023年5月3日投稿の『英国王室とヘンデル』をご参照ください)

この状況はグリーンにとっては屈辱的ですが、当時すでにヨーロッパ中に大作曲家として名を馳せていたヘンデルとグリーンとでは勝負になりません。この二人の地位と実力の関係は、映画『アマデウス』で描かれたウィーン宮廷楽長(最高位)のサリエリとモーツァルトの関係と同じですね。

戴冠式当日

1727年10月11日、ウェストミンスター寺院においてジョージ2世の戴冠式は盛大に執り行われました。その式典の中でヘンデルの《戴冠式アンセム》が演奏されました。

この《戴冠式アンセム》は以下の4つのアンセムから成ります。
 
Zadok the Priest「祭司ザドク」 (HWV 258)
Let thy Hand be strengthened「あなたの手は強く」 (HWV 259)
The King shall rejoice「主よ、王はあなたの力によって喜び」 (HWV 260)
My heart is inditing「私の心はうるわしい心であふれる」 (HWV 261)
(HWV=ヘンデル作品目録番号)
 
補足:アンセムanthemとは英国国教会の礼拝用の音楽です。分かり易く言えば、バッハが数多く作曲していることで有名なルター派の礼拝用音楽、つまり「教会カンタータ」と同種の音楽です。
 
これを演奏するには大規模な合唱(7声や6声)、大編成のオーケストラ(オーボエ2、トランペット3、ティンパニを含む)を必要とします。このため、王室礼拝堂付きの聖歌隊、王室付きの器楽奏者たち、それに劇場からの音楽家たちも駆り出され、合唱40名、管弦楽160名、総勢200名という巨大編成での演奏となりました。
これら4曲は一挙に演奏するものではなく、式次第に沿ってそれぞれふさわしい箇所で演奏されていきます。リハーサルまでは順調で、前評判は高まっていたにもかかわらず、戴冠式当日の演奏は惨憺たるものだったようです。式順と音楽がかみ合わなかったり、一部演奏されなかったりという不手際が生じてしまったのです。
とはいえ、「塗油」の場面で演奏された「祭司ザドク」は当時から人気を博し、以後、英国王室の戴冠式の度に演奏され続けているのです。
 

Zadok the Priest「祭司ザドク」について

《戴冠式アンセム》中、最も有名なのがZadok the Priest「祭司ザドク」です。
その壮麗さ、壮大さは《メサイア》のハレルヤやアーメンをも凌ぎ、ヘンデルの合唱音楽の最高峰と言っても過言ではありません。
 
その歌詞の冒頭はこうです:
Zadok the Priest and Nathan the Prophet  祭司ザドクと預言者ナタンが
anointed Solomon King.          ソロモンに油を塗って王とした。
 
(歌詞は英語ですのでZadokはゼイドク、Nathanはネイサンと歌います)
 
このあとの歌詞も、民衆がそれを喜び、ソロモンに神の加護と、とわの長寿を願うというものです。
このように「祭司ザドク」が直接的に称賛しているのはソロモン王なのです。
ソロモンは初代サウル王、第2代ダヴィデ王に続く第3代の王ですが、なぜ、ジョージ2世の戴冠式なのに、ソロモンを賛美しているのでしょうか?

それはソロモンがイスラエルの歴代の王の中で最も偉大で知恵のある名君と称えられているからなのです。つまり名君ソロモンと重ね合わせることで間接的にジョージ2世を讃美しているのです。

では、「祭司ザドク」がどれほど素晴らしい音楽か、実際の演奏をお聴きください。
ヘンデル・フェスティバル・ジャパンが2019年1月に演奏したものです。
 
聴きどころ:
ピアニッシモ(pp最弱音)で開始したオーケストラの序奏が、寄せては返す波のように徐々に徐々に大きなうねりとなって高揚し、とうとう最高潮に達するとトランペットとティンパニを伴った壮麗無比の7声(SSAATBB)の大合唱が始まります。合唱の始まる瞬間まで約1分30秒ですが、この瞬間の衝撃的なこと。これぞヘンデル音楽です!

第3代イスラエル王ソロモン=「知恵の王」

ジョージ2世でなくとも、王であれば誰しも名君ソロモンに喩えられるのは最高の栄誉でしょう。

では、なぜソロモンは名君と呼ばれるのでしょうか?

「祭司ザドク」の歌詞の出典は旧約聖書『列王記上』第1章、第38-40節です。ここにはソロモンが祭司ザドクと預言者ナタンによって油を塗られて王となったことが記されています。

王となったソロモンの夢枕にある時、神が現れ、欲しいものがあればなんでも与えようと言います。ソロモンは迷わず「知恵を」と答えます(『列王記上』第3章、第5~15節)。
富や名声、金銀財宝や武器などではなく、「知恵」を願うところがとても意味深いですね。政治家は皆こうであって欲しいものです。

「知恵の王」ソロモンを象徴する「名裁き」のエピソードがあります:
『列王記上』第3章、第16-28節
 
あるときソロモンの前に一人の赤子と二人の母親が現れ、それぞれが「我が子」と主張します。二人の母親が譲らないため、ソロモンは「それでは赤子を刀で真っ二つに切って、半分ずつ取るように」と命じます。
実は偽りの母親はその頃、自分の子を失ったばかりで、目の前の母子への妬みから、他人の子を自分の子と言い張っていたのです。ですから、赤子が生きていようが死んでいようが構わないのです。彼女は喜んでソロモンの裁きを受け入れます。
一方、真の母親は我が子が殺されるより、他人の母親のもとでも生きていて欲しいと願い、赤子は相手に譲ってあげて欲しいと答えます。
ソロモンは二人の母親の反応から真の母親を判別し、ハッピーエンドとなります。

このようにソロモンは善政によってイスラエルにかつてない繁栄をもたらしました。彼は領土を広げ、イスラエル最初の神殿を建築し、賢い裁きによって民の支持を得たのです。
(ところがソロモンはのちに多くの妻や側室を抱え、堕落してしまうのですが、この部分はあえて目を瞑っているようです)
なにはともあれ、戴冠式アンセムの歌詞として、祭司ザドクの塗油によってソロモンが王権を授かる場面ほどふさわしい箇所はないのです。
 
ヘンデルはソロモンを題材としたオラトリオも作曲しています。その第2部がこの「名裁き」の場面です。ヘンデル・フェスティバル・ジャパン(HFJ)は2019年1月にオラトリオ《ソロモン》を上演しました。
先にご案内したYouTubeの「祭司ザドク」はこの《ソロモン》の演奏会のアンコールとして演奏したものです。

HFJ《ソロモン》公演チラシ

ヘンデルのオラトリオ《サウル》も《ソロモン》も素晴らしい作品ですので、また別の機会にご紹介します。


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