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チョコ猫を抱きしめて

【あらすじ】
絵描きを目指す神永ヒビカは、あることをきっかけに、自分の才能を疑い出す。そうして失意に陥る。
そんな少年へ、「火をつければ姿を消せる」という「闇のロウソク」を手渡す老人が現れる。
ヒビカが決めかねているうちに、ロウソクになぜか火が灯ってしまう。そうしてヒビカは現実世界から姿を消し、不思議な世界へ迷い込むことになる。
そこは、チョコレートの猫がいたり、お菓子の成る木があるような世界だった。
そこでヒビカは、何を見出し、元の世界へ帰ってくるのか…


 思えば僕は、どうしてチョコ猫と一緒に歩いているんだろう?
 ふいに、ヒビカはそう思った。こんな不思議を受け入れている自分も不思議だ。
 チョコレートの猫は、まるでアニメーションの猫のようにノッペリとしている、目の青い猫だった。パッと見るだけでは、ただの黒猫にも見える。けれど猫からは、甘い匂いが絶えず香っていて、それはやっぱりただの猫ではない。
 チョコ猫は、しなやかに首をひねって、ヒビカを見上げる。
 そしてヒビカに、こう尋ねた。
 「何を考えているんだい?」
 「いや、考えてるというか…、この不思議な出来事をもう一度思い出してるんだ、はじめから」……

 …はじめから、思い出す。
 その頃、神永ヒビカは、いよいよ居場所を失くした少年だった。
 ヒビカは、学校で美術の先生をしている母を持ち、彼もまた、絵の才能があった。そうして幼い頃から、絵を描いては親に褒められ、その道へ進むことを期待されていた。
 ヒビカの方も、画家か、漫画家か、アニメーターか、とにかく、絵を描く将来を、よく夢に見た。
 そんな少年が、同級生とアニメの話をすると、こうなる。
 まず同級らは、仲良くなるきっかけに、好きなキャラクターや話の内容について語る。
 対してヒビカは、
 「背景美術がひどかったなぁ。描いた人が、自然を知らない都会の人なんだろうなって思った」
 などと言う。
 すると、周りはポカンとする。
 それからヒビカは、特にイジメられたりしたわけではなかったが、けれど、新学期からしばらく経ち、なんとなく居心地が悪くなって、彼の方からひとりになった。
 それもそのはずかもしれない。
 中学一年生の男子が、ゴッホだとかムンクだとか、そんなことで頭がいっぱいになることは、なかなかない。
 そうして彼の居場所は、「絵の中」ということになっていた。
 そんなある時、美術の授業で、好きな風景を描くことになった。
 当然ヒビカは、45分の授業の中でも、自分に印象されている田園の風景を力いっぱい描いた。
 けれど絵は、未完に終わった。力いっぱい描こうとしただけに、未完に終わってしまった。手を抜けば、完成させられたかもしれない。けれど、それはできない。
 ヒビカは、授業の時間が短いの憎んだ。そして、美術の先生を憎んだ。
 ヒビカは、家に帰ったら、
 「美術の先生のくせに、絵を描くのに時間を取らなかった」
 と、母親にグチろうと思った。
 「それはひどいね。私だったら三週間ぐらいかけてやらせてあげるわー」
 そう母が言うのが、ヒビカには想われる。
 きっと言う。それを確認するためにも、帰ったら必ず話そう。
 ヒビカはそう思いながら、自分の絵を提出するために、先生の前に立った。
 そのときだった。
 ヒビカは、先生の机の上にある一つの絵に目がいった。
 そこには、暗くて陰うつな、けれどきれいな庭の絵が描かれていた。
 ヒビカはそれに惹かれた。
 完成された絵だった。それは、描き終えているという意味ではなく、「自分の描き方」が確立されているという意味において、完成されていた。
 ヒビカは、先生の絵だと思って、
 「これは…」
 と、訊くと、先生は、
 「別のクラスの子の絵だね。一番すごいと思ってね」
 と言った。
 「…」
 ヒビカは、あぜんとしてしまった。自分の絵を提出するのが、とたんに恥ずかしくなった。けれどそこに、ぽつねんとしているわけにもいかない。
 ゆっくりと自分の絵を先生に手渡す。見られたくないものを見せるように。
 「おお! 神永くんもずいぶん上手いね! …完成はできなかったの?」
 「はい…」
 「完成はできなかったの?」と、先生がきいたのはきっと、授業内に描き終えることはできなかったのか、という意味だっただろう。
 けれどヒビカには、「自分の描き方がない」ことを指摘されたように思われた。
 そうだ、僕は、有名な絵画の真似事しかしていない。この絵だって、モネの真似だ。でも別のクラスの子の絵は違うように思う。僕とは違う。風景が、自分にとってどう見えているのかを、自分の力でちゃんと表現できている…。
 そのあとも先生は、ヒビカの絵を褒めた。けれど、褒められている人というよりは、まるで怒られている人のように、ヒビカは、うついてそれを聞いていた。

2
 …ヒビカはその日の帰り道、ぼうっとしていた。それは、赤信号を渡ってしまいそうなほど、危なかった。それほどに彼は、失意の中にいた。
 心にヒビが入るのを感じていた。そして心のヒビは、骨のヒビの様に、歩くたびに痛んだ。
 家に帰ると、母親が、
 「今日の美術の授業は、絵を描かせてもらえたんでしょう? 何を描いたの?」
 と、きいた。
 「…」
 ヒビカは黙ってしまった。
 「どうしたの?」
 けれど、親を心配させるわけにもいかず、ヒビカは、
 「いや…なんか、田んぼの絵」
 と言った。
 田んぼの絵。
 ヒビカは言いながら、ひどく恥ずかしい思いをした。言いながら、それだけで、稚拙な気がした。
 それからヒビカは、絵が描けなくなってしまった。いや、机に、画用紙に、向き合おうとさえしなかった。
 ただ絵の描けないのは、学校に居場所がないことより、辛かった。
 もう、どこにも居場所がない気がした。親から期待されることも辛くなった。
 むしろ今まで、一度も自分の才能を疑わずにきたのを、バカだと思った。夢の将来は、すべて白紙になった気がした。
 ただ同時に、期待されるほどの自分じゃない、と、自分に思うことほど、辛いこともなかった。
 …そうしてヒビカは、抜け殻のように日々を過ごした。
 強い風が吹けば、自分はそれで吹っ飛んぶんじゃないか、とまで考え出すほどだった。
 ヒビカは、ある休みの日、自分の部屋の窓を開けて、網戸にした。
 二階の部屋から、初夏の風景が広がっているのを、見下ろす。
 「風が吹けば…」
 そう思いながら、細かい網の目から外を眺めていた。ヒビカの頭には、空気の抜けた風船のイメージがあった。もうどこかへ吹っ飛ばされてしまいたい…。
 すると、願い通り、強風が突然に吹いた。
 風は、幽霊のうめき声のような音を立てて、窓からヒビカを襲った。
 けれどヒビカは当然、吹っ飛びはしなかった。すると途端に、体が重く感じられた。ヒビカはそれだけで、本気でがっかりした。
 「僕はこれから、どんな大人になるんだろう…」
 そんな不安が、押し寄せてくる。
 風で膨らんだカーテンが、ヒビカを飲み込むように、戻ってくる。
 ヒビカは窓を閉め、カーテンから出た。

 「キミが、ヒビカかな?」

 突然、部屋の中で、見知らぬ老人の声がした。
 ヒビカは、あわててその方を見た。
 そこには、黒いローブに身を包んだ、老翁がいた。頭の上には、黒いとんがり帽子をかぶっていた。
 「え!?」
 「ここに、ロウソクがある」
 老人は、ヒビカを無視して話し始めた。
 「いや、…え?」
 家に親はいない。
 警察を呼ぶべきだろうが、彼にバレずに電話するには…などと、ヒビカは心拍数を上げながら、必死に考えていた。
 老人は、提灯の中のロウソクを見せ、話を続ける。
 「これは『闇のロウソク』だ。火をつければ、キミは蝋の溶けるまで、その存在を消すことができる」
 なにを言っているんだろうか?
 老人は、妙に優しい声で語る。それはヒビカのこれまでを労わるように。
 「今のキミにちょうどいいだろう。火をつけなさい。それでキミは、キミの望む時まで姿を消せる。その間は、キミじゃないキミが、キミの代わりをしてくれるはずさ。みんな、そういう時があるものさ」
 そこまで老人が言ったとき、閉めたはずの窓が開いていて、そこから風が吹き込んできた。
 驚いてヒビカは、窓を見る。
 そうして、もう一度視線を戻すと、そこにはもう、老人はいなかった。
 ただ、部屋の床に、提灯とロウソクだけが、残っていた。


 …その日、ヒビカは上の空に過ごした。
 夜ご飯を食べた気がするし、風呂に入った気がする。
 そんな風にして、今、ベッドの上に横になっていた。初夏にしては、妙に寒い夜だった。
 部屋の机の上には提灯とロウソクがある。どうやらそれらは、親には見えていないようだった。触れることさえできなかった。そのため、今日の出来事は、全く信じてもらえなかった。
 ヒビカは毛布にもぐり、その暗闇を見ながらあれこれ考える。
 考えていると、
 「火をつけなさい」
 と、あの声が聴こえる。
 幻聴…?
 自分であの声を思い出しているか、それとも本当に耳に聴こえてきているのか。
 幻聴は、遠くで、けれど、耳元で、聞かれるように感じた。
 「きっと、キミに必要な時間だ」
 必要な時間。それはそうかもしれない…。老人の諭されるような口調に、ヒビカはすでに心を許して始めていた。
 毛布の中の暗闇はどこまでも続いているように思われた。その終わりを見ようと、ヒビカは余計に目を開いてみた。もちろん、手を伸ばせばそれは、ただの毛布でしかないはずだった。
 なのにヒビカには、深い洞窟のように見えた。そうして夢うつつになってくる。布団に接している体の感覚が消えてゆく。自分が立っているのか、横になっているのか、それさえわからない。
 洞窟の奥から、老人がやってきた。
 ヒビカはもはや、驚きもしなかった。
 「一つ言い忘れていた。ロウソクはいずれ消える。それまでの間、キミは姿を消せるわけだか、ただ…、気をつけるべきことがある。闇の世界とは、自らの想像が影響しやすい世界だ。それを忘れてはならん。いいね?」
 そこまできいて、ヒビカは、あわてて毛布から出た。溺れた人が、水面から顔を出すように。
 体はひどい汗をかいている。
 「…」
 いやいや! あんなじいさんの言葉を信じていいのか? 騙されていたとしたら…
 …ヒビカはそれから先のことを覚えていない。
 ただ目覚めると、もう月曜日の朝だった。
 起き上がって、机の方を振り返ると、やっぱりロウソクはあった。
 静かに、誰かが火をつけるのを待っているようだった。


 教室に入ると、熱心に勉強しているクラスメイトが数人いるのに目がついた。
 そこでヒビカは、テストが近いことを思い出した。
 ヒビカの成績は、良くも悪くもなかった。彼には勉強よりも、絵を描いている方が楽しく、集中もできた。
 けれど勉強は必ず未来に繋がる行為である。
 対して僕のしてきたことは、本当に未来につながっているのだろうか?
 ヒビカはまた、ひどい不安に襲われた。絵を描くことよりも、勉強することに時間を使っていた方が、ずっとよかったのではないか。
 そんな、今までの自分を否定する自分が脳にうまれた。
 「火をつけなさい」
 直接耳に聞こえるはずの環境音を踏みつけて、幻聴が耳に貼り付く。
 「闇のロウソクに、火をつけなさい」
 その方がいいかもしれない。ヒビカは、口の中で、そう独りごちた。

 家に帰ってくると、ヒビカはさっそくロウソクの前に立った。ライターを右手に持って。
 老人の言うことを信じるなら、それなりの時間、自分は姿を消せる。その間は学校を休める。すれば、じっくり考えることができる。

 自分に描けるものは、なにか、を

 そのための時間にしよう。
 とまで、ヒビカは思ったが、けれどやっぱり、老人を信用していいのだろうか。このまま神隠しにでもあわないだろうか。という疑念が、ヒビカに根強く残っていた。
 そうしてヒビカは、じっとロウソクを見つめたまま、数分経った。
 すると、ロウソクから、煙が立ち始めた。
 「え!? え、え!?」
 そして、

 バァ!

 と、音を立てて、ロウソクにはなぜか、火がついてしまった。それは、熱くも明るくもない、しずかな火だった。
 けれどロウソクには、確かに火がついた。火はついたが、ヒビカの体には、なんの変化も見られなかった。いつも通りのように感じる。
 本当に、姿が消えているのだろうか。
 ためしにヒビカは、机に触れてみた。すると手は、机をすり抜けた。
 「え…」
 本当だった。僕は、幽霊のようになってしまった。
 想像通りと言えば想像通りではあったが、それでもやっぱり、ヒビカは自分の状況に、驚いていた。
 するとそこへ、家の玄関のドアが開く音が聞こえた。
 母親が帰ってきたのだった。
 ヒビカは、ドキドキしながら、少し、恐怖心もありながら、母と向かい合った。
 「ただいま」
 と、母はヒビカに言った。
 「え?」
 ヒビカは、驚いた。
 けれど母親は、「今日? 今日はお刺身にするつもりだよ」
 と、誰かと会話を始めた。それは、ヒビカに向かって言っているようだった。

「キミじゃないキミが、キミの代わりをしてくれるはずさ」

 ヒビカは、老人の言葉を思い出した。
 そうか、今ここには、僕じゃないボクが居て、そのボクと母は会話をしているのか。
 ヒビカは試しに、
 「ねえ、お母さん!」
 と、大きな声を出してみた。母は無視した。いや、無視というよりむしろ、「聞こえていない」のだろう。
 「やっぱり…」と、ヒビカは独りごちたが、それも母には、聞こえていないようだった。
 母はそのあとも、ヒビカに見えないヒビカと、会話をしているようだった。
 それは最近のヒビカと会話するより、楽しそうだった。
 そして母は、
 「よかった、元気になってくれて」
 と、言った。

 !

 ヒビカは驚いた。
 そっか…、僕は、お母さんを心配させていたんだ。と、気がついたのだった。
 そして、
 「ごめん、お母さん。まだ本当には元気じゃないんだ…」
 と、言った。それもやっぱり、母には聞こえない。ヒビカは、それが母に聞こえないことに、安心していたような、本当は聞いてほしいような、矛盾した気持ちになった。
 ただヒビカは、母親の笑顔を見て、安心していた。
 よかった。今の本当の僕じゃ、きっと笑顔にさせられない…。そう思うと、ヒビカは、いよいよこの状況を受け入れる他ないような気がした。
 そうしてヒビカは、
 「ちょっと待ってて。お母さん」
 と、きこえない声でも、わざわざ口にしてつぶやいた。


 それからヒビカは、家にいたり、外を散歩したり、ロウソクの時間を、好きに過ごした。
 どうやら体は、本当に幽霊で、腹は減らない、そのため便所に用もない。
 けれど体が幽霊であると、ペンを持つことも叶わなかった。もし描きたいものがあるならば、ロウソクの火を消さなければならない。
 ただそうすればどうなるのだろう。ヒビカにはそれがわからなかった。もしかすれば永遠に、この時間が奪われてしまうかもしれない。ヒビカは、勝手にロウソクに火がついたとは言え、この状況を受け入れていた。
 ヒビカには、親に向き合うにも、画用紙に向き合うにも、もう少しこの時間が必要だった。彼はそう感じていた。
 ただ一方で、ペンを持って、白紙に落書きしているうちに描きたいことが思いつくこともある。そういう場合が、ヒビカには時々あった。その意味で体をもう一度、手にしたい考えが起こることがあった。
 「まあ、ホントに描きたくなるか、わからないし…いいや」
 そう思って、ただ絵になる風景を探しに散歩だけをよくした。
 ただ、すでに「暇」を感じつつあった。

 『闇のロウソク』に火がついてから、二日目のことだった。
 ヒビカは、幼い頃、よく友達と遊んだ廃墟のドームまで散歩した。
 それが絵になると思ったからだった。そして実際来ると、古ぼけた青いドームは、思ったりより小さかったが、美しいものとして、受け入れられそうだと感じた。
 ドームの目の前までくると、妙な好奇心が、ヒビカに働いた。
 「中はどうなってるんだろう」
 ヒビカは姿を消してからというもの、こんな独り言を、知らずのうちによくするようになった。
 ドームには扉がある。ツルが絡まっているが、ヒビカはそれを無理やり開けた。
 ドームの中は、変に綺麗だった。何のためのドームだったのかわからない、ただ、真ん中に木が一つ、不気味に植えられていた。
 ドームは青いガラスで囲われていて、そこから日がさして、中は明るく綺麗だった。
 こうしてみると、中の方が、絵になるかもしれない。ヒビカはそう思いながら、木の目の前まで来た。
 不思議な木だった。打ち上がった花火のように、枝が垂れていて、そこに、リンゴのような、ブドウのような、あらゆる実がなっていた。とてもこの世のものとは思われない。
 その木に成る実の見た目は、まるで、星だった。
 ヒビカは心のうちで、「星の木」と名付けた。
 ふと、ヒビカはここで老人の言葉を思い出した。

「闇の世界とは、自らの想像が影響しやすい世界だ」

 と、言っていたあの忠告。
 この木は…、いや、もしかすると、このドームさえも、自分の想像かもしれない。こんなドームも、本当はとうになくなっていて…
 夢でも見ているのかもしれない。ただ、絵になるのなら、なんだって構わない、ヒビカはそう思って、この世界を眺めていた。
 ヒビカは星の木に成っている、青い星を見ていた。それは、あまりに美しく、今は触れられない体なのに、ヒビカは思わず手を伸ばした。
 けれど星に、手が届いた。

 「え?」

 星は、触れることができた。
 すると星は、ヒビカの触れるのと同時に、強い光を放った。あまりのまぶしさに、ヒビカは思わず、目を閉じる。
 そして、ゆっくりと目を開けた。まるで催眠術を解くように。
 目を開くといつの間にか、ヒビカは知らない道端にいた。そこはさっきまでのドームでもなければ、ドーム近くの道というわけでもなかった。
 ただ、光にも似た、白い道が宇宙に浮かんでいて、その上にヒビカは居るのだった。
 これもまた、自分の想像の世界だろうか?
 …道の先には、地球にしか見えない、星が一つあった。道と星、それだけの世界だった。


 星の手前には、誰かがいる。その人は四角い台の上に立って、指揮者の動きをしている。
 ヒビカはそこまで歩く。白色の道を。
 「あの…」
 「ん? キミは誰だね」
 指揮者の老人は、台からおりて、指揮をやめた。老人は、ヒビカに驚く様子もない。
 「神永ヒビカと言います。あなたは?」
 「エニー。ここで星の指揮者をしている」
 エニーは禿頭で、アゴからは長いヒゲが伸びていた。エニーもまた、「闇のロウソク」を渡した老人同様、ローブを着ていた。
 「あの星は、地球ですか?」
 「私にはわからない。ただ指揮をしているだけだ」
 「星は、あなたの指揮のとおりになるんですか?」
 「いや、星は、楽譜通りに鳴っている。星は今、静かだ」
 「…」
 「キミはなぜここに来た」
 「…」
 ヒビカが返答に困っていると、
 「そのロウソクで来たのか?」
 と、エニーが言う。
 するとなぜか、ヒビカの右手には提灯が握られていて、そこにはロウソクが灯っている。
 「あれ? なんで…」
 もちろんヒビカは、ここまでロウソクを持ってなどいなかった。
 「その火を消しなさい。すれば、キミは元の世界へ帰れるはずだ」
 ヒビカはまた、黙ってしまった。確かに消した方がいいのかもしれない。それで、テストのための勉強でもした方がいいかもしれない。そんなことを思う。
 けれど、消せない。ロウソクなんだ、どうせいずれ消える。闇のロウソクを見ると、確かに溶け始めていた。
 それならまだ、この時間を終わらせたくない。いつまで続くかわからないこの時間を、けれどまだ、終わらせたくない。
 それは、怠惰のような、熱意のような、そうしたあらゆる感情が、ヒビカをそうさせていた。

「早く、消しなさい!」

 エニーは突然、怒鳴るように、大きな声を出した。ヒビカは思わず、ビクッとした。そうして、ヒビカは、声を震わせながら、
 「…、どうして、そんな…、僕の火を消させようとするのですか?」
 この老人は…、エニーは、どこまで僕のことを知っているのだろうか?
 エニーは、今度は、やさしく目の前の少年に語った。
 「それが危険なものだからだ。キミにはまだ症状が出ていないようだが、その火が続くと、そのうちにキミの体はだるくなり、精神は壊れ、世界を、人間を、呪うことになるかもしれないんだ」
 「…」
 「世界を呪うことは…自分を嫌うことになる。いや、あるいは、自分を嫌うから、世界を呪うのかもしれん。とにかく、危険なものだ」
 そんな副作用が、このロウソクにあるのだろうか? いや、でも、たしかに…。
 「うすうすわかっているようだね。なら、さあ、消しなさい」
 「でも…、『誰にでもこういう時があるもの』ではないんですか?」
 ヒビカは、ロウソクをもらった老人から聞いた言葉を思い出して、それを引用するように言った。
 「…」
 今度は、エニーが黙った。
 「それにこれは、ロウソクです。いずれ消えるものなんでしょう? あと…、火が灯ってます。だから何だって話かもしれませんが、でも、きれいな火です。勇気がでます。僕は…、この時間をボクと向き合うために使うつもりなんです!」
 「…。んー。そうか…、まあ、キミのことだ、キミが決めるべきなんだろう。ただ、アドバイスではないが、キミは『星の木』からここへ来たようだが、あの木には、他にも星があったろう?」
 「あれ本当に『星の木』って言うんだ」と、ヒビカは思いながら、返答に「はい」とだけ言った。
 「ならすべての星に触れて、星々を旅するといい。すればさっき言ったような症状から逃れられるかもしれん」
 「…そうなんですか。…ありがとうございます。そうしてみます」
 ヒビカはそう答えながら、エニーに僕は試されていたんじゃないか、と考えた。
 エニーの顔をみる。この人が神様だと言われたら、納得するような気がした。僕のことを見通していたのかもしれない。
 「さて、指揮をしなければ」
 そう言ってエニーはまた、台の上に立った。
 「ああ、そうだ。キミはあの扉から、帰ることができる」
 エニーは振り返って、星とは反対の方向を指揮の棒で指し、扉があるのを示した。
 「ありがとうございました」
 ヒビカは礼を言って、その扉まで歩いた。
 その扉を開くと、どういうわけかそこは、ドームの入り口になっていた。


 また、星の木の下へくる。
 扉をくぐると同時に、ヒビカに握られていた提灯は姿を消した。
 ただ、それでもヒビカはなんとも思わなかった。「どうせ消えるものだから」と考えていたためだった。そしてそれは実際、そうだった。ロウソクは、刻々と、静かに、溶けていた。
 星の木に成っている星は、エニーのいる星を含めて、四つだけだった。
 あと三つの星を旅しよう。
 そうしてヒビカはまず、エニーの星のとなりにあった、緑色した星に触れた。
 すると、やっぱり強い光に包まれた。そうして目を開くと、その星の中にいるのだった。

 そこは夕暮れの森だった。星に来ると、ヒビカの上半身は、幽霊ではなく、実体として、はっきりした。肩に重力ののしかかるのさえ、感じた。まるで、地球に帰還した宇宙飛行士のようだった。
 試しに、近くの木に手を伸ばす。触れることができた。
 ああ、体だ。ヒビカはそう思った。
 何かに接すること、触れることは、人間にとって当たり前のことであり過ぎるため、ヒビカには、それがたったの二日ぶりであろうと、あまりにも懐かしく感じられた。ただ一方で、下半身は幽霊のままだった。半分生きていて、半分は生きていない。
 それでも夕暮れの木漏れ日の、日の温かさも、久しぶりで、ヒビカはうれしくなった。
 そうして、この感じを絵にしたらどうだろうと思った。ヒビカはそう思いながら、木に触れていると、どこからか、子供たちの声が聴こえてきた。おそらく自分より、とっても幼い子供の声だ。
 ヒビカはあたりを見渡した。けれど、どこにも子供たちの姿は見えなかった。ただ、その楽しそうな声だけが、聞こえてくる。
 そう言えばこの星には、エニーのような人はいないのか、と、ヒビカは不安になってきた。
 すると暗い森の中から、一匹の黒猫がテクテク歩いてきた。
 ヒビカと猫とは、目があった。猫はよくみると、茶色い色をしていた。それはまるで、チョコレートのような色だった。

 「キミがヒビカ?」

 「え?」
 猫がしゃべった…。まるで映画の世界みたい。
 「話せるの? てか、どうして僕の名前を…」
 「そりゃ、ずっと前から知ってるよ」
 ずっと前から?
 「ついてきて!」
 猫は歩き始めた。ヒビカは混乱しながら、ついてゆく。
 歩きながら、ヒビカは話す。
 「キミは、毛のない…なんというか、」
 と、ヒビカが言い切らないうちに、
 「チョコレートで出来た猫なんだよ。みんな『チョコ猫』って呼ぶ」
 「チョコ猫…、どうりで、イイ匂いがするんだね」
 「…、食べないでよ」
 「食べれるの?」
 「教えない。てか、食べれたら食うつもりなの?」
 「いやさすがに、そんなことはしないけど…、興味本位だよ」
 「なんか、信用できないかも」
 「え! いやいや! 信じてよ。食べない食べない!」
 「ボク…おいしよ?」
 「え?」
 「あ! 今うれしそうな顔した!」
 「してないって!」
 「した! した!」
 「してません!」
 「ふふふ」
 チョコ猫は青い目を細めて笑った。ヒビカも思わず笑った。
 「…ねえ、どうして僕のことを知っていたの?」
 ヒビカはさすがに、訊かずにいられなかった。
 「…」
 チョコ猫は黙っていた。
 「ねえ、無視しないでよ」
 「…キミが忘れたんだよ」
 と、チョコ猫はいじけたように、小さく言った。
 「え?」
 けれどヒビカにそれは、聞こえなかった。
 「リリィって人に教えてもらったんだ」
 チョコ猫は呆れたようにヒビカに教えた。
 「リリィ? そんな人僕は知らないよ?」
 「いいや、知ってるよ。キミに闇のロウソクを渡した人だもん」
 あの老人…?
 「あの人、リリィっていうんだ」
 「そう。さあ、もうちょっと歩くよ」
 そうしてヒビカは、チョコ猫の案内する方へ、続いた。
 歩きながらヒビカは、いろいろのことを考えていた。
 目の前でチョコ猫は、短い歩幅でテクテク歩いている。尻尾が時々、左右に動く。
 不思議な猫だ。絵にしたら、かわいいだろうな。
 ただ、なんなんだろう、この世界は。「絵になれば」と、つかつかどこまでも来たけれど…。まず本当に僕の想像の世界だろうか。いや、違う。ぜったい違う。
 考えれば考えるほど不思議だ。ただ、世界はある。森を見渡す。隅々まで森だ。そこまで歩けばきっと、またその先に世界は広がっているに違いない。
 思えば僕は、どうしてチョコ猫と一緒に歩くことになったんだろうか。
 もう一度思い出そう。ヒビカはそう思っていた。
 「何を考えているんだい?」
 するとチョコ猫が、そんなヒビカの様子を見て、尋ねた。
 「いや…考えてるというか、この不思議な出来事を思い出してるんだ、はじめから」
 「ふーん。そう」
 ヒビカは歩きながら、これまでの一つ一つを思い出し、終局的にはやっぱり、「絵を描く人を目指すか、それとも潔く、もう諦めるか…」と、悩むのだった。

 チョコ猫についてゆくと、そこには、ドームがあった。ヒビカには、見覚えのあるドームだった。
 「このドームって…」
 「キミはここから帰れる」
 やっぱり…。
 「ヒビカは帰った方がいい。帰ってロウソクを消すの」
 エニーと一緒だ。
 ヒビカはそう思って、「また」という多少のものうさを感じた。僕はまだ、決めかねている人間だ。
 「わかってる。どうしてキミがそう言うのかは。でも帰らない。この星も含めて、星々を旅するつもりなんだ。僕はもう少し、この時間の中にいたい」
 「それがどういうことか、わかってるの?」
 「うん。なんとなくは。それに、エニーって人が教えてくれたんだけど、この星々を旅すれば、大事には至らないんでしょう?」
 「ちょっと違う。旅をして、キミはキミの闇から抜け出さなければならない。闇は、火の続く限り、やっぱりキミに絡みつこうとするんだ」
 「…」
 エニーも「闇から逃げられるかとしれん」というようにしか、言っていなかった。
 「やっぱりキミは、帰ってロウソクを消した方がいい」
 ヒビカは「イヤだ!」と、言いかけた。言いかけて、その言葉が、駄々をこねる子供のようだと思った。
 現実世界にあっても、「絵描きになるか、ならないか」を考えることはできるかもしれない。できるはず。いや…、どうだろう。
 現時点で、ヒビカにとって「世の中」は、「勉強をしなければならない世界」だった。勉強のできる、できない、が学生の重要なアイデンティティだった。もちろん実際には、「音楽好き」「本好き」…、さまざまあるだろう。ヒビカもそれをわかっている。
 が、「絵を好き」で、かつ、「絵で自己を表現したい」と考えているのは、ヒビカのみだった。そんな中で、ヒビカに友達はできない。ヒビカは変に真面目なところがあった。
 ただ、そうであるならば、ロウソクの時間に居た方が、彼には有意義だった。
 必要な時間。
 ヒビカはいよいよ、「闇のロウソクの時間」に固執していた。
 そうしてヒビカはまだ、黙っていた。
 するとチョコ猫は、ヒビカのそんな気分を悟ったのか、
 「まあ、いいよ。そんなにここに居たいなら、もうちょっと居ればいいよ。ゆっくり考えてごらん」
 「…」
 ヒビカはまるで、怒られた人のようだった。

8  
 森を抜けて、チョコ猫は、ヒビカをある城へ案内した。チョコ猫いわく、「思索するのにいい」ということだった。チョコ猫はその城に住んでいるらしい。
 城の前までくる。城は立派なものだった。日本のようなものではなく、ヨーロッパにありそうなものだった。そして城の向こうには、この星との距離が近いのか、大きな三日月があった。絵に描かれたような三日月だった。
 ヒビカは、城と三日月とをみた。これもまた、絵になると思った。
 「ここだよ」チョコ猫は言う。
 「すごい…、王様でもいるの?」
 「ううん。城には子供しかいないよ。そもそもこの星には、子供と、一人の大人の魔女しかいないんだよ」
 「へぇ…」
 「魔女が僕らを養ってくれてる」
 「なる、ほど…」
 わかったような、わからないような…、とヒビカが思っていると、
 「あ、ほら」
 そう言ってチョコ猫は、三日月をアゴでしゃくった。「ん?」と思って、ヒビカもその方を見る。
 見ると、さっきまで居なかったはずの魔女が、三日月に座っている。
 「わあ」
 驚くヒビカに、魔女は笑う。魔女は、「オトナの女性」という感じだった。
 「ふふふ。チョコ猫ちゃん、友達を連れてきたの?」
 「はい、そんなとこです」
 「そう。で、誰なのですか?」
 ヒビカは、あわてて、
 「あ、神永ヒビカと言います」
 と、大きな声でこたえた。まるで、屋上に居る人と、地上から話してるみたいだ、とヒビカは思った。けれど魔女の方は、静かに話している。それなのに、はっきり聞こえるのだった。
 もしかすれば、そんなに声を張らなくてもいいのかもしれない、ヒビカはそんなことを思う。
 「ヒビカさん。チョコ猫ちゃんと、仲良くしてあげてくださいね」
 「はい…」
 「ふふふ」
 やっぱり、小さな声でも、聞こえるものらしい。
 ただ、ヒビカは、三日月に座る人と話していることが、あまりにも夢のようでしかなく、こうこつと、し始めていた。
 「あ、そうだ、チョコ猫ちゃん。チョコは溶け始めてはないですか?」
 「ええ、まだ大丈夫そうです。が…」
 「一応、魔法をかけときましょうか?」
 「ええ、そうしていただけると…」
 ヒビカは次は、くすくすと笑い出した。チョコ猫がさっきから、魔女には敬語で話すのが、ちょっと面白かったのだった。
 「では…」
 と言って、魔女は、人差し指をチョコ猫に向けた。向けるとそこから、キラキラ雪のような光線が降り出した。
 チョコ猫は頭を下げて、首をさしだす。そこへ魔法の雪が降る。
 うすら笑いの顔だったヒビカも、真面目な顔をして、その様を見ていた。神秘的だった。
 チョコ猫の生命はこの魔法にあるのだろう。
 「ありがとうございます」
 そういう儀式のように、チョコ猫は魔女に礼を言った。
 「ふふふ。そんなお礼なんて、言わなくていいのに」
 真面目な反応のチョコ猫とは反対に、魔女は笑っていた。笑いながら魔女は、その姿を静かに消していった。ヒビカはそれにも驚いた。
 が、チョコ猫にはそれが当たり前で、
 「じゃあ、城に入ろっか」
 と、言った。
 そうして、呆気にとられていたヒビカは、目の前の城に意識を取り戻した。


 城の中は、絢爛豪華で、天井は高く、シャンデリアがいくつか輝き、照らされる床は赤いカーペットが敷かれていた。けれど対照的に、閑散とした室内だった。室内の明るいのが、かえってその寂しさを感じさせる場所だった。

 グゥ〜。

 城に入ってすぐ、ヒビカのお腹が鳴った。それが城中に響いた。
 上半身は、生きている。生きている体は、お腹がすく、という当然を、ヒビカは思い出す。ヒビカはここへ来て、ついに、空腹を感じ出した。
 大きな腹の鳴るのを聞いた、チョコ猫は、キィ!っと、ヒビカを睨んだ。
 「やっぱりボクを食べるつもりなんだ!」
 「ちがうよ! なんでそうなるんだよ! ここに来てから体が…、とにかく、何も食べてないから…」
 「…それでボクを食べるんだ」
 「だから…」と、ヒビカが言い返そうとするのをさえぎって、
 「わかってるよ。冗談だよ、じょーだん」
 と、チョコ猫は笑った。
 笑ったあとで突然に、
 「ごはんだよー」と、大きな声を、城に響かせた。すると、城のたくさんある部屋のドアのうち、三つが開き、三人の子供が出てきた。
 「これで全員。昔はもっとたくさん居たんだけどね」
 と、チョコ猫は、独り言のように、ヒビカに語った。
 子供たちはと言えば、みんなヒビカに興味津々だった。女の子一人、男の子二人の子供たちにヒビカは囲まれた。
 「だれ?」
 「オトナのひと?」
 「なんで足ないの?」と、いった調子だった。ヒビカは困りながら、たくさんの質問に答えていた。そんなヒビカを笑いながら、チョコ猫は、みんなの先頭を歩き、ダイニングルームへと連れて行った。
 ヒビカの一番こまった質問は、「オトナのひと?」という質問だった。ヒビカは中学生になってからというもの、カラダのあらゆる面が発達し始めていた。
 「オトナではないよ」と答えつつも、「じゃあ、自分は子供なんだろうか?」とも疑問になった。
 ダイニングルームへ来ると、テーブルには、オムライスが並んでいた。
 それは、あの魔女が用意しておいてくれたものらしい。ヒビカの分も、ちゃんと用意されていた。
 この料理も魔法によるものだろうか? ヒビカはそう思いながら、席についた。
 そうして、夕食となったが、ヒビカは感動をもって、オムライスを食べた。それは魔法によるものだろうが、美味しいご飯とはそもそも、魔法がかけられているようなところがある。ヒビカはそんな「気づき」を、闇のロウソクの時間によって、得た。それがヒビカの感動だった。
 ふとヒビカ、床にいるチョコ猫を見ると、チョコ猫はオムライスではなく、お米のようによそわれた、「魔法の雪」をパクパク食べていた。
 それが可愛いくて、ヒビカは微笑んだ。
 微笑んでいると、目の前で食べていた、「ナオ」という男の子が、口にお米をつけながら、
 「ヒビカ、ヒツジみたことある!?」
 と、きいた。
 ヒビカは、どうしてそんなことを聞くんだろうと思いながらも、
 「小さい頃、動物園でみたよ?」
 と、答えた。
 するとナオは、目を輝かせて、
 「ホント!? じゃあ、かいて見せて!」
 と、よろこんだ。ナオがそう言ったのは、さっきのたくさんの質問の中で、「絵を描くのが得意」と、ヒビカが言っていたためであろう。

 「ヒツジの絵をかいて!」

 ナオはもう一度言った。
 けれどヒビカは、すぐには答えず、自分の体を、点検するように見た。
 上半身は生きている。もう、今は、ペンを持てる。絵の描ける体ではある。
 そして、
 「…うん。描くよ」
 と、決心するように言った。
 ナオからすれば、ただ、見たことのない、けれど「もっとも毛のモフモフな生き物よ」と魔女から教えてもらった生き物を、絵でもいいから見たいだけのお願いだった。
 ただそれが、ヒビカに、久しい絵を描く機会を与えたのだった。

10
 夕食を終え、チョコ猫は、ヒビカを一つの部屋に案内した。子供たちは各々の部屋へと戻った。
 さっきのナオとヒビカの会話を聞いていたのであろう、チョコ猫が案内したのは、絵を描くための道具が揃った部屋だった。
 「ここがヒビカの部屋」
 部屋の窓からは、夜の森を眺めることができた。街灯のない世界で、森は暗く、星は明るかった。
 部屋の明かりは、常夜灯ほどのもので、心地よく眠たくなるような明るさだった。けれどヒビカは、しんしんとした夜に、全く眠気を感じていなかった。彼はそれを、下半身がまだ幽霊のためだと考えた。
 「ボクもこの部屋に居ていい?」
 と、チョコ猫は、ヒビカに尋ねる。
 「もちろん。てかむしろ、僕が部屋を借りてる方だから…」
 「ははは。そうだったね」
 「…」
 「…」
 静かで暗い部屋に、沈黙が続いた。
 「ボクはやっぱり、今すぐにでもロウソクを消すべきだと思う。でも…、星をめぐると言うなら、早くヒツジの絵を描いて、明日にでも、この星を出た方がいい」
 チョコ猫の、青い目が、かすかに輝いている。真剣な目だった。
 「…、わかった。僕、まだ眠くないから、ちょっと今からでも描いていようかな」
 「そう。ボクは、おはじきしてるね」
 「おはじき? 一人で?」
 「うん。案外楽しいよ」
 「へぇ…」
 チョコ猫は、部屋の床で、おはじきを始めた。カチ、カチ、カチ…と、音が鳴り続いた。本人はそれで楽しいらしい。ヒビカは、一緒に遊ぼうか、と言おうか迷ったが、画用紙に向かった。
 ヒビカは、一般に、人がテスト用紙に向かうときのように、緊張して、画用紙と対峙した。
 ただヒツジを描くというだけであるのに。
 けれどどうせ描くなら、自分が納得するようなものにしたい。
 というのも、ヒビカの頭には、「ストレイシープ」という言葉が浮かんでいた。つまり、「迷える羊」。

 迷える羊。

 まさに、自分のことではないか。 
 ただナオを喜ばせるだけではなく、ヒビカは、ヒツジを描くことで、今の自分を表現してみたいとも思っていた。それができた時、自分にどんな変化があるのか、それを感じてみたかった。
 けれど、その両立は難しい。
 そこで、ささっと、ヒツジの絵を一枚描き、ナオくんにはそれを見せて、別に一枚描こう、と考えた。
 そうしてヒビカは、久しぶりにペンを持った。
 暗い部屋とは言え、明かりのないわけではなく、また、その明るさに、目が慣れてきてもいた。ヒビカは、画用紙を見つめる。
 ヒビカはまず、大きく、リアルなヒツジを描いた。
 ヒツジは、思い出しながらでも、ヒツジを上手く描けた。これならナオくんも喜んでくれるだろう。
 描きながらヒビカは、久しぶりに絵を描くのを楽しんだ。楽しめた。ちゃんと楽しめる自分に、ヒビカは、安堵した。
 そして改めて、「集中する時間」がやっぱり好きだと感じていた。ただ、それだけに、近くで「カチ、カチ、カチ…」と、音出して遊んでいるチョコ猫が、時々気になった。が、注意ができる立場でもないため、ただ黙っていた。

 ヒビカまだ眠くならなかった。
 「ねえ、チョコ猫は寝ないの?」
 いつまでも、おはじきで遊んでいたチョコ猫は、その手を止めて、
 「ボクはチョコだから、眠くならないんだよ」
 「へぇ…」
 もしかして、その間ずっと、おはじきしてるの? と、きこうか迷ってヒビカは、きかなかった。
 「ヒビカこそ、もうそろそろ寝た方がいいんじゃない? ニキビできるよ?」
 「ニキビ…。そうだけど、全然眠くならないんだようね。この体のせいかな?」
 「眠くならない?」
 突然、また真剣な顔つきになって、チョコ猫は、ヒビカに尋ねた。
 「うん」
 「それは…、『闇のロウソク』のせいかもしれない」
 「…」
 「やっぱり、ちょっとずつ症状が出てきてるんだよ」
 そう言われてヒビカは、多少の恐怖を感じた。
 ニキビ、不眠、闇、迷える羊…、あらゆる言葉が胸の中をただよっていた。
 けれど、「ロウソクを消せ」と言われるのを察して、ヒビカは、
 「今日はとりあえず、眠くなるまで絵を描くよ。そんで、チョコ猫の言う通り、明日には、別の星に行けるようにしようと思う。でもやっぱり僕は、ロウソクはまだ消さない。この世界でなら、眠れなくなるのも、そんなに苦じゃないし。寝坊したって誰が怒るわけでもないし」
 と、チョコ猫が口を開くより先に言った。
 「…」
 チョコ猫は、黙って、ヒビカと目を合わせているだけだった。そうしてまた、おはじきを始めた。
 ヒビカにはチョコ猫が、ワザとそんな態度をしたように感じられた。そこに少し、ヒビカは苛立った。口ではなく、目で説教されたような気がしていた。
 部屋に案内された時とは別の、沈黙がお互いに流れていた。
 ただ、カチ、カチ、カチ…と、おはじきをばら撒いては、自分だけで遊ぶチョコ猫の、おはじきの音が鳴り続けていた。

 ヒビカはいよいよ集中できなくなった。また、眠気の「ね」の字もなかった。むしろ、苛立ちが止まらなかった。
 チョコ猫は別に何も言っていない。星をめぐるならめぐればいいと、言ってくれている。ただもちろん、「ボクはロウソクを消した方がいいと思う」としながら。
 ヒビカは、何度考えても、イライラする理由は自分になかった。ないのに、無性にイライラし始めた。

これも、「闇のロウソク」のせいだろうか?

 そんなことが、思い当たる。
 二枚目の画用紙は、まだ、白紙だった。
 カチ、カチ、カチ…。チョコ猫は、飽きもせず、おはじきを永遠に続けていた。それはもはや、そういう仕事のようにも見えた。
 そしてその音がまた、ヒビカをイライラさせた。
 やがて、ヒビカは、そのイライラのままに、赤い絵の具を出し、白紙を真っ赤に染め始めた。ヒツジをどこに描くなど、頭になかった。
 染めたあとで、「あっ、」と、ストレイシープの字を思い出した。
 その頃、いよいよ夜明け前だった。窓から、多少の明かりが、こぼれ出した。
 「ヒビカ…、もう朝になっちゃうよ」
 「え!? 本当だ…」
 チョコ猫はまた、ロウソクの話をするだろうか、と、窓の外を見ながらヒビカが思っていると、
 「散歩しよ!」と、チョコ猫は言った。
 「え?」
 「もう、こんな時間まで起きてたんなら、朝日でも見なきゃ、損だよ!」

11
 「この辺、よく歩くんだぁ」
 「へえ」
 ヒビカは、家族で初日の出を見に行ったのを思い出しながら、散歩道を歩いた。
 チョコ猫の散歩道は、ある丘へと続いていた。
 「とっておきの場所だから、きっと気に入るよ!」と、チョコ猫はうれしそうだった。
 見ると、東の空の底は、もうオレンジの色をしていた。
 きれいな空気、自然、空に囲まれ、そうして歩いていると、ヒビカの心は落ち着いていった。途端に眠気を感じ出した。
 真っ赤な世界から逃れたような気がした。

 そんなときだった。

 「ホラ!」と、喜ぶチョコ猫の声を合図に、登り切った丘から空を見ると、そこには、美しい朝焼けが広がっていた。
 「わあ」
 感度するヒビカをみて、チョコ猫は「ふふふ」と笑った。
 「ん?」
 それに対してヒビカが疑問を顔にすると、
 「やっと、いい顔をした」
 と、チョコ猫は言った。

 散歩から帰ってくると、ヒビカは寝てしまった。そのまま昼になるまで、起きなかった。
 昼になって起きたのは、起きたというより、起こされたためだった。
 ヒビカは、はっきりと覚えていないが、おそらく父親と一緒に虫取りに出かけた日の夢を見ていた。そこから覚めると、目の前には「ルカ」という城の子供の一人がいた。女の子だった。
 ヒビカは、自分の見た夢の方が現実的で、今ある現実の方が、夢のように思った。
 ルカは、「あそぼ!」と、ヒビカの体を叩いた。
 ヒビカは、真っ赤の画用紙が気になって、そこにヒツジを描きたい欲求があったが、目の前の子供を断るに断れず、そのまま夕食まで遊ぶことになった。
 ルカは、森の中へとヒビカを誘った。
 彼女は「お菓子の木」があるのだと、言う。
 来ると実際、お菓子が成った巨木が、森の中に、ぽつねんとあった。
 ヒビカは最初こそ、「おお」と、惹かれていたが、そのうちに頭の中は、「ストレイシープ」でいっぱいになった。
 「こんなところにいる場合じゃない」という気分が強くなった。が、かえってルカは、「お菓子を食べましょ!」と喜んでいた。そんな、いかにも「子供的な時間」に、付き合えないことをヒビカは自覚して、「大人でもないけど、子供でもないんだな」と考えていた。
 それでルカはお構いなく、「あのお菓子をとって!」などと言って、楽しんでいた。そうしてその後も、様々な「子供的遊び」をして、夜まで過ごした。

 ヒビカは、昨日と同じような時間に、また、画用紙と対峙した。
 暗い部屋で見る真っ赤なその色は、自分ながら、恐ろしかった。

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