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僕は歩く、ひとり。

時代が僕を急かす。SNSを見ても、Slackを見ても、どこを見ても、何もかもが「早く、速く、疾く。」と流れを加速させていく。そうあることが正解のように、そうあらねば存在を否定するかの如く、遅きを取り残していく。

エントロピーは増大し続けるが故に、もう後戻りは起きない。時代の加速が止まることはない。石と棍棒で戦争をする時が、訪れない限りは。

なぜか今日、僕は、いつも使っている自転車には乗らず、歩いていた。いつも自転車で颯爽と走る道を、それの半分以下の速度で歩いていた。なぜか今日、僕は、いつも通勤中に聞いている音楽を聞かず、イヤホンを外していた。いつも人工音で彩られていた道を、無音で静かに歩いていた。

いつもは見えない景色が見えた。ローソンは今「うふふふふ〜ん」というキャンペーンをやっているらしい。オートバックスはカフェを運営しているらしい。真っ白な壁のお花屋さんがあった。

いつもは聞こえない音が聞こえた。阪急百貨店ではバレンタインデー的な音楽が流れていた。ベビーカーに乗っている赤ちゃんが泣いていた。Berealというアプリの通知が昼過ぎに来ていたが間に合わなかったらしい。

早くあることが肯定されやすい時代だが、早くあるからこそ見落としてしまうものはたくさんあるらしい。うさぎとカメが競っていた時に、カメだけに見えていた景色がきっとあるはずだ。綺麗な花の文様。そこに止まるミツバチの羽が透き通った美しさ。足元で丸まるダンゴムシの鮮やかな漆黒。

果たして、早いことは、善なのだろうか。遅く、ゆったりと進むことが、悪なのだろうか。SNSに流れる情報を1日でもキャッチしていなかったら、それは優れていないことになるのだろうか。Slackに流れる通知を1日放置することは、本当に困るのだろうか。新幹線や飛行機に乗って素早く移動することが、いいことだったのだろうか。

実は、大切なものは、ゆったりと進まないと、手に入らないのかもしれない。その可能性を捨ててまで、毎日を慌ただしく生きる意味など、あるのだろうか。大切な人の顔が曇っていることに、気がつかなかったら。子供の身長が1cm伸びていることに、気が付けなかったら。

歩くから見える景色があることを、今日、僕は知った。

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