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滑稽蜂

俺は、批評家という職業―と世間は言うが俺にはそれが一つの考え方の違いからなる人種のように思える。―引いては、それを糧に生きている生き物、存在自体が嫌だ。
自分たちは何も生み出さないくせに、人が出した作品、可愛い我が子に、自分の物差しを取り出して、
やれこの子は少し身長が足りないだの、太りすぎているだの、肌が脂っこくて、与える食べ物に注意せよだの、そんな煩わしい言い方をしながら、自分は正当な評価を下しているという姿勢で、文句を喚き散らす。
俺は、そういう奴らは唾を吐きたくなるほど大っ嫌いだ。
批評家気取りで、それになりきれていない人間は、もっと救いようがない。
世の中を斜めに切り取って見るのが、正しい嗜み方と勘違いも甚だしいものの見方をし、願ってもいないのに、勝手に人の作品にケチをつけて回る。
これは、もはや通り魔とそう変わりない。
無頼な輩にも皮肉屋にもなりきれない、弄れた子供の心のまま体だけ大きくなった奴らは、もはやどうしようもない生き物だ。
小説家の蔵田氏は、そういう思いを何回も心の中で反芻しながら、締切が迫っているというのに、三行も出来上がっていない原稿を見て焦る気持ちを紛らわせた。
もはや、担当からは何回も電話がかかってきており、下宿している女将さんからも、苛立った口調で、勘弁して下さいよ、私はもう電話を受け取るのも懲り懲りです。それに、家賃をもう三月も滞納しているんですよ、畳に寝っ転がっている暇があるなら、さっさとお仕事を終わらせてください。
とお叱りを受けたばかりだ。
いい歳の大人なのに、子供のように言われたのがなんだか恥ずかしくて、自分のプライドが傷ついたような気がした。
あの連中は馬鹿なのだ、日常の支払いを済ませるための仕事に気を取られて、忙しい振りをする。世界の美しい事象に浸る暇もない愚かな連中。そういう事を考えて、また自分の心を守った。
出来るものなら、もうとっくに描き上がっている。
どれだけ残り滓を絞ろうと、無いものは無いのだ。
学生時代、同好会の中で書いた作品を、友達数人に囃され、ほんの軽い気持ちで出版社に応募した。
まぐれにも、それが大賞を受けてしまい、そのままずるずると、自分は小説家なんて大層な看板を捧げる事になってしまった。
そう言うと、世間からの聞こえはいいが、自分の作品は一回金を掘り当てだけで、あとのものは紙屑にもなれない出来のものだった。
担当も、社内をたらい回しにされるように、二度三度代わり、今のは新人の編集者らしく、打ち合わせの時でさえ、自分の言うことを、はい、はいを全て聞き入れているだけで、これならわざわざ街中のカフェーに出向くのが、時間の無駄であった。
こういうのも、倉田氏とその作品に対する会社の態度が透けて見えた。
けれども、それでその会社に見切りをつけて、真摯な態度で打ち合わせし、出版してくれる会社を新たに探す勇気も、気力もない。
読者の声を聞くのも、自分の心にやる気と情熱の火を灯してくれるかもしれない、と思い至って、けれどもそれを聞けるような人物が、自分の周りには母親しかいないということに気づいた。情けなさに身を委ねながらも、母親に昔の原稿を渡して感想を聞いたら、あんたの文章は、なんだか気難しいね、という言葉を貰うだけだった。
それを言うなら、小難しいだろう、こんな語彙力も高等な感性も持ち合わせていない母親から生まれた自分が、嘆かわしい。
それでも、いっぱしの小説家にはなれたのだから、自分を褒めてやるぐらいなのではないだろうか。
倉田氏は、自分は教養高く、芸術的感性を満たすために生きる、金持ちの家柄に産まれるべきであったと、本気で信じていた。
そのような、脂ぎった肉汁が滴ってくるような自己が肥大化した妄想を隠しもしない文体と、自己満足で、読者を必要としないような、作品の中で自己完結している、そんな作品の雰囲気に、本物の読者もだんだんと離れていったのだ。
倉田氏は、それを薄々感じ取るほどの、客観的で冷静な視線も持ち合わせていたが、それを認めようとしないもう一人の自分の存在がいるというのもしっかりと感じ取り、傲慢で独りよがりな作家にもなりきれず、才能もなく努力をするにも腰が重いという自分の性質を理解し、夢を諦めて、普通の道を歩むというのも出来ないでいた。
そんな、常にぐらぐら揺れ動いているやじろべえのようなみっともない心から、生み出される作品が、読者の胸を撃つものが、出来上がるはずがない。
蔵田は、降参したように畳の上へ寝そべった。
もはや、自分の心を激しい浮き沈みから守ってくれるものは、何も無い。
穏やかで暖かい、初夏の薫りが少し混ざった春の風は、暗雲がたちこめる自分の心を小馬鹿にするように、晴れやかな匂いとともに、部屋の窓から我が物顔で侵入してきた。
「もはや、俺は神にも見捨てられた存在なのだ」
人からすれば、かなり大袈裟だろうが、倉田氏にとっては紛れもない真実で、それがどう努力しても、行動しても動かしようがなく、諦めと共に去ってもくれないのだった。
倉田氏は、自分はこんなに辛くて、頑張っているのだから、春の女神のような穏やかな午后の心地に浸るくらいは、さすがに許されるであろう、と言う頭の中の声を免罪符にして、昼寝の微睡みに入っていこうとした。
瞼を閉じたところで、ふと、この間見かけた輝かしい瞳の婦人を思い出した。
その婦人が落とした花細工の簪を、たまたま通りすがった倉田氏が拾って、声をかけただけなのだが、何度も丁寧に頭を下げて、お礼を言われたところが、忘れられなかった。
その人の前髪のきっぱりとした分け目や、耳に生えたうぶ毛、波間のように揺れた形の髪型、小鹿や雌牛のように、かなり長い睫毛から覗く伏し目気味の涼やかな瞳、そういったものを丹念に見つめて、いつまでも頭の片隅に記憶して起きたい、という気持ちに駆られた。そして、甘いけれども、自己主張が激しくない品のいい香水の匂いが、その人の人間性を表しているような気がした。
倉田氏は、その人に対して、自分で思っていて恥ずかしいが、初恋にも似た想いを感じ取っていた。
本物の初恋は、十四の頃に向こう隣の健康的な女学生に思い患い、告白したところで、いいよと首の縦に振られたので、本気にした。けれどある時、自分ではとても敵わないような立派な体躯の男と、一緒になって笑い合い、小突き合いながら、歩いているところを目撃し、自分は本当は揶揄われていただけだ、ということが分かり、脆くも崩れ去っていたが。
倉田氏は、その婦人に対する蕩けるぐらい甘やかな恋心と、とっくの昔に封じた腹の立つ記憶を思い出し、寝付くにも寝付けなかった。
かと言って、紙の上に万年筆を走らせる気もない。
倉田氏は、何を思ったのか、あの婦人が身につけていた簪の花の名前を調べようとした。
自分は残念ながら、そういった花卉の方面には弱ったので、子供の頃に買って貰ったきり、ろくに見もしなかった植物図鑑を、実家から持ってきた荷物の中にないか、汚れ姿の発掘隊員になったような気持ちで、探した。
運良くその本は見つかったので、その流れで目当ての花の名前も探り当てれやしないか、と項(ページ)をパラパラとめくった。
全く違った姿のものから、似たような形の花に近づいて、倉田氏の心がはやった。
そして、見つけた。 その花は、間違いなくあの婦人が身につけていた簪の細工と、同じものだった。
名前は杜若(かきつばた)。よくみると、それは皐月や水無月の頃に、岸辺でよく見る紫色の花であった。
そういえば、あの婦人は正しくそのような色の素晴らしい着物を身につけていた。
同じくらいの年の女が、激しく降っている雹(あられ)のような柄や、慎ましさの欠けらも無い派手な色の着物を好むのに対して、あの婦人の纏っていた空気とおなじ落ち着いた貴色は、倉田氏の目に好ましく映った。
そして、その色と合わせた杜若の簪を身に付けていたことに、婦人の体の隅々まで行き渡るような、細やかな美意識が感じ取られ、余計にいじらしく思える。
ー杜若の君。
倉田氏は、その花の項に、紙の中に吸い込まれるのではないか、と思われるほど食い入って見ていた。
「花言葉は、燃える思い、情熱、幸運がやってくる」
その言葉は、正しく今の倉田氏の心を満たしてくれると思われるような、欲しているものだった。
―杜若の君、令嬢である杜若の君は、いつも上品なな紫色を好み、周囲の飢えた斑鬣犬(ブチハイエナ)のような男達から、結婚を迫られていた。
けれども、心の中には既に決めた相手がいた。
その相手とは、貧乏な書生であったが相手の真心が伺い知れるような……けれども、親から断固反対され……。
二人は、皐月の頃に現れる、杜若を見る為の渡し船の上でしか会えない身の上……。
倉田氏の頭に、何かが通り過ぎていく感触がした。
自分でも、ありふれた話すぎて、担当に一刀両断に切り捨てられるだろうと、心の片隅で感じてはいるが。
今ここで「これ」を書かないと、「これ」はこのまま形になれず、消えてしまうような気がする。
気づくと倉田氏は、思いのままに万年筆をすらすらと動かしていた。
いや、思いの宿った万年筆が、倉田氏とその腕を動かしていた、と言った方が正しいだろう。
倉田氏は、その濁流が流れるような勢いのまま、午后の夕方に鳴る鐘の、重々しい金属の音がするまで、休むことなく原稿と睨み合っていた。
その翌日、倉田氏は編集者と会って、原稿を手渡していた。その時は不思議と、いつもの緊張感は薄まり、自然体で座って待つ事が出来た。
担当の方も、いつもは目線が狼狽えたようにあっちを向いて、こっちを向いて、一時も静まっていることがなかった。
それが居心地の悪い原因のひとつであったが、今は魚屋に置かれた死んだ魚のように、情けなく澱んだ目で原稿を眺めているのではなく、産まれたばかりのひよこが親の刷り込みをされるように、原稿を食い入るように見ていた。
それこそ、昨日植物図鑑を眺めていた倉田氏を負かせる勢いで。
「うん、良いんじゃないですか」
意外にも、担当はすぐに好色を示した。
「そ、そうですか、陳腐なような気もするんですが」
倉田氏は、思わず予防線を張るように言い放ったた。
「確かに、どこにでもありふれた様な話とも感じられますが、読者は別に突飛な話を望んている訳でもないと、僕は思います」
担当は、喉から初めて自分の本心と思われる言葉を出してくれた。
「それこそ、自分にも考えられる範疇の、分かりやすい話の方が、物語に感情移入しやすくて、良いんじゃないでしょうか。それにこれは登場人物の心象がとても丁寧に描写されてるので、僕は好きです」
倉田氏は、初めて自分の担当から褒められた事が嬉しくもあったが、気恥しさの方が上回り、頭を搔くしかなかった。
その日は、そんな塩梅で、少し行を入れ替えた方が、読者にわかりやすいと言うのでそれだけ修正するように言われただけで、あとはほとんど万々歳の有様であった。
有り金を叩いて買った一杯の安い茶葉の紅茶も、甘露を集めた滴りように感じられ、レコォドから聞こえる外国歌手の言葉も、主への賛美歌を歌っているように、耳に入ってきた。
「や、まさに杜若の君さまさまだね」
店のドアをカラン、と鳴らして出てきた倉田氏のそんな一言は、春一番に吹き消されたが、懐の暖かな気持ちまでは、持っていかれなかった。
これで、滞納している家賃のうち少なくともいくらかを払える目処がつく。
何より、初めて担当から好感触を貰えたことが、天に登って、月でも齧れるくらいに嬉しい事だった。なにやら、体の内側に力がみなぎるのが感じられる。
倉田氏は、上機嫌な気持ちのまま、少しこの辺りを散策してみようと思った。
昨日は、あんなに鈍い色の重苦しい雲が幅を利かせて、鬱屈としていたのに、今はこの晴れやかな天気と、全く同じ気持ちであった。
「そう言えば、ここら辺に菖蒲(しょうぶ)園というものがあったらしいな」
倉田氏の心のどこからそんな言葉が出てきたのか、自分でも全く謎だが、確かにこの近くには見事な菖蒲を隅々まで、堪能出来る場所があった。
昨日の今日で、全くの偶然というか、あまりにも出来すぎているような一連の出来事に内心圧倒されつつも、倉田氏はこれも杜若の君の恩恵、授かった奇跡と、一言で済まそうとしていた。
喫茶店(みせ)に少し気まずそうな顔で戻って、店主にここら辺に菖蒲園と言うものがあったはずだが、と聞いたら、店主は何回も同じ事を聞かれたような、少しうんざりであるという様相を隠しきれない口ぶりで、あぁありますよ、と短く答えた。
七十近くになる爺さんが、道楽で始めたものらしく、それでも役所から助成金を貰って成り立たせる施設に負けず劣らず、一言に紫と言っても多種多様な花が咲き、中には外国産の品種もあるとか。
店主のこの口ぶりだと、まるでその爺さんにうちの広告塔になってくれ、とか評判を喚き散らしてくれ言とわれたようであるという倉田氏の推測は当たっていた。
事実、その爺さんはここら辺に顔の幅を利かせる老人で、この店を受け持つ際に、店主になる前のこの男は、それを引きかえの条件として、この店を譲り受けたのだ。
勿論、倉田氏はそれ以上の情報を持ち合わせておらず、気の毒な事情がある店主から場所を聞き出したら、すぐにまた外へと駆り出した。
目指すは、杜若の君のような花達が待つ楽園である。
倉田氏は、少し迷って時間を取られたが、特に苦労することなく菖蒲園を見つけた。
寂れたふうの、受付がいるべき無人の建物で入場料を払い、旅館の中庭を進むような、ここに居る自分が少し場違いなような、緊張した面持ちで歩みを進めた。
噂に聞くように、それは見事な場所だった。
平安貴族の部屋に生けられているものが、足が生えて逃げだし、ここに根を生やしたような渋い色の菖蒲達は、我が唯一の美しさというような、他者からの賛美を必要としない顔ぶれのものばかり。
花が美しいばかりでなく、見渡すのに邪魔になる雑草も綺麗に取り払われつつ、害虫を駆除する虫を呼び込むには充分になるように、管理されていた。
道楽と言われれば聞こえは悪い時もあるが、この場所に至っては、金も時間も余裕がある老人に世話をされるのが、一番幸せなような気がする。
倉田氏は、野葡萄の色のもの、鴉がなく頃の空の色のもの、紫式部が着ていた十二単の中の一枚を彩る色のもの、アルコール臭い外国産の酒の色のもの、茜と蓼藍を混ぜた色を少し薄くした色のもの、紫苑草と双子のような色のもの、垂れ藤を負かせる勢いで咲いている色のもの、そういった花の中に埋もれた。
昔から高貴と伝わる色と香りが充満した、ここの空気の一部のような、自分が本当は人ではなく、花だったと思い出しそうな錯覚に囚われた。
自分がもう少し、このような情景とそれに干渉された心象を事細かに描けるような、感性の持ち主だったならば。倉田氏にとって今ほどそれを悔やまれる時がなかった。
倉田氏は、今度は人の様子を見やった。
自分以外の客は、ほんのまばらにいるだけだった。
誰も彼もが、五月蝿い声を上げることなく大人しく、皐月露を溜めた初夏に咲き誇る花々を見入っている。
幼い子供ですら、ここの主役は自分ではなく花だというのが分かるのだろうか。すぐ近くの老人のゆっくりとした植物を愛する心が感染したように、見やっている。
その様子も、まるで菖蒲を主にした風景画の一部に書き込まれた人々のようで、全てが均一に、満遍なく円満に流れている空間だった。
倉田氏は、そんな空間に己がいることがなぜだか誇らしい気さえしてきて、もっと遠くから、なにも物理的な意味ではなく、この菖蒲園をもっと大きい、地球を眺める神のよような視点から見ていたくなった。
傍からすれば、ぼんやりしている目線の男の目の中に、貴藤色の着物が映り込んできた。
まさか、あれは。
倉田氏は、足の動きに身を任せるまま、駆け出した。
菖蒲園の通路に敷きつめられた、由緒正しい神社にも負けない玉砂利が、踏みつけられた痛みを訴えるように鳴き、それが完成させた一つの芸術的箱庭の中で、綻びの不協和音として現れた。
「あの、貴方はまさか」
倉田氏の、乱れた息が混ざった、飢えた鬣犬のような声は、貴藤色を纏った夫人の耳の中に、きちんと聞き届けられた。
「まぁ、驚きましたわ。なんという偶然」
それは、正しく杜若の君であった。
久しぶりに会った気がしないのは、昨日原稿用紙の上で、その姿を幻視したせいであろうか。
杜若の君は、今日は杜若の色からもっと品の良い貴藤色に身をやつし、髪は後ろで一つに纏めていた。
日差しが少し強いせいか、真っ白な日傘までさしているのが、余計にその人の清楚な、ある種のいじらしさをアピールしていた。
本来は女神である山富士も、雲がかかっている方が、なんとなくはだけた色気のようなものを感じられる。
その髪の山のひとつを留めていた簪は、今日は身につけていない。
おそらく、飾りなんかが、日傘の中の骨組みに絡まってしまっては、困るからなのだろう。
倉田氏は、今度は己が自分で書いた作品の白昼夢を見ているのではないか、と勘ぐる程だった。
ここの花達が、午后に見せる幻。
杜若の君が、本物の人間の方を含めて、幸運を運んできたのだ。そんな事も、有り得るのじゃないか、と思われた。
「本当に奇遇ですわね」
「えぇ、本当に奇遇」
間抜けな鸚鵡でも、もっとマシな返答をするだろう、と倉田氏は静かに心の中で己を叱咤した。
「今日は、おひとりでいらしたのですか?」
この後に続く言葉は勿論、良ければ僕とご一緒しませんか……。
倉田氏は、それを早く言いたそうに喉の奥から、勝手に出ようとしてくる言葉を押し留めて、杜若の君の返事を待った。
「いいえ、今日は夫と子供と三人で。」
杜若の君のその一言で、倉田氏の目から全ての紫色が抜け落ちて、自分はこの完璧に穏やかな流れの庭園から、落第者という判子を額に突きつけられた気がした。
「あ、こちらに来ますわ」
女の、緩く手を振った方を見ると、一人の男がまだほんの幼い女児を抱き抱えて、こちらに歩んでくるのが見えた。
男は、倉田氏と同じような下駄ではなく、見るからに高価と分かる外国製の革靴だった。
服装も、もはや一張羅とも言い難い着古した着物を着ている倉田氏に比べて、それこそ女子供に持て囃されそうな、レコードのジャケットを飾るような西洋式の、シャツにベストにズボン。
その黒光りする革靴が、礼儀良く玉砂利を鳴らす音を出す度に、倉田氏の世界から男に対する存在感が増していく。
女児の方は、不機嫌な飼い猫がいきなり抱き上げられて、降ろせと言いたそうに身をよじる動きと、そう変わらない行動をとっていた。
「やぁ、すまない綾芽(あやめ)。やっぱりこの子がぐずってしまった」
「良いんですよ、もう一通り見て回れましたから」
男が女の方へ子供を手渡すと、子供はここが本来あるべき場所、とでも言うように大人しく女の胸に抱きとめられた。
「この方は?」
男は、倉田氏の存在に今頃気づいたとでも言うように、女の方へ聞き直した。
「こちらの方が、落とした簪を拾ってくださったの。ほらこの前話したでしょ」
男は、合点がいった様子で、少し驚いた気も混ぜて、あぁと呟いた。
「どうも、女房が世話になったようで」
男は、まるで自分の事のように、頭の下げた。
事実、この二人はまるで左右に別れた体が、やっと出逢えたかのような、それぞれが体の一部であるかのような、一緒にいるのが呼吸をするよりも当たり前の出来事であるような顔をしている。
それは、この夫婦二人を初めて見ただけの倉田氏でも、一目瞭然であった。
世間には、てんでばらばらな二人が、子供という一つの点によって結ばれているだけの夫婦もいるというのに。
「いや、そんな。世話というものの事じゃございません」
倉田氏は、菖蒲園でとある女と運命の出会いを果たした男という主役から、夫婦にとって少しの顔見知りという脇役にまで没落した事が、とても恥ずかしく、それを表に出さないようにするだけで、精一杯だった。
「ここは、本当に見事でしょう。」
「ええ」
倉田氏は、ぎこちない顔と声で答える。
「今日は助かりましたわ、主人が少しだけでも子供を見ていてくれたから、ようやく一人の時間を堪能できました」
「それは、良かった」
「けれどぐずった時には、どうしても君でなければ収まらないから」
「もうそれは、仕方ないわね」
二人の会話に漂う、甘ったるい空気が、倉田氏にとってはこれ以上ない臭気漂う毒のように感じられ、倉田氏はもうこれ以上、そこに居るのが耐えられない気がした。
同じく、大人達の会話にもう我慢しきれない、というように、女の胸に抱かれた子供が泣き出した。
「あら、どうしちゃったのかしら」
「や、じゃあ自分はこれで」
倉田氏は、子供の泣き声で退散する鬼のように、その場をいそいそと離れた。
それから、菖蒲園を出るまで自我呆然とした頭を乗せたまま、足が進むに任せた。
おかげで、一体どうやって帰り道まで戻ってきたか、分からなかった。
無理もない。あれほど焦がれた杜若の君の本性が、男に綾芽と呼ばれることを許す、一人の子を持つ母親だったのだから。
雄花と雌花の間には、もう既に種が出来上がっていたのだ、そこに入り込もうとする存在はもはや、お邪魔虫でしかない。
清楚ながらも、身のうちに秘めた激情をもつ杜若の君の紫が、現実の色濃い菖蒲(あやめ)という女の色に塗りつぶされていく。
自分は、あの女の上品な匂いに騙された、一匹の哀れな虫なだけじゃないか、というもう一人の自分の声と、何もかにもすべて一人相撲でやってきたこれまでのバチが当たっただけだ、というもう一人の自分の声。
脳内会議は、止むことなく混乱を極めた。
倉田氏は、いじけた子供のように石を蹴って、下宿先へ帰るしか出来ないことが、心の底から嫌に思った。
酒に溺れて、酩酊世界に逃げられない下戸な自分が許せず、煩わしく、嘆かわしかった。
そしてその思いも、川の中へ石を蹴り落としても、ほんの少ししか解消できなかった事が、やるせなかった。

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