花の魔女

俺は雛の頃、魔女の美しい花々が咲き乱れる庭の中の、八重咲きの立葵の葉の下で、傷ついて弱々しくぴいぴい鳴いていたらしい。
恐らく、巣から落ちたところを、近所の野良猫に連れ去られて、置き去りにされたようだが、 そこで死なれたら庭が汚れて困る、と仕方なしに家の中に入れたらしい。
が、本当の理由は助ける為ではなく、肉と血を薬に混ぜ込むか、骨を標本にして飾ろうとでも思っていたとか。
それを大きくなった俺自信に言うのだから、全く主人はどうかしている。
元気になってくれたほうが良い材料になると思って介抱し、もっと大きくなってくれたら、骨の見栄えも良くなるのでは、と気づいたらここまで世話を焼かれていた。
「ようやく気づいたが、お前にはろくな餌をやっていなかったね。乾いた玉蜀黍(トウモロコシ)に、野菜屑、あとは自由に庭の害虫どもを啄んでいただけだ、そんな奴の血肉なんて、鍋に入れたら煤けた煙が出るだけだろうよ。」
そんな事で、俺は魔女の下僕になることになってしまった。どうやらカラスは使い魔にした事がなくて、地上に、やっとの思いで芽を出した種のような、久しぶりに新鮮な気持ちを思い出したよ、と目の前でけらけら笑っている。
全くとんだ災難だ。

魔女は、広い自分の庭に術をかけている。
庭の花達が死んだように眠りにつく雪の季節に、その積雪の上に色とりどりの羽や石を置いて、禍々しい図形を作る。
その様子は、ちょうど天才と呼ばれる画家が、凡人には意味不明な情景を白いキャンパスに描きあげるのに、似ている。
その後に、その図形のちょうど真ん中辺りにたって、なにかの呪文を呟くのだ。
よく耳を済ませれば俺でも聞き取る事が出来ると思うのだが、「誰かにこの言葉の意味を話せば、お前はたちまちただの肉塊になっちまうよ、使い魔になる時に、そういう契約を悪魔と交わしたからね」と釘を刺された。
肝を握りつぶされる気持ちで、聞いていたが、もしかしたら本当に、俺の体には、約束を破った時に魂を縛り付ける鎖と、打ち付ける消滅の杭が茨のようにいみじく入り込んでいるのかもしれない。

魔女はどうやら、普通の人より計り知れない時を生きているらしい。
並のカラスより長い時を生きて、彼女を見ていると、その術のからくりが少しずつ分かってきた。
彼女はまず、先程の手法で、土の中に己の魔力を仕込んでおく、そうして春になったら種や苗を植えて、それが花を咲かせ、実を成らるようになるまで育てる事で、土地の力とその中の魔力を何倍にも濃くする事が出来るようだ。
そのおかげで、どれほど長い年月が経ったとしても、彼女の美貌には一切の翳りが見えないし、魔力も衰えない、おまけに庭にぐるりと取り囲まれた家は、新品同様、新しいままだ。
小さな地震などで、壁に亀裂が走ったとしても、翌日になって様子を見ると、生命力の強い野生の獣のように、手当もいらずに治っている。
雹や竜巻に襲われる事は、まずない。
天候は、魔女が結界を張って外界の影響を受けないようにしている。
彼女は、自分の可愛らしい子供達が傷つくのを何より恐れている。
限られた雲だけが、見えない壁にあたって、その場をぐるぐると回り、風は旋回して出口を探そうとするが、暫くすると諦めて、大人しくなる。
太陽の光は、硝子の温室よろしく、なんの問題もなく降り注ぐ。
ここは大きなスノードームのようなもの。
ある日、魔女に「あんたが生き続けるためには、ずっと花の世話をしなくちゃならんわけだ。少しでも、手を緩めたら、あんたは途端に花と一緒に枯れ果てて、目も当てられない石木の老婆のようになるんだろう」と冗談めかして言った。
すると魔女は、こっちを見もしないで、「その時は、どうしようもなく世界が滅亡する時か、私が長い生に空いて、絶望しきった時だけね」とだけ呟いた。
「御生憎様、そんな日はまだ当分来そうにないわ」

どれ程の月の満ち欠けと、太陽が登る朝の目覚めを見つめてきたのかは知らないが、時折、地平線のずっと向こうを覗き込んでいるような瞳をする時がある。
人は恋しい相手の瞳を覗いた時、吸い込まれそうだと形容する言葉がある、と魔女から聞いたが、俺が魔女の瞳を見た時は、吸い込まれるどころか、俺と魔女、自他の境界線が分かりらなくなり、勝手に魂が同調し始める、気色の悪い錯覚に陥る。
それがはたして、彼女とは主従の契りを交わしているからか、はたまたその他の事柄が原因なのか、理由は考えたくない。考えたくもない。
彼女の庭は、彼女が魔女だと知らない者が見れば、(地球上の生き物の殆どは、そうだと思うが)まるで天国のような場所で、このような庭を作り上げたものはきっと神の手を持つのだろうと、自己満足の幻想に浸れるのだろう。
事実、それ程までに彼女の庭は美しかった。
蔓薔薇に囲まれた白いアーチの四阿があり、山藤の紫や、白色や、薄桃色の花簾の下には、東洋風の長椅子が置いてあり、銀の水面をぐるりと取り囲むように浮かび咲いている睡蓮の花は、水を通して向こうを視ることができる魔法の手鏡の縁飾りのようだ。
家の濃い茶の煉瓦の壁には、ピンクの蔓薔薇が旺盛に這い、玄関を出て直ぐにパンジーとビオラの丸い鉢が置いてある。
日陰になる所には、世にも珍しい山野草も生えている。
十月の収穫祭を待ちきれずに、シーツを被って仮装した子供のような姿の、細長い妙な花が咲いている。
それをじっと眺めていると、魔女は機嫌が良かったのか、それについての三つの名前を教えてくれた。
銀竜草、幽霊茸、水晶蘭、そのどれもがこの花にぴったりと当てはまった美しい名前だった。
「そいつは、蜚蠊(ゴキブリ)なんかが種をまき散らすお陰で色んなところに生えてくるだがね」
この魔女には、心地よい夢を見ているものの気分を守ろうとする気概が無いのだろうか。
確かに、俺は普段から虫を何かと食べているが、それでもなんとなく、見ると気分の悪い虫と良い虫がいる。
人間ほどそういうのに敏感でなくとも、他人が楽しんで見ているものに水を差すのは野暮というものだ。

時折、閉じ込められた腹いせに、八つ当たりのようにして、風がジャカランタの細かい紫色の花を運んでくるのだが、それが顔に遠慮もなくピシピシと当たる。
魔女は、俺の方に指を指し、片方の手で口を覆って「お前に幸運がやってくるらしいよ、ジャカランタの木はそういう謂れがあるんだ。」
と笑いながら、口にやっていた方の手を、腹の上に被せた。
そんなに可笑しいのだろうか、俺としては、どうせ運んできてもらえるのなら、小さい花びらよりも、それに厚顔で居候している虫達の方が嬉しいのだが。
このような苦言を呈したが、俺はこの紫色の花の木を気に入っている。
ぼんやり眺めていると、夕闇色に染まった空を思い出させる。
幸運にも、空が全く同じような夕闇空になると、花の色と空が溶け合って、同化し、木の枝だけが不自然に切り取られたようになる。
最近になって、ようやく覚えた人間の言葉をもっと理解するために、苦労しながら、書斎の埃が積もった分厚い書物を読み解くと、別の国の言葉で、これは紫雲木と呼ぶらしい。

魔女の結界は、どういう訳だか、気象を司る精霊達は閉じ込められるのに、鳥や獣はすんなりと通ることが出来る。いや、厳密に言うと、ここの結界を通り過ぎる時は、薄い紗の布をくぐった時のように、擽ったい感触がするらしいが。
この話は、庭のハイビスカスと凌霄葛(ノウゼンカズラ)の匂いに誘われてやってきた、賑やかな体色のハチドリに聞いた。
これは一体どういう訳だ、と魔女に聞いたが、
「そんなの、当たり前だろう、鳥や虫が来なければ、一体だれが花たちの健全な仲人を買って出てくれるんだい」
と、いとも簡潔な答えが返ったきた。
一瞬、なるほどと感心しかけたが、
「でも、獣避けをかけるのを忘れるのは不味かったねぇ、野良の犬猫にここを下の社交場にされかねない。おまけに目の前の黒いずんぐりむっくりも拾ってしまうし」
俺は、すぐさま自分の心の中の言葉を、前言撤回しなければならなくなった。
ついでに言うと、少し離れた場所の畑にも、山からの野菜泥棒がやってくる時があるのだが、魔女は、
「この薬が効かなけりゃ、犯人たちにはあたしが冬に着る毛皮のコートになってもらうよ」
とボヤきながら、畑の周りに、とても臭いどす黒い色の液体を巻いた。
後からそれは、いつかの闇市で、大陸の旗袍を着た怪しい商人から買いあげた黒狗の血液だということを知った。
「あいつは、自分の国では黒い狗の生き血は、魔も聖も関係なく寄せ付けなくなる代物だって息巻いてたけど、そりゃ犬の匂いがするものがありゃ、鼬も狐も近寄らなくなるよねぇ」
麦藁で編まれた、古くなって黒黴のようなものが所々に滲み出ている日除けの帽子を、籠に改造するために藤を編み込んでいる手を休めずに、魔女は言った。
その生き血の匂いも、一体いつまで効果があるか、知れたものだ。長雨が降れば、いとも簡単にその魔除は破られるだろう。
そうなれば、こんどは俺が畑の見回りをしなくてはならない。
どうか、あの砲弾のように、遠慮なしに突っ込んでいる猛禽共と出くわさなければ、良いのだが。
俺は、魔女の使い魔に堕とされた身分なので、そのような事を神に祈るわけにもいくまい。

魔女は、時折街に出る時がある。
その日の彼女は、やはり妙に浮き足立って、薬草を酒や油を漬けたものを肌に染み込ませてから、黄烏瓜の天花粉をこちらが咳き込むぐらいに、顔に細かくはたく、そして蜜蝋と薔薇の煎じ液でできた紅を唇に灯し、頬紅も兼ねて肌に塗りたくる。
瑠璃色の金青石(ラピスラズリ)を砕いた粉を瞼に眩して、流行りの服に着替えて、香りが強い薔薇や菫から蒸留抽出した香水や、時には精油をつけて、ようやく主人の変身が終わる。
こんなに、派手な物ばかり塗りたくっては、南国の鳥のようになるのでは無いかと心配していたが、不思議な事に、かの有名な砂漠の女王や王の仮面よりは、けばけばしくは無い。
何故わざわざ街まで行くのかというと、珍しい種や、好みの花が入荷していないか、街の大きい花屋まで、様子を見に行くのだ。
時には、知り合いの術師がいる占い館まで顔を見に言っているらしい。
「家にばっかり引きこもってるのもねぇ、たまには息抜きも必要さ」
しかし、今日ついに、贔屓にしている花屋の、割腹も気もいい女主人に
「あんた、結構長いことうちに通ってくれてるけど、最初にあった頃から、ちっとも変わっていないねぇ。全く羨ましいよぉ・・・うちなんてこの前旦那にねぇ・・・」
と言われてしまったらしい。
俺が、やってくるよりずっと前は、人々に怪しまれる事を薄々感じると、その度引っ越していたようだが、
「しんどいから、やめたんだよ。そのたんびに家具も家ごと、庭と畑も土地ごと移動させなきゃならないしね、それに、初めて見た時から、 場所は私の一番のお気に入りになったのさ」
と、こういう事らしい。
それで、今度からは一体どのような方法を編み出したかというと、全く別の人間になりすまして、花屋の釣り鐘草型のドアベルを鳴らすのだ。
時には、幼い女の子供、腰の曲がった老婆、きょろきょろ目が動く若者、粗野な服を着た男、影が薄く、幸も薄そうな女ー
このような情けない格好をしている主人を見ると、なんとも悲しくなってくるが、もちろんそんな事は口が裂けても言えない。
もし、寝言か何かでそんな事を口走った日には、俺は家の暖炉の前で、串焼きにされ、晩の魔女の腹を満たす事になるだろう。
他の人間の姿を写し取るのは、様々な方法があるが、魔女は化粧用の拡大鏡(コンパクト)の形に偽装した水銀の液体に、他の人間を移して、その姿を一時間借りする。
そして、それを実行に移すのもなんとも児戯に満ちている。
彼女は、隣町の植物園なる場所に行く際には、鉄の百足のような乗り物に乗って行くのだが、この時に揺れる乗り物の動きに合わせて、偶然を装って、その拡大鏡を開いたまま落とす。
離れた所まで転がって行った拡大鏡を、確認した他人は、足元の拡大鏡に姿を奪われたのも気づかずに、それを拾い上げ、わざわざ彼女の手の上まで届けてくれるという寸法だ。
ひと月前に、気さくな老人に拾って届けてもらった時は、
「良かったのぅ、べっぴんさん、あんたの鏡が割れなくて」
と言われたことを、紅茶味の葉巻を吸いながら、嬉しそうに話していた。
「あんただって、あたしからすれば子供みたいなモンなのにねぇ」
更に、もうひと月前に優しそうな青年に拾われた時は、わざとらしくにっこり微笑んで礼を言った後に、彼の前で片方の瞳をぱちぱちさせたらしい。
「ありゃ、あの様子だとあたしに惚れたね。からかわれてるってのも分からないのも可愛いモンだねぇ」
島国製の煙管の先に、同じく、その国からしか取れない薄荷の結晶を溶かした煙を吸いながら、魔女は呟いた。毒芥子の花びらを漬けた、蛋白石(オパール)のように色を変える不思議な酒は、半分くらいギヤマンのグラスに残っている。
満更でもない様子であった。
もう一度言うが、魔女はこのようなものを何より楽しみにしている。目が飛び出るほど長い生には楽しみが必要だと言うけれども、このような行いは、少しどうかと思う。彼女は、万事が万事、この調子だ。
街に行く度に、彼女は他人の姿を借りて遊び回っているのだが、万が一、街中で元の姿の本人と出くわさない、という事も限らなくは、ない。
そこで、最近は俺が上空から周りの様子を耳飾りを通して、伝える事になってしまった。
揃いの備品を耳に装着する時に、
「鳥の耳なんてどこにあるんだい、見えないんだから、無いのと一緒なんじゃないかい」
この魔女は、いちいち嫌味を言わないと気が済まないのだろうか、と思った。
「あ、ここか」
ぶすり、と音がして頭の皮膚に痛みが走った。
あまりにも急な痛みに驚いて、普通のカラスのように濁声で鳴き喚いたら、今度は躊躇なく引き抜かれて、耳周りの少しの羽毛が、耳飾りの細い針にくっ付いて行ってしまった。
俺が、渾身の物凄い目付きでを睨みつけたら、魔女は、
「おや、すまんねぇ。年寄りなもんで寸法と目方を誤ったよ。今度からは、頭に花でも飾ったら、可愛らしいし、禿げを隠すのに良いんじゃないのかい?」
などと笑いを多い隠せていない震え声で、ほざいた。
その日の俺は、庭の害虫どもを食うことをもう金輪際食わないと心で誓ったが、翌日には、やはり空腹に耐えかねて、キャベツの葉上に、我が物顔で陣取って、葉を食い荒らしている、まん丸と太った芋虫を飲み込むようにして、食べた。
獣にとって、飢えはなにより寂しいものだから、仕方ないのだ。
決して魔女の俺を見る視線が恐ろしくて、従ったわけではない。
「昔だったら、もう一人の自分の幻覚(ドッペルゲンガー)とやらでカタついたんだろうけど、最近の子は、めっきりそういうのに興味が無くなったようだからねぇ。面倒臭いものだよ。」
その台詞を言いたいのは、こっちの方だ。しかも、なんという事だろうか、その鳥目じゃ眩しい人間が沢山いる街の中は、よく見えないだろう、という全く意味不明で、可笑しな理由で、俺の目玉は、硝子製の鷹の目玉と、交換させられることになってしまった。これを悲劇と言わずしてなんと言うのか。
これが、魔女が遊び歩く時だけに限られているというのは、不幸中の幸いである。
天敵の視界の情報に脳みそを占領されているというのも、とても不快だし、少しだけ大きさが不揃いなせいで、全くごろがろして、適わない。
しかし、これだと街中の魔女の様子がよく見える。
彼女の顔は、家にも庭にもいる時とは全く違った顔をして、喜んでいる。
新しい花をつけた時や、好みの味の果実や野菜が実った時も、もちろん嬉しそうな顔をしているのだが、このような時は少し違うというか、喜び方が違うのだ。
こんなに、弛んだ表情をしている主人は、きっと油断と隙の大盤振る舞いだ。
全く危なっかしい、仕方が無いので、もう少しだけ、この嫌な硝子玉を着けていてやろうではないか。
それに、普通の人間のように、転んで生傷でもこさえたら、見ものであるからな。

また、いつものように馴染みの花屋に、この前の好青年の姿をした魔女が入ったところを確認し、俺は急降下して、近くの電柱から花屋の窓を覗き込む。
窓はいっぺんの曇もなくぴかぴかに磨きあげられていて、近くには、室内に置くぐらい繊細であるが、日光は貪欲に喰らう花々が置いてある。
茶色い素焼きの鉢に入った真っ赤なゼラニウム、白い鉢に治まっている濃いピンクのアザレア、
あとは、諸々の観葉植物に、小さな多肉植物。
花屋の主人は、どうやら新しい人間を雇ったようで、見慣れない若い女がカウンターでせせこましく働いていた。
女は、青年姿の魔女に気がつくと、直ぐに挨拶の言葉をかけようだ。
ここからではさすがに中の声は聞こえないし、耳飾りからは魔女の体のごく周りの音しか拾えないため、女がなんと声をかけたのかは定かではない。
魔女は、適当に返事を返すと、うろうろと店内の花を物色し始めた。
なぜだか、その様子を定員の女は、ばれないような仕草でじろじろと見てくる。
魔女と目が合いそうになると、不自然な速さで逸らす。
……これは、もしかしなくても、魔女のこの偽りの姿に一目惚れ、というやつをしたのだと、獣の俺でも分かった。
この姿の、本来の主もこの盗人魔女に心奪われたというのに、加えて同性の者まで虜にするとは。
いや、これはもう盗人では無い、大泥棒か怪盗だ。
この男の見た目が、店員の女の心を擽るものだったのかもしれないが、魔女本人の身のこなしや話し方が、見た目から余計な魅力を引き出しているというのも、過言ではない。
それにもしや、蜜蜂が花の匂いに誘われてくるように、人間に対して、似たような効果を発揮する薬でも付けているのではないのだろうか?
女の様子を知ってか知らずか、魔女はお構い無しに店内の品物を眺めている。
今度は花ではなく、種の袋を掴んで、後ろに書かれている育て方の表記を色々と見比べている。
その間にも、女の熱い視線は、青年姿の魔女、一点に集中している。
俺は、毛繕いをしながら、この可笑しい様子をじっと眺めていた。
全身の羽根を整い終わらせた頃に、魔女はようやく買う品物の目星と踏ん切りが着いたのか、二つの鉢と複数の種袋を入れた籠を大事そうに抱えて、女が待つカウンターへと進んで行った。
会計中にも関わらず、やたらを自分を見つめてくる女の視線に、どうやら、魔女はここでようやくどういう意味だか気がついたのか、左膝をついて体重をカウンターの板にかけ、女にいい顔をしたい男がよくする格好で、花屋の女定員と、話し始めた。
女からすれば、幸いにも、今の店内に客は一人もいなかった。
人間の時間で、時計の針が十五ほど進んだ頃に、花屋のドアベルを新しい客が鳴らした。
それで会話に一区切りが着いたのか、青年姿の魔女は、女に対して名残惜しそうな顔をして、店内を出た。
女の方も未だに熱が冷めないのか、ドアから出た魔女が歩き始めても、じっと見つめている。
そこで、いきなり魔女は、窓から店内の女の方に顔を向け、精一杯の、向日葵のような輝く笑顔をしてから、なんとそいつに向かって、いわゆる投げキッスというものをしたのだ。
……もう、何も言わない事にしよう。
その後の女店員は、恐らく日が暮れるまで仕事に身が入らずに、店主に叱られていたことだろう。

そういえば、この前はこんな事もあった。
魔女は、久しぶりに、元の姿に化粧を施しただけの姿で街中を彷徨いていた。
なんと、そこに魔女が姿を借りたあの青年とばったり出くわしたのだ。
ここで、弁解をしておくと、俺は魔女が乗り物の中であったという青年の容姿など知らなかったし、仮に知っていたとしても、青年は、深く帽子を被っていた為、上からではどんな人間か判別しずらかっただろう。
青年は、何故か鳩が豆鉄砲を食らった時のような顔をして、立ちすくみ、何故か手には色とりどりの花束を持っていた。
魔女の方も、鳩が豆鉄砲と言わずとも、悪戯猫がいきなり冷水を浴びせさられた時のような表情になっていた。それも一瞬で過ぎ去ってしまったが。
俺は、ああ、魔女と帰宅したら、何故、仕事をきちんと果たさなかったのか、と八つ当たりでもなんでも、されてしまうだろうなぁと独りごちていた。
もしかしたら、魔女は、鷹か梟に変身して、俺の事を追い回すかもしれない。
磔にされる聖人のような心地だが、それを想像すると凄惨過ぎて、どこか他人事の様に感じてもいた。
「ああ、良かった!この街でもう一度貴女に出会えるなんて!」
先に声をかけてきたのは、青年の方であった。
「まぁ、誰かと思ったら。お久しぶりね。」
家の中では絶対聞いたことが無い口調と声色で、魔女が返事をした。
「あのぅ、もし良かったら、これからどこか食事にでも行きませんか?」
成程、この青年も魔女に一瞬だけ弄ばれたのを、まだ本気にしているらしい。
それならば、さっきの表情にも納得がいく。
この広い街で、恋焦がれた相手にもう一度出会えた事を、心の中で、運命か奇跡だとでも言い換えているんだろう。
「ごめんなさい。お誘いはとても嬉しいのだけれども、人を待たせているものだから」
魔女は、如何にも残念そうに憂いを帯びた買おと声で、申し訳なさそうに呟いた。
本当はそんな事は微塵も思っていないだろう。
心の中では、魚が入れ食い状態の漁師のように笑っているはずだ。
「そうですか……。こちらこそ急に御免なさい。また、ご縁があれば、御一緒しても良いですか?」
青年は、捨てられた子犬のようなうるうるした瞳で問いかける。
「ええ、勿論」
魔女は、社交辞令とも言える返事をした。
「そうだ!これ、さっき花屋に行った時に貰ったんですが、僕が持っていてもしょうがないので、良ければ、貰ってください。どうぞ。」
そう言って、青年は持っていた愉快な色の花束を、魔女に差し出した。
「まぁ、良いの?花は好きなの、ありがとう。でも、これは人から頂いた物か、誰かにあげる物ではなくて?」
「いえ、良いんです。さっき知り合いの花屋に行ったら、見知らぬ女の子にいきなりこれを渡されたんですよ。そうしたら、さっと店の奥に入っていってしまって、返そうにも、呼んでも出てこなかったんです。多分、僕を似ている誰かと間違えたんでしょう。ははは。」
「……まぁ、そんな事がねぇ」
「ええ、だから僕がずっと持っていても逆にその女の子に申し訳無いですから。」
「そう、なら遠慮なく頂くわ。その女の子も、少しおっちょこちょいだけれども、怒らないであげてね。」
「えぇ、僕にも妹がいましてね、その子が最近になって好きな子が出来たようで、毎日、とっても浮ついてますから、こんなの可愛いものですよ。」
「まぁ、お兄さんだったのね」
完全に二人の世界だ。
普通の女ならば、花屋の店員のように、はしゃいでも良いはずだが、この時の魔女の瞳は、何故だかとても切なそうな顔をしていた。

家に帰ってから、俺は完全に覚悟をして、処刑を待つ罪人のような気持ちで、罰を待ち構えていたのだが、魔女は何もしてこなかった。
それどころか、あの青年から貰った花束のリボンを解き、背を覆っている包み紙を外すと、骨董品の、複雑な唐草模様が描かれた大きな壺にぐいっと入れた。
リボンと包み紙は、そのまま暖炉の火に焚べられた。
俺は、その大きな壺の唐草模様は、入れたものの時間を早く進めてしまう術の紋様だと知っていた。
その壺に入れれば、一晩で花束は枯れ果てて、目も当てられなくなってしまう。
「なぜ、そんなことを」
俺は、怖気ずく暇もなく魔女に聞いた。
「これで、三百九十二回目。」
一瞬、なんの事だか分からなかったが、直ぐにこのような花束や贈り物を貰った回数だと、合点がいった。
「懐かしいねぇ、私にも家族がいたのだけれど、もう顔も忘れてしまった。」
魔女は、ポツリと呟いた。
「いつまでも続くものは無いってことさ、花だって、いつかは枯れてしまうんだからね。」
その日の晩は、何故だか珍しく、魔女の寝床で、添い寝をする事を許された。
魔女の寝息が、俺の羽毛の上を走っていく感覚は、恥ずかしいような、でもどこか安心するような、へんな感覚がした。
翌日になって、花瓶になった大壺を見てみると、中には、水分が抜け切って、茶色くなった枯れ草が沢山詰まっていた。
魔女は、それをつまみ上げると、外に出て、畑の方へと向かって行った。
畑に着いた魔女は、枯れ草を躊躇無く、何も植えていない上の中へ、埋めて、地下の魔女の目が届かない所へ追いやってしまった。
綺麗な花束は、土の肥やしになってしまった。
どう声をかけていいか分からずに、目線だけ魔女にやっていると、彼女はいきなり振り向いて、こう言った。
「なんだい、辛気臭いねぇ。お前は身体中真っ黒なんだから、せめて面白い事でも言って、私を楽しませなよ」
一日寝たら、もうどうやら、いつもの主人に戻っていた。
風がまた、ジャカランタの花を運んできた。
やはり、いつもと同じように、俺にばかりピシパシと当たる。
その様子を見て、魔女は馬鹿にしたように笑い出す。
魔女の顔にも、体にも、髪にも、服にでさえも、紫色の小さい花はかからない。
……どうか、この主人にも、いつか幸せが訪れますように。

そんなわけで、俺とこの魔女の日常は、まだまだ続くらしい。

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