夜の闇傘

これは、誰も知らない程の、遠い遠い大昔、まだ、世の中が、決められた天の運航どおりに、生命が巡り巡って、全てが決まった順序で、きっちり廻っていた頃のお話です。


カラスの羽のような、黒いこうもり傘の中に、三日月をしまい込んでしまった男がいました。
男は、真っ暗な、本当の暗闇の中でも、皆から見つめられて、愛でられ、持て囃されている月の事を、どうにかしてやりたいと思っていました。
男の正体は、夜の闇でした。自分は、きちんと季節の時間通りに、仕事をしているだけなのに、なぜいつも人から疎まれなければならないのだろう、と考えていました。そんな考えが頭の中にある男の目には、月はこれ以上ないほど、人々が夜の闇のことを恐れる以上に、疎ましく思っていました。
だからこそ、月を自分の中にしまい込んでやりました。人々から、夜を優しく照らしてくれる月を奪って、困らそうと考えた訳ではありません。
とにかく、もうこれ以上自分の近くで、何かが大事にされているのを見るのが、冷たい氷柱を飲み込んだ時のように、辛いのでした。
月は、男に問いかけました。
「どうして、こんな事をするの」
男は、月に答えると言うよりも、自分の心に何回も言い聞かせてきたような声で、言いました。
「わからんだろう、お前には、お前らには、」
月は黙って、男の声を聞いていました。
「こんな事をしたって、なんの意味もない、自分の立場が余計に辛くなるだけだと言いたいのだろう?」
「そんな事は分かっているさ」
「だけども、だけれども」
「もう、おれは、こうでもしない限り、どうにかなりそうなのだ」
「そう・・・」
月は、そう言い返すしかありませんでした。
少し考えてから、男に優しく言いました。
「あなたは、そう言うけれども、あなたの暗さがあるからこそ、私が輝けるのです」
男は、我慢ならないように、こうもり傘をブンブン振り回しました。
「そんな、台詞は、もう聞き飽きた!だったら、そんな役目はおれでなくても良いじゃないか!なぜ、なぜ、おれなのだ!大気を掻き混ぜて、風を運ぶ役目のものも、草花や小さい生き物の生命を見守る役目のものもいるじゃないか!どうして、おれが、こんな役目をやる羽目になった!」
男は、暴れ獅子が岩を砕くような、勢いで、大声で叫びました。
「それに、それに・・・」
今度は、弱虫が泣くような声で、呟きました。
「どんなに、人々に、おれの仕事も、世の中の歯車を動かすための、大事な部品の一つだと、そう言い聞かせても、一向に聞き入れないではないか・・・」
今度こそ、とうとう月は答えに困ってしまいました。
「それに、もし、お前だって、この世に、生まれついた時から、このような仕事と、役目を負っていたらら、この、おれのように、こころが、真の髄まで、凍りついて、荒み切ってしまうに、決まっているさ・・・」
月は、ただ黙って男の話を、聞いていました。

永遠というような時が、一瞬で過ぎていくような感覚の中で、月が喋りだしました。
「そうですね・・・」
「あなたの本当の苦しみや、痛みは、あなた自身にしか、分かりません。」
「私が何を言っても、あなたは、私の言葉を、心の中に入れるのを、とても拒むでしょう」
「・・・」
男は俯いて、何も聞きいれたくないようでしたが、それでも、嫌でも男の耳の中に、月の優しい声が、鼓膜を撫でるように、届いていました。
「これは、別にあなたに言い聞かせたくて、言っている訳ではありません。私が喋りたいので、言っているだけです。」
「あなたに、辛い役目を負わせていることを、本当に申し訳なく思います。」
「いくら、夜の闇があるから、月が光り輝くと言うからって、そんな理由であなたが傷ついていい理由はありません。」
「あなたの言うとおり、その役目は、誰でもよかったのかもしれません。神様が、何をお考えになって、あなたをその役目に押し留めたのか、また、それにも意味があるのか、それすらも私達は何も分かりません。」
「私は、こんなまぁるい顔をして、いつも夜の中を照り輝いていますが、その中で、いつも私の近くにいる人が、こんなに傷ついているのも、気が付きませんでした。私達は、産まれたばかりの赤子同然に、世界の事を何も知りません。知り得る術もありません。」
「でも、今こうして、あなたの心の内を少しでも知ることが出来た。それを知っていながら、もうこれ以上、あなたを傷つかせながら、働かせる事は出来ません。」
「あなたは、そんな思いを抱えながら、これまでずっと世界に夜の闇を運んできてくれた、それだけで私は感謝の気持ちで一杯です。」
月は、流れる滝のように、言葉を次々と男に浴びせました。けれども、それは、痛々しく男をうちつけるものではなく、焼け爛れた肌に、薬湯が染み込むように、少しだけ、じりじりと感じるだけで、あとは優しく、硬い岩に、雪解けした、清水が滴るような、ものでした。
男は、月がこんなに口と舌を激しく動かして、言葉を投げかけているのを見たこともありませんし、誰かに、こんなに自分に対しての気持ちを伝えてもらうこともありませんでしたので、初めのうちは、幼い子供が、母親に、傷口に消毒液を塗ってもらった時のように、びっくりしました。
男は、食の細い人が、いきなり油っこいものを口に放り込んで、腹がはち切れんばかりに、食べた時のような、もう充分のような気持ちでいっぱいになりました。
「でも、私はどうすることも出来ません、あなたの役目を他の人に譲るか、任せるという事も、それが正解とは、到底思えませんし、他の解決策を考えても考えても、一向に分かりません。」
男は、項垂れました。自分の役目を他者に押し付けることで、自分を解放してもいい気持ちになれないことは、分かっていました。だって、世界のうちで誰か一人が、自分が味わったような辛さと苦しみで苦悩しているのに、それを知っていながら、分かっていながら、知らんぷりをする事も男には到底出来ないのです。この部分では、男も月もよく似ていました。では、一体どうすればいいのでしょう。
「あぁ!そうだ!そうだ!」
いきなり、月が信じられなくらいの、大声を張りあげました。きっと、人々が聞いていたら、地鳴りのように感じられて肝を冷やしたいたことでしょう。
「あぁ!これこそ、天から降りてきた考えです!天使が私に耳打ちしてくださったものです!」
月は一人でかなり興奮したあと、やっと落ち着いて、男の方に向き直りました。
「私たち、自分の仕事を、皆、代わりばんこにやれば良いのです!そうすれば、誰かがずっと辛い思いをしなくても済みます!」
月の出した答えに、男は呆気に取られてしまいました。
「だ、だがしかし・・・、」
「そ、それでは、世界中の、この世の生命を動かすための仕組みを、やった事の無い全くの素人に、任せるという事ではないか!そんな事、恐ろしくて出来やしない!」
男はかなり、狼狽えて言いました。
「どうしてです?そんな事、元々その仕事を請け負っていたものが、新しく任せられたものに、教えればいいのではないのですか?」
男は、今度こそ何も言えなくなってしまいました。
「・・・し、しかし、懇切丁寧に教えたとして、実際にやり始めて、何か問題が起こったら、どうするのだ!」
男はかすり声から、怯えた痩せ犬が、だんだんと大きい威嚇をするような、話し方になっていました。
「それは、もうやってみなければ分かりません。それに、あなたこそ、本当はやったことが無いから怖がっているだけで、心の奥底では、ワクワクした気持ちが、湧いてきているのではないのですか?」
男は、月の強気な返事に、もう、どうして良いか分かりませんでした。
「・・・それに、このまま代わり映えのない自分の仕事を、ずっと続けていくというのも、味気ないと思っている者も、いるかもしれませんし、この妙案を生かさない手はありません。」
「なにより、何もしないまま、あなたをずっと辛い目に合わせているよりも、ずっと良いでしょう?」
「・・・分かった」
男は、母親に諭された子供のように、小さい声ではありましたが、素直に、しっかりと返事をしました。
それから、月と夜の闇男は、世界中の何かの役目を担っている者達にこの話をして、皆、毎日好き好きにいろんな仕事を取替えっ子しました。
もちろん、自分の仕事に誇りを持って、ずっとこの役目を続けていきたい、という者には無理には言いませんでした。
母親の獣に子供を運んでくるものも、
世界中の死者の数を取り仕切るものも、
雲を風に乗せて強い日光(ひかり)が生き物に当たり過ぎないようにするものも、
清流の中の魚の鱗を煌めかせるものも、
蹄を持つ生き物が台地を蹴りあげる度に硬い音を響かせるものも、
獲物が獅子や大虎の牙にかかる時に血潮を吹かせるものも、世界中の全ての時計の針をそれぞれきっちり動かすものも、皆、いろんな仕事を、自分の思い思いにやり始めました。
中には、男の思った通りに、慣れているものがするよりも、思いがけない失敗や、とんでもない失態もありました。
世界中に、間違いや災害、事故や事件に、・・・その他、人間が何故こんなことが世の中に蔓延しているのだ、という不幸も増えてしまいました。
いつも決まった通りの流れしかなかった頃よりは、世の中はきめ細かくなり、混沌となりましたが、それ以上に、この世の地上に生きとし、生けるもの達が、これ以上なく、生き生きと輝きだしました。
あの頃の、月と男は、今のこのような世の中を見て、一体どんなことを思っているのでしようか。

あなたが、もし、街角で真っ黒な出で立ちで、雨が降ってもいないのに、真黒な夜の闇のようなこうもり傘を持った紳士を見かけたら、それは、あの男かもしれません。
通りすがりに、顔を見つめて、どこかで見たことがあるのだけれど、一体誰だか分からないとすれば、その男が、いつも私たちの近くにいて、いろんな役目をして、私たちを見守ってくれている証拠です。





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