【番外編】アメリカ人の個人主義-アメリカ合衆国について④-
「E Pluribus Unum」
は、最初の独立記念日である1776年7月4日に、アメリカのモットーとなったことばである。
「多数からひとつへ」である。
また、キケロは、
「おのおのが、自分を愛するように他者を愛するならば、多くの人々はひとつになる」と表現している。
独立から、228年後、オバマは、
「リベラルのアメリカ、保守のアメリカというものはない。
あるのは、アメリカ合衆国である。
黒人のアメリカ、白人のアメリカ、中南米系のアメリカ、アジア系のアメリカというものはない。
あるのは、アメリカ合衆国である。
共和党系の赤い州も、民主党系の青い州もない。
あるのは、アメリカ合衆国である」
という「E Pluribus Unum」と同じくらい素敵なスローガンを掲げた。
アメリカ人は、相反するふたつの性格を持ち合わせているように、私は、思う。
ひとつは、競争心あふれる一匹狼のような性格であり、もうひとつは、まとまった群れに属する協力的な狼のような性格である。
前者を、映画俳優のジョン・ウェインは、特に、見事に表現している。
「デューク」の愛称で親しまれた彼は、50年にわたって169本の映画に出演した。
映画のなかの彼は、常に偉そうで、押しが強くタフであり、自信過剰で人とは打ち解けず、我が道を行き、誰の助けも必要としない。
その姿は、アメリカを象徴するヒーローの典型だったが、愛される人間の典型ではないだろう。
さらに、それは、アメリカ人の本当の姿を最も正確に表現しているものでもないだろう。
後者を、表現しているのは、ジーェムズスチュアートが出演した映画『素晴らしき哉、人生!』である。
こちらは、もっと親しみやすく魅力的なアメリカ人像が描かれており、公共心に溢れたコミュニティ精神、隣人の思い遣りの素晴らしさ、人が助け合うことの喜びを高らかに讃えている。
その映画の幸せな結末は、町中の人々が勝ち取った、町全体の勝利である。
これは、誰にも頼らない、ひとりの人間の戦いが報われたことではないのである。
さて、個人主義は、アメリカ人の意識のなかに脈々と生き続けてきた。
個人主義は、アメリカの建国神話の中核をなし、近年の政治プロパガンダにおける主要な謳い文句として生き残っている。
財をなし、新世界で自らの信仰を実践し、旧世界での外圧から自由になった最初の入植者を、アメリカ人は自由を愛する者として、崇拝している。
その象徴となる姿は、ハリウッドの西部劇の孤独なカウボーイにも見て取れる。
そこに描かれているのは、自分の機転、度胸、銃だけを頼りに、悪者や先住民、そして牙をむく自然と対決する人間である。
そのあとに登場したのは、政治家である。
ハーバート・フーバーは
「強固な個人主義」
ということばを初めて使った。
このことは、1928年の大統領選挙による勝利を後押ししたが、その後、世界恐慌の苦難に対しては、彼の消極性を明らかにしたことばでもあった。
フーバーは、
「私たちの強固な個人主義というアメリカの体制と、それとは正反対の父親的保護主義や、国家社会主義というヨーロッパ的哲学のいずれかを選択することを迫られた。
後者の考えを受け入れていたら、中央集権化を通じて自治は崩壊することになっただろう」
と述べている。
フーバーは、政府による援助が
「アメリカ人の自発性と進取の性格」
を損なうと信じていたのである。
しかし、彼は、間違っていたのではないだろうか。
後から言えば、何とでも言えるので、言ってしまうと、
そのような徹底した個人主義は、世界大恐慌に対する世界大恐慌に対する経済的・人道的対応としては最悪であり、本来あるべき状況よりも、ずっと悲惨な状況を招いてしまった。
これに対して、フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策は、雇用を創出し、経済の回復に貢献し、政府以外に支援を受けるあてのない人々に対する打撃を和らげたといえるだろう。
アメリカ人の生活は常に、競争よりも協力を拠り所とするものでもあった。
初期の入植者は、とても固い絆で結ばれた共同体に住んでいた。
集団の外で生きることは、ほぼ不可能で、皆の承認なしに、生活してゆくことは出来なかったのである。
さらに、映画とは違って、昔の西部の住民は、多くの近代的な都市の住民よりも、礼儀正しく、協力的で、暴力に訴えることは、きわめて少なかったのである。
法規が日常生活のあらゆる側面を支配していた。
例えば、幌馬車隊は、西部を目指す前にさまざまな決まりに同意しなければならず、さらに、昔の西部では、現在よりも、銃規制がずっと厳しく、まず、保安官に銃を預けなければ、その町での自由な生活は許されなかった。
映画の中ほど、一匹狼や無法者、ガンマンに対してさほど寛容な社会では、なかったのである。
また、
「今日隣人を助ければ、明日は隣人が自分を助けてくれる」
という考え方が開拓者の伝統であった。
努力や天性と同じくらい、運が人生で大きな役割を果たすことを全員が解っており、分かち合うことは、逆境や不運に対する保険となり、集団の中で個々のリスクと負担を分散していた。
つまり、アメリカ人の祖先が、強固な個人主義を掲げてアメリカに上陸し、それぞれが自分だけを頼りにして、道を切り拓いた、という話は、根拠のない神話である。
皆が共に分かち合い、他者に対する責任感を持ち、
「E Pluribus Unum」
をモットーとしたアメリカが、今、確かに存在する分断に対抗し、再びひとつになるためには、難しい問題が山積していることは自明である。
アメリカも、それを取り巻く世界も、1776年とは、また違う問題を抱え、見方によっては、さらに複雑になったといえるだろう。
「アメリカを再び偉大にする」ための良い方法は、アメリカの政治家というよりは、アメリカの国民が、公共の利益を実現すべく動き、あらゆる忌まわしい対立を止めることなのかもしれない。
「E Pluribus Unum」、
それは、
「多数からなるひとつ」であり、
キケロに表現させれば、
「おのおのが自分を愛するように他者を愛するならば、多くの人々はひとつになる」
という素晴らしいことばである。
そのような素晴らしいことばをモットーとしている国、アメリカなら、きっと、「再び偉大に」なることができるはずだ、と、私は、思うのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
番外編でした😊