「個人の意見」とは何か


個人の意見に客観性を伴わせてはいけない。
客観という属性は、その内容の善し悪しとは無関係に、その意見を正当化してしまうパワーがある。
そしてもう一つ、否定と肯定は同じ程度の重みを持って捉えてしまいがちだ。しかし、否定は肯定意見の2倍のパワーを持つと思う。なぜなら、否定はその対象を「(部分的、あるいは全体的に)誤り」とした上で、自己の意見を表明するものだからだ。

これを最近感じた出来事がオッペンハイマーの原爆描写についてだ。作中での原爆投下の描写は間接的に止まる。
否定意見として、悲惨さが伝わらないというものがある。肯定意見として、映画という媒体では間接描写で十分伝わるというものがある。

私の意見は、本作は教科書やドキュメンタリーではなく伝記映画であるから、悲惨さを丁寧に伝える使命はないと感じた。また、原爆投下の重大さは、原爆の発明者を描く上で必要十分に描かれたと、全体を通して思った。

話は戻るが、ここで肯定側にも注意しなければいけないと思ったことがある。それは、肯定も時により「否定の否定」となることだ。
私のオッペンハイマーに対する肯定意見は、描写の否定をみて生じたものである。
これには注意しなければいけないと思った。

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