「努力」という言葉への違和感
「努力」なんて存在しないと思う。
以前は以下のように考えていた。
『努力は結果論だ。私は努力という言葉に、完全に自身で完結しているというおごりを感じる。もしくは、努力という美辞麗句で自身の行動を無条件によしよししているように感じる。もしくは自己陶酔的なところがあって、好みに合わない。こう考えるのは私の過去の経験によるもので、客観的正当性はおそらく伴わないはずだろうが。』
しかし、最近思ったのは以下のようなことだ。
いや、因果の逆転に違和感があるんだと思う。楽しいから「努力」という結果が副産物として生まれる。「努力」はあくまで振り返ってみたらそうだっただけで、努力の渦中では努力という行動を選択して行っているわけではない。
人が「努力」を選択できる原動力は「目的達成」ではなく「過程で感じる楽しさという快楽」のためではないだろうか。私は「努力している」人のうちに、「『目標』を達成するため苦行を耐えている人」は中々いないと思っている。
当然、過程の中で苦しい瞬間は多発するが、それを耐えているのはその後に訪れる「楽しさという快楽」のヤバさを知っているからであって、私たちが努力をするのは、私たちが根性を備えており、大局的には苦痛という自己感情を無意味とみなして行動できるから、ではないだろう。
楽しいから得意になって、その後目標を据えているに過ぎないのではないだろうか。
私は、努力に代わる言葉は「行動」だと思う。努めるという主観的評価が含まれない言葉で、好みに合ってしっくりくる。もしくは、快楽のための「行動」を「努力」と言い換えるよう努めてもよいかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?