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「すみっこマジョリティ」と、そこから考えた色々なこと

ポッドキャスト番組「すみっこマジョリティ」はゆるい雑談系エピソードが多いですが、そもそも番組名である「すみっこマジョリティ」という単語はすごく奥深いものであり、深く考えさせられるエピソードもアップされています。
そんな中で「すみっこマジョリティ」とはどういうことなのか、そこから考えたことをここにまとめたいと思います。


「すみっこマジョリティ」とは

私がポッドキャストをディクテーションする限りですが、すみっこマジョリティとは、私達はすみっこ(マイノリティ)という側面も持っているし、見方を変えるとマジョリティだよね、みんなどこかしらマイノリティで、どこかしらマジョリティだよね、マジョリティの中のすみっこにいる、という視点から物事を捉えていきたい、という内容になります。

  • 男性社会の中での女性

  • 異性愛者の中での同性愛者

  • 日本国の中での外国人

というのが世間では少数派として話題に上がることもありますが、

  • 女性が多くいる集団の中での男性

  • 全世界でみたときの外国人と日本人

と見たときに立場は逆転して一気に見方が変わる。つまりはどちらの側面も持っているから、どちらか一片に固執することなく柔軟に考えていこうね、ということのようです。

考えるきっかけ

どうしてこんなにすみっこマジョリティについて深く考えるようになったか、それはSNSで知り合い仲良くさせていただいた方から、「ひろひろしさんは異性愛中心主義を無自覚に押し付けている!」「すみっこマジョリティの大迫さん(パーソナリティの方)の考えはもっと高尚なものだから!」と割とキツめの言葉で主張されたことです。

その頃のわたしは同性愛があることは理解しているものの、結局人間が生物として生きている以上人間という種を保存することが生きる命題であるし、そのためには異性と交配しないといけない、そのために異性愛は存在して然るべきだ、という考えでいました。

「人が増えれば国力はあがる」というシンプルな図式なのであれば、四の五の言わずに結婚して子供を生んでください、そのための異性愛は正義だ、という結論にはなりますが、世の中そんなシンプルな図式ではありませんし、これからの時代は日本が世界で一番になることよりも国民それぞれの幸せを叶えていくことに重きを置く社会になっていくのであろう、と個人的には思っています。

ただ、よくよくネットや本などで調べていくと、そもそも「種を保存すること」「生き延びること」がDNAでプログラミングされていてそのための防衛本能として人間には色々備わっていることがわかっていますが、そもそもなぜ種を保存しなければならないのか、なぜ人は生き延びなければならないのか、などはよく分かっていないように思います。(もし明確な回答がある方は教えて下さい)

そう考えると、「種を保存するための異性愛が主ではない」と今は考えるようになっています。そう考えると、私は無自覚に発言していたのかもしれません。

結局「合理的だから」なだけではないか

そんなことを考えながら、今でも見ているガジェット系YouTuberさんの動画を見てふと気付かされました。

なぜカメラのシャッターボタンは右にあるんでしょうね?

その言葉を聞いたときに「ハッ」としました。自分は手は右利きなので気にもとめませんし、「右手でシャッターボタンを押す」のは利き手がどちらでも対応できることだとは思いますが、言われてみれば確かになぜカメラのシャッターボタンは右側なのでしょうか。

それはきっと利き手が右利きの人が多いからだと思いますし、昔は左利きの人は右利きに矯正しなさい、という風潮であったことも思い出しました。昨今では左利き用のお箸やハサミなども売っていますし、左利きの方がいてもおかしくない世の中にはなっていますが、でもマジョリティは右利きですし、カメラを購入する人は右利きが多数だと考えると、多数に売れる商品を作ったほうが売れる、という考えに至ると思います。

世の中細かいことはあるだろうけど、経済を回して生きていくため商品を売ることを考えた際、より多くの人に届かないと商品は売れないわけで、そうなるとマジョリティに訴求したものが都合がいい、ということで世の中のサービス・商品はつくられ、経済は回っているように思います。

異性愛・同性愛の話も、異性愛がマジョリティであるから、異性愛を訴求する商品・コンテンツが量産され、それによって経済が回っているから、あたかも「異性愛が正義」という考えが今でも蔓延っているのではないかなぁ、とも思います。

すみっこマジョリティやLISTENの声日記で上がっているエピソードを聴いて、今までの人生を振り返り、自分のSOGI(性的指向と性自認)について自分は揺れていたんだなぁ、と思うこともありますが、世の中に求められていないのと、マジョリティのコンテンツは「異性愛」「結婚」「出産」という流れなので、それに抗うほどの欲求は自分には持ち合わせてはいなかったので、今は結婚して子育てをしていて、主夫になりたかったですが仕方なく外に働きに出てなりゆきで会社の役員なんかもやっていたりします。マジョリティの考えを受け入れ便乗してしまった一人だと今では認識しています。

最近はVチューバーの方が人気なようで、私もたまに動画を見ておりますが、ある方が猫又おかゆさんが好きなようで、私も宝鐘マリンさんが好きで、このコラボしている切り抜き面白かった!と会話したところ、「私はそういうエロで売っている部分は見たくないんです!」と言われたことがあります。

Vチューバーの方に対してどのような感想をお持ちになるかは自由ですが、最近のVチューバーの方の中には胸を大きく露出した状態や下着が見えそうなスカート、いわゆる「男ウケする」「男を誘う」ような格好をしている姿をよく見ていて、それはやはり一定の需要があるからそういうことをしているのでは?とも思っています。「胸を大きく露出されることが女性側からしてもかわいい、素敵」という考えでもあるのでしょうか。

あと思ったことは、「私は本能的に右利きなんだから、左利きの人の気持ちを分かれっていうのは難しい話だ!」ということも思いました。もちろん自分と違う人がいることも理解はできますし尊重しないといけないのはわかりますが、そういった世界はその立場になってみないとわからない、ということで、より本能的な話なのであれば永遠にその立場にはなれないと思います。「右利きの人が左手でもお箸が持てるように」という、「逆側が寄り添う」というのもなんか違う気がしています。同性愛も本能的な話なので、同性愛者として生まれないと感じることのできないこともあると思うので、究極のところでは理解はできないのだろうと思っています。

内なる偏見は生活の至るところにある

世の中を効率的に渡り歩いていくために、知識をつけることは非常に大事です。ただしそこには「偏見」や「無自覚な差別」なども混ざっているように思います。

ある日思ってしまったのは、ある人に対して「守るべきものがない(結婚してたり子供がいてなかったりする)からああいう発言になるんだな」「大学を卒業してないからああいう行動になるんだな」と思ってしまうこともあり、それは偏見だったり差別につながるな、と思いハッとしたことがありました。

人間、自分を信じて生きているので自分が一番大事で自分が一番正しいと思ってしまう生き物のようで、自分以外は「変」だと思うのはきっと自然なことなんだろうなぁと思います。

例えば、手の形、足の形は人それぞれなのであって突然だと思いますが、私は自分の手が整っていると思われるので、他の人の手を見ると「気持ち悪い!」と偏見の目で見てしまうことがたまにあります。生理的に受け付けない話なのでどうしようもないのですが、こういう気持ちが偏見や差別につながっていくんだろうなぁ、と思いました。

すみっこマジョリティの中でも、「歴史を学ぶ中で、植民地として国を支配しているほうが強い、えらい、優秀という価値観を内包している、日本人は植民地でいいこともしたんだ、という刷り込み教育的なことを感じた」とあるように、教育として教えてきた中でも知らぬ間に「差別」や「偏見」などが混ざっていて、ただその知識を引っ張り出しているだけなのに、それを受け取った立場の人からしたら「差別」や「偏見」につながっていくのだろうなぁ、と思いました。

共通認識で会話できるのが楽しい

一方で、偏見や差別かもしれないけれど、それらを共通認識として会話ができるというのもそれはそれで楽しいものがあります。

例えば、「ひろひろしさんってガジェット好きですよね」と誰かから尋ねられたら、「男の子ですから」とパッと答えてしまうところがあるのですが、よくよく考えてみれば、別に男の子=ガジェット好き、ってことでもないでしょうし、ガジェットが苦手な男性ももちろんいると思います。ガジェット好きな男性は肌感覚としては多いと感じてはいますが、根拠となる定量的なデータは存在しないと思われます。(そういうデータがあったら教えて下さい)

これらのエピソードで話されていた、パーソナリティのミタムラさんが話されていた、「諦めが多い結婚生活」や「複雑なオトコゴコロ」などの旦那サイドの話や男サイドの話にすごい共感しました。(エピソードでも話されていましたが)別に奥さん側も諦めていることも多いのだろうし、「オトコ」とくくる必要ものないのは分かってはいるのだけれど、「複雑なオトコゴコロ」としたところにも共感の嵐でした。こういったラベリングできない、細かくてニッチな趣味・嗜好(思考)を語れて共感できるところがポッドキャストのいいところだと思っています。

言葉を喜ばすほうに使っていきたい

ここまで読んでくださりありがとうございました。

「だからどうしたらいい」という具体的な結論は今時点では出ていないのですが、とりあえずは自分が発言・発信することで無自覚に人を傷つけること、思っても見なかった方向に解釈されることが0ではないことを認識し忘れないでいようと思います。また、よくよく思うことは行動に対して強い「思い」を込めたときに期待通りの反応が返ってくればいいですが、返ってこなかったとき、逆にマイナスな反応がかえってくるかもしれない、と考えることは大事なように思いました。

言葉は包丁。包丁は人を傷つけることもできますが、食材を切っておいしい料理を作って人を喜ばせることができる。私の気持ちはできるだけ人を喜ばせることに使っていきたいです。

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