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ダンスリー・ルネサンス合奏団伝 海を渡った現代の吟遊詩人 その22

 そうこうして祖父を探すとともに、隣の駅の親友の家に行くとそこは無事だったが、家中ぐちゃぐちゃで友人はとりあえず祖父母の位牌だけを持って一階にいた。ともあれ、元気そうな顔を見て安心して、彼とご近所の仲のいいおじいさんのところに行くと、そちらもお元気で戦中に青春時代を過ごしたこちらのおじいさんの言うことには「B29で空襲を受けたときよりはマシやな。」とのことだった。比較の対象がよくわからないが、なにせ戦争を経験している人には勝てない。ともあれ、仲の良い人達が元気だったのでだいぶ安心した。
 家に戻ると我が家の祖父の捜索は続いたが、ほとんどみんなあきらめてはいた。遺体をなんとか運び出そうということになっていた。電話などつながらない状況だったが、その当時は携帯電話が出回りだしたところで、お隣さんが当時にしては珍しい携帯電話を持っていたので、善意であちこちに連絡をとってくれた。我が家の周りの人はだいたい無事だったが、神戸のパクさんのところがどうなったかだけわからなかった。
 そのうちに親戚や親の友人のところとも連絡が取れ、状況が少しわかってきた。我が家の近くや神戸は壊滅的な被害を受け、大阪方面に行くと無事だということだった。父などはややパニックにもなっていたので、我が家の周りだけが地震の被害を受けたかと思ったらしいが、そういうわけではなく阪神地域の多くが大規模な被害を受けていた。そのうちに、母の友人で大阪の豊中で大きな家に住むフランス人の石田モニックさんが、避難においでとすすめてくれた。夕方になって、どうやったのかわからないが、大阪に住む義理の叔父が車で来てくれたので、着の身着のまま叔父の車で母と豊中に向かった。父は引き続き祖父の捜索を現場でするので仁川に残り、地元の中学校で泊まった。こうして凄惨にして歴史的な1995年1月17日の1日が過ぎたのだった。

 母と私は優先的に友人のモニックさん宅にいったん引き取られた形だったが、母はなにせ生き埋めになっていたわけであるし、そうでなくても遠路はるばるフランスからやってきた身であるし、これは当然かと思う。私はというと、当時受験生で一浪してやっと志望校に入る道筋がついてきたところでもあり、保護されたところだった。幸いにもモニックさんの息子さんである健二さんも、ちょうど受験生で私と同じ関西学院大学を志望していて、彼の使っている教材を使わせてもらえるということもあった。震災ではつくづく人のつながりの大切さを教えてもらった。
 受験のさなかではあったが、この混沌とした状況では手もつかないところがあり、叔父の車で行ったのではないかと思うが、なにしろ仁川の家に行くと引き続き祖父を捜索する。祖父の持っていた金塊もあるはずだと、ちゃっかり探していたがそれはついに出てこなかった。無茶苦茶な状況であり、みんな少しおかしくなるところがあり、我が家の庭にあった石灯籠の傘の部分が盗まれるという珍事も発生した。石灯籠の傘を盗むと金になるのかもしれないが、それにしてもあんな何十キロもするものをどうやって盗み出したのか。この悲惨な状況のなか、そんな罰当たりなことがよくできると思うが、なにしろ辺り一面瓦礫の散乱した状況で、なにが起こっても不思議ではない。我が家も建て替えしたが、石灯籠の傘はないままである。
 震災翌日の午前は、父の音楽の教え子さんが三名ほどかけつけて捜索に加わってくれたかと記憶している。ふだんはそこまで親しくしていなくても、災害の際にはここぞとばかりに現れてくる人もいるものだ。親戚たちもやってきた。ふだんは従兄弟たちとのつきあいはあまりなかったのだが、みな困ったときはお互いさまと、非常に暖かい気持ちで助けてくれた。悲惨な状況ではあったが、みんなが集まってきて不思議な楽しさにその場は包まれてもいた。どうしようもない状況だったが、非常にありがたかったし慰められる思いでまた力も出た。捨てる神あれば拾う神あり、というものかもしれない。

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