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昭和の子どもの生活

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昭和に生きた子どもたちの生活を具体的に書いていきます。 ――昭和に生まれた方々には共感やなつかしさが、平成に生まれ方々には、そんなことがあったのかという驚きが――かならず生じてく…
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記事一覧

昭和の子どもの生活 ーNo.7 伯母の話:戦争中のサイパンの悲劇

サイパンの悲劇  ここでは、前章で述べたように、伯母から聞いた戦争中の話を書いておくこと…

渡辺健二
10日前
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昭和の子どもの生活 ーNo.6 戦争中の「ほら穴探検」

 年に1,2度、学校が早く終わることがあった。先生たちの都合だという話だったが、どこかに…

渡辺健二
1か月前
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昭和の子どもの生活 ーNo5. 火の見やぐら・半鐘・火事続き

 村には火の見やぐらがあった。村で一番高い建築物である。  場所は村の中心部から少し離れ…

渡辺健二
1か月前

昭和の子どもの生活 ーNo4.木登り・木渡り・カラスのたまご

・・・・・この部分は毎回書きます・・・・・  茨城県の鹿島町。現在は鹿嶋市になっているが…

渡辺健二
2か月前

昭和の子どもの生活            ーNo.3 j医とペニシリンに救われる

・・・・・この部分は毎回書きます・・・・・  茨城県の鹿島町。現在は鹿嶋市になっているが…

渡辺健二
2か月前
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昭和の子どもの生活                              ー…

・・・・・この部分は毎回書きます・・・・・  茨城県の鹿島町。現在は鹿嶋市になっているが…

渡辺健二
3か月前
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昭和の子どもの生活

 茨城県の鹿島町。現在は鹿嶋市になっているが、そこに私は生まれた。戦争が終わって5年経った昭和は25年(1950年)のことである。  その中の、低い山を切り開いてつくられた「鉢形」という地区が生活の舞台であった。。  ここは鹿島の中でも特に辺(へん)鄙(ぴ)な所で、バスは通っておらず、自動車が通ることもまずなかった。  ほとんどの家は農業をしており、米作りがその中心であった。  これから、そこを中心にした私の子ども時代の生活を書いていこうと思う。  子どもの生活に焦点を当て