シェア
サイパンの悲劇 ここでは、前章で述べたように、伯母から聞いた戦争中の話を書いておくこと…
年に1,2度、学校が早く終わることがあった。先生たちの都合だという話だったが、どこかに…
村には火の見やぐらがあった。村で一番高い建築物である。 場所は村の中心部から少し離れ…
・・・・・この部分は毎回書きます・・・・・ 茨城県の鹿島町。現在は鹿嶋市になっているが…
茨城県の鹿島町。現在は鹿嶋市になっているが、そこに私は生まれた。戦争が終わって5年経った昭和は25年(1950年)のことである。 その中の、低い山を切り開いてつくられた「鉢形」という地区が生活の舞台であった。。 ここは鹿島の中でも特に辺(へん)鄙(ぴ)な所で、バスは通っておらず、自動車が通ることもまずなかった。 ほとんどの家は農業をしており、米作りがその中心であった。 これから、そこを中心にした私の子ども時代の生活を書いていこうと思う。 子どもの生活に焦点を当て