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つみつくり

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一人読み10分弱
わたし:性別不詳、年齢は高め。

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わたし:いつからか、私の特等席に先客があるようになりました。
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わたし:一度なら残念ですむのですけれど、いつもおなじに居るのです。
わたし:私の特等席は壁際の、いちばん隅の、薄暗いところです。
わたし:彼は、窓のない壁の隅に身体を入れ込んで、一心に本を読んでいます。
わたし:私は、しかたがないので二番目に好きな席に座って、コーヒーを頼むのでした。
わたし:彼は一度も席を変えることがありませんで、すっかり特等席を奪われてしまいました。
わたし:はじめこそ嫌だなと思いましたけれど、細長い体で窮屈そうに本を読む姿があんまり一生懸命で、どうも憎めないのでした。
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わたし:私がすっかりなじんだ二等席でウェイターを呼んでいると、彼がやってきました。
わたし:彼は素早く近寄ってきてぴたりと隣へ座ってしまいました。
わたし:あんまり驚いてしまって、とっさにコーヒーを二つと言ったほどです。
わたし:ウェイターが離れると彼は私に微笑みました。
わたし:はじめてみた彼の笑顔を、みにくいと思いました。
わたし:見るに堪えぬみにくい顔でした。
わたし:こわばった私の膝に手を置いて、彼は眉を顰めてみせました。
わたし:そんな媚びた顔をしなくたって、私は頷くしかなかったのです。
わたし:夢中になって私は彼の手をとって自分の額に押し当てました。
わたし:それはまるで拝むように、そうしました。
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わたし:私はすっかり彼が隣にいることに慣れてしまいました。
わたし:しかし彼の笑顔はやっぱりみにくいものです。
わたし:みにくいといって、猿みたいな顔になるわけではありません。
わたし:ただ、笑い返そうとすると、あんまり違和感があってぞっとします。
わたし:こちらの胸に何か突き刺さるような顔、痛そうな、ゆがんだ、そういう顔なのです。
わたし:もともと造りのよい顔をした彼のことです、相応に美しく笑えるはずなのですけれど、本当に引き攣った顔で、彼は笑うのでした。
わたし:彼はよく本を読みますが、一心に読んでは時々顔を緩ませます。
わたし:そんな、面白おかしい本でもないのです。本屋の店先にずっと晒されるような品なのです。
わたし:稚拙な読み物にはきちんと笑うのに、私に向くなり引き攣って歪んでしまうのです。
わたし:私はそれを、自分の罪悪だと思っておりました。
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わたし:あるとき、彼に手を引かれて学校へ行きました。
わたし:彼の母校かと思われました。
わたし:プール開きの日であったようです。
わたし:小さい子供と若い女がたくさんで私は大変に気おくれがしました。
わたし:足の止まった私をちらと振り返って、彼は突然ほかの人々に大声を出しました。
わたし:叫びながら走り回り、楽しそうにしていた子供をすっかり怯えさせてしまいました。
わたし:私は止める気もせず呆然と見守っていました。
わたし:プールのあちらの方へみんな追い払ってしまうと、彼は機嫌よく私のところへ戻ってきました。
わたし:犬のようだと思いました。
わたし:目を離したすきに彼は服のまま水へ入って長い手足で藻掻いています。
わたし:そしてプール底に寝転んで、私を見上げました。
わたし:死んだ人のようだと思って私は見下ろしていました。
わたし:波が立つたび日差しが白く目を刺して彼を幾度も見失いました。
わたし:やがて上がってきた彼はプールの水が青いのにいたく感動したようで、しきりに声を挙げました。
わたし:青を私に運んでくれようとするのですけれど、
わたし:てのひらに掬うと射し込む光が青を攫って行ってしまって、透明にこぼれてしまうのです。
わたし:彼はとうとうあきらめて、濡れた頭を振りました。
わたし:そんな様子を私は暑さにぐったりしながら感じていました。
わたし:ただどうしようもなく愛おしく思いました。
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わたし:私が退屈しそうになると、彼はきまって私の名を呼んで笑います。
わたし:それはまるで少女のような無邪気さではありますが、私はそのたびにすくみ上りました。
わたし:ぎこちない笑顔、そしてそれさえすぐ萎んでしまう様子が、私を苦しめるのです。
わたし:すべては私のせいのように思われてなりません。
わたし:彼に出会ってこのかた、すべて悔いてばかりのように思います。
わたし:私の為すことすべて彼を失望させるようです。
わたし:仕方のないことなのかもしれません。
わたし:彼は若く、私は老いています。
わたし:私に彼をみたすものはもう残っていないのだと思うと、叫びだしたくなるのです。
わたし:時折彼は私を外へ連れ出したがりましたが、私には苦痛でした。
わたし:それでも彼に手を引かれて夢心地でついていき、彼の遊ぶのを見ながら死を思います。
わたし:こうして夢の中で死ぬのは甘美なことかもしれません。
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わたし:いま、本当に私は死ぬようです。
わたし:彼は泣いているように見えます。
わたし:私の目が曇っただけでしょうか。
わたし:とっくに硝子玉になった目から、不思議に涙が流れました。
わたし:死んでもよいと思わせた人のために、生きていたいと思いました。
わたし:彼に手を取られて私は
わたし:そうですね、
わたし:しあわせでした。

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