ことば遣いのつかわれよう

僕:性別不問
先生:性別不問 
10分弱

僕: 八角堂は書と塵とその眷属で満ちている。ひしひしと人の侵入を許さぬほどに満ちている。祖父が大事にため込んだその書庫へ僕は遠慮なく這入って満ちみちるものを掻きだそうとしている。

先生:「人がことばを使うのか、ことばに人がつかわれているのか」
僕: 黙々と塵を掃き寄せていると、先生がおっしゃった。
先生:「君は文楽を見ますか。でなければ人形劇でもなんでも」
僕: 「いいえ。どうも人形は嫌いで」

僕: ちら、と目をあげて先生を見た。先生はもう目を細く薄くしてもう僕の話など耳に入らぬようだった。

先生:「人形が嫌いだという人ほど生身の人間も嫌うがね。あれはどうなのだろう、根っからの人間嫌いなのかそれとも芸能が嫌いなのか、人の情を見せ物にするのがむごたらしくて気に入らないのか。マ、人形遣いと人形とが一体になっているのを見たことくらいはあるでしょう。
人形遣いの身体を我が物のように思えば人形遣いは人形を使っているが、客の側から見ればどうだろう。むしろ人形が動いていて、人形遣いはそれにノソノソとついて動いているように見えるものだよ」

僕: ことばを滔々と繰り出す先生は、水にでもなったように思われる。ほつれた糸を抜き出すように舌は絶え間なく遊び、端の始末もされぬ言の葉を纏いつかせて錦を織る。しまいにはその口元から透き通り、人間の姿を捨てて漂い出す。不可思議に仙になりゆく人を前に私は無感動だった。無味乾燥に棚からおろした本を風呂敷へ包む。いつしかずしりと重くなったので、両手を払って腰を伸ばした。

僕: 「先生、じき日暮れですから」

僕: 川を成そうとする先生のことばの群れに暇乞いをねじ込んだ。ことばどもは列を乱されると蟻のように小さな顎で嚙みかかってくる。そのうち新しい道筋を見つけて自然に整序される。噛まれれば腹も立つが、飽きられれば物哀しいものだ。はっと見れば先生も新たな列をなしかけることばに目を注いでおられた。

先生:「春ひさぐ人々のような潔さだね、これらは……、さて君は人間が嫌いな口かな。文楽くらい見たがいいよ。我慢して心中ものを見なさい、おもしろいから」
僕: 「心中ものなんぞ一等いやですね」
先生:「義太夫がことばを畳かけてくるからいやなんだろうね。わたしもそう思っていた時があったよ」
僕: 「はぁ」
先生:「びらびらとした言葉が語りの口元から垂れ流されている様を見るとね、最初は煙のように頼りないのですよ。それがやがて一反木綿のようにこちらへゾゾっと飛んでくる。オッと思った時にはもう百鬼夜行の如くですよ。半端な覚悟では踏み散らされてしまう、尻をしっかりと据えないとね」

僕: 聞くうちに目の前に細い筋が流れてきて驚いた。滑らかな煙であっ た。おや先生は煙草なぞ吸われたかしら。

先生:「わたしの魂を妬ませるのはそうしたゾワリとしたものですよ。ことばが筋となり流れになり広がりとなる様子です」
僕: 「とにかく僕はこのあたりで」

僕: 虹色の煙を口の端から噴き上げて先生は何もおっしゃらなかった。夕日と風呂敷を大きく背負って峠を後にした。


僕: 峠の上の八角堂は四方にあかり取りを開けたきり、電燈もないので薄暗い。障子紙が昨日今日の雨にふやけていい加減かび臭いところへ私は通って行って、憂鬱に塵を払い本をおろし、先生はただそれを見ておられた。

僕: 数限りないと見える本から時に押し花や布切れや手紙や紙魚が出た。私はそれらをみんな焚火に抛った。先生は紙魚を捕まえてはホイと口へ抛りこんだ。

先生:「文字を食うのでね、墨の味がする」

僕: そうですかと返して逃げ遅れた紙魚を潰した。指先に染みになった。

僕: 小さい頃、祖母に紙魚は魚ですかと聞いたことがある。祖母は針で虫をツプリと潰し、ずれた眼鏡を直して何も言わなかった。

僕: 「これは魚ですか」

先生:「魚の一種じゃないかねぇ。どうだっていいよ」

僕: 祖母もどうだってよかったのかもしれない。祖母の背中はいつも虫の殻のように頑なだった。

僕: 芸能全般を嫌った祖母は、歌舞伎ですら辛気臭いといって見なかった。耳が遠いから講談も落語もいけなかった。若い頃は踊りも歌も一等うまかったそうだけれど、かつて丸かった頬のあたりを見るにそれはそうであったろうと思う。時折調子外れに古い陽気な歌を歌うほかは縫物をし、着物の目利きに出かけた。縫物をし過ぎて手を壊した。痛い痛いといいながら僕の学生服の金ボタンを直した。僕の学問が進まないばっかりに卒業証書をついに見ないまま仏壇に並んだ。いまは祖父と並んで狭そうにしている。

先生:「いや実に退屈だ。仏壇の中ほど退屈だ」

僕: かわいそうなことをした。そんなに早く死ぬならもうちぃと優しくしてやればよかったと思いながら塵を掃く。粗末な焚火が目を離した隙に消えてしまった。

先生:「こんな風ではそのうちにわたしは殺生石になってしまう」

僕: 「先生はいったい何です」

僕: 溜息が出た。本を纏めたはよいものの、風呂敷を閉じるのがどうにも面倒になった。

先生:「いまは狐狸の類かなぁ、じっさいよくわからん」

僕: いまにも溶けそうな声をしている。外は小走りの雨である。

僕: 「おじいさんは僕には英語をやれと言う癖に自分は下町文化に嵌りこんでしゃがれた声で落語をやったりしたのです」

僕: 祖父も祖母もあんなに早く死ぬのなら、これっぽちの骨になるのな  ら、もう少ししてやれることがあったかもしれぬ。火葬場で、箸で骨をつまんだらコツといって崩れた。おかしくて笑い、そのあとじわじわと泣いた。

僕: 「おじいさん、は。おじいさんは身勝手で、芝居嫌いのおばあさんを連れて歌舞伎へばかり出かけていました」

僕: 祖父は江戸っ子口調でぺらぺらで軽口がすばしこい人だったが、ボケて口が重くなった。僕はもごもごと口を動かしてラジオの前に座っている祖父の背を覚えている。その横で縫物をする頑なな祖母の背中を覚えている。ラジオの無機質なことばに雁字搦めになって、二つの石人のように凝り固まっていたのを覚えている。

僕: 「大学で英語を少し教えて、先生と呼ばれたようなおじいさんは、僕を見たらガックリきてしまうでしょうか」
先生:「若い頃はできるだけ道楽をしろというだろうね。無責任なものだから」
僕: 「おばあさんは悲しむでしょう、堅い人だもの」
先生:「じっさい愚痴ばかり言っていたよ」
僕: 「おじいさん、」

僕: 何か言おうとして何時の間にか差し込んだ夕日の色に驚いた。開いた口であかり取りの窓を仰いだ。空しい口に嬉々として霞が飛び込む。光線の中を寂々として塵がのぼっていった。

僕: 祖父の書庫であった八角堂はじき空になる。じき平地になる。

先生:「君はいったい何だい」

僕: 「ぼ、僕は……霞を食って文字を吐くいきものです」

僕: 風呂敷を閉じなければと思いつつ突っ立っていた。

僕: 「霞を食って文字を吐くいきものなんです僕は……」

僕: 八角堂はひととき蜜色に満たされ、やがて峠と共に翳っていった。僕ひとりがずっと金ボタンを握りしめ、異様な激情にかられて立ち尽くした。

先生:「ことばを遣おうという了見だからよくない。ことばに遣われていればいずれ墨の味のする骨になるのだから、マァ好きなようになさい」

僕: 僕が落第以来先生と呼んでいるものが暗闇からそのようにのたまった。足元の風呂敷を結ぶこともできずに僕は金ボタンを握りしめてひとりで塵に積もられていた。

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