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ヤモリ

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鞍内:故人・鞍内一馬。作中で様々な役割で出てくる。「鞍馬十郎」を代々襲名する能楽師。
高子:たかいこ。鞍内一馬の隠し子であることがわかり、一馬の死にあたり鞍内家に迎えられることとなった。
後妻:あや子。「みや子」という名で芸者をしていた。
秘書:鞍内の住み込みの門下生だったが、稽古しなくなり今は秘書のような役割。
冬馬:とうま。一馬の息子。能をやめて演劇をやっている。

※舞台は京都ですが、関西弁は想定しておりません。なのでイントネーションなどを変える必要はありません。

所要時間:一時間程度

+++

後妻:(架空の歌です。自由に節をつけてうたってください)
後妻:〽京都よいとこ、歌う女の、声を追い追いほととぎす。
後妻:良い子手放し、寝ぬ子宿無し–––

0:(後妻、居間で来客と話している)
鞍内(百貨店の男として):それではええー、ツーピース。ですね。生地はえー、こちらで。はい、はい。仕上げ係には、大奥様はいつも加藤をご指名でしたけれども、よろしいでしょうかね。
後妻:誰でもいいわ。明日あたり届く?
鞍内:はっ。はっ?いえいえ、今日お伺いしたところ、ですから。明日にはとても、間に合いません。ええ。
後妻:そう?……明々後日は。
鞍内:いえ、あのぅ。一週間は頂戴しませんと。
後妻:ええい、はやくしてもらわなくっちゃ困るの。
0:(秘書が入ってくる。)
秘書:あ、失礼。
鞍内:ああ、いえいえ
後妻:なに?
秘書:……いいえ。
秘書:あの。旦那様の納棺の準備が済みました。
後妻:そう。後で参ります
秘書:そちらは。
後妻:百貨店の係りの方。喪服を仕立ててもらっているのよ。
鞍内:どうも。
秘書:はぁ。
後妻:(退出しない秘書の方を見ていらだちを見せ、客に)……ね、それじゃ頼みますよ。後でお電話しますから。ともかく、はやくね。はい、さよなら
鞍内:はい、はい……そいじゃ失礼いたします。
0:来客を見送る
後妻:なに。急の用事でもある?
秘書:いいえ。
後妻:なによ、それじゃ不躾に応接の邪魔をしないでちょうだいな。
秘書:喪服をいまさら、ですか。
後妻:だってこんなはやくに亡くなると思わないから。
秘書:亡くなってからとってつけたように用意するものではありませんよ。
後妻:非常識で結構。どうせ学生に毛が生えたような女です。
秘書:明日の通夜にはどなたかのをお借りしましょう。そのお洋服は葬式には間に合いますか
後妻:さ、しらない。それは向こうの仕事だもの
秘書:さっきご注文なさったんなら間に合いませんでしょう。大奥様の紋付(もんつき)がありますから。間に合わないようならそれをお召ください。
後妻:いやよ。ツーピースを着るのよ。お義母さまのような寸胴じゃないのだし、着物は似合わないから。
秘書:間に合わなかったら、どうするおつもりで……
後妻:(かぶせて)間に合わなかったらなんにも着ないで出るまでよ。ゴダイバ姫になってやる。
秘書:あや子さん。
後妻:あたくし少し休みますから。どいてよ
0:後妻、退室
秘書:(電話に歩み寄りダイヤルを回す)もしもし……奥野です。車を回してください。駅前まで。はい、すぐに。

0:最寄りの駅

高子:あのぉ、花時計にはどちらを向いていけばいいでしょう。
鞍内(駅員として):そこの改札出てすぐですよ
高子:えっ出てすぐ?ありがとうございます!
高子:今何時だろう。急がなくっちゃ

0:(駅前、花時計まえ、秘書が車の前で待ちかねている)
高子:あ、あの!
秘書:あ、たかこさん?
高子:あなたが、
秘書:ええ、はい。お電話した奥野です。お待ちしておりました。さ、どうぞ(高子の荷物を持とうとする)
高子:いえ、自分で持ちますので、これくらい……
秘書:左様ですか。では
高子:はい、お世話になります。(車に乗り込む)
0:(車、静かに走り出す)
高子:あの、
秘書:はぁ。
高子:……
秘書:……なんです?
高子:あの、やはりあたし
秘書:お部屋ももう用意しておりますので。
高子:あ、……
秘書:たかこさん。いけませんよいまさら。
0:(車内無言になる)

0:鞍間邸に到着

秘書:到着いたしました。こちらが本日よりあなたのお家となります鞍馬邸です。
高子:は、はい。
秘書:玄関に車をつけてもいいのですが、せっかくですから庭を少し歩いて回りましょうか。
高子:はい。
0:(降車)
秘書:こちらのお庭は五代・鞍馬十郎こと鞍内一馬様が手掛けられました。小川治兵衛(おがわじへえ)の弟子に依頼し、山縣有朋別邸・無隣庵(やまがたありともべってい・むりんあん)の庭に似せて、芝で覆われた珍しい庭園です。まぁ今はだいぶ苔になってしまいましたが
高子:……あ、うさぎ!
秘書:ウサギはお好きですか
高子:あ、はい、かわいいなぁ……小学校でみんなで飼っていたんです。
秘書:そうですか。あれは野生ですから見かけてもお手を触れないようにしてください。
高子:野生ですか。珍しいですね
秘書:大奥様(おおおくさま)が愛玩されていたものが逃げましてね。それがふえたのだと思いますよ
高子:はぁ……
秘書:たかこさんは岡崎に行かれたことがありますか
高子:おかざき?
秘書:京都の一番よいところです。
高子:いいえ、あたし行ったことがなくて……
秘書:それはいけませんね。能を御覧になったことも?
高子:いいえ……あ、昔に一度
秘書:こんなお家の娘さんにおなりなんですから、当然、能のことを少しはお勉強していただきます。ご本もたくさんありますし、ビデオもレコードもたくさんありますからよくお勉強してください。
高子:れ、レコード
秘書:さ、こちら玄関です。

0:(ドアを開く秘書)
秘書:冬馬(とうま)様。お出かけですか
冬馬:うん。稽古稽古。
秘書:ちょうどよかった、こちら、たかこさんです。
冬馬:あ、僕の妹になる子?たかこちゃんて言うんだ?ちっさくて鼻がまるくてかわいいね
秘書:たかこさん、こちら旦那様のご長男の冬馬様です。
高子:よろしくお願いいたします。
冬馬:うん。俺ね、とうま。妹が欲しかったから嬉しいな。昼飯の時に話そうな!そいじゃまた。
高子:あ、はい。いってらっしゃいませ。
冬馬:(不思議そうに)おう
秘書:お戻りは?
冬馬:12時ごろカナ
秘書:遅くなられちゃ困りますよ
冬馬:稽古場に電話してこないでくださいよ!12時!12時に帰ってくるからさ。じゃ!
秘書:たかこさん、こちらお入りください。
高子:はいっ……
秘書:……お荷物はそこに。お靴は脱がなくて結構です
高子:あっ、はい……あの、荷物はここで?
秘書:結構です。さ、こちらへ

0:(居間の戸を開ける)
秘書:奥様。
後妻:はぁい?
後妻:あら、なんでしたっけ、タカコ?
高子:あ、
秘書:ええ。この度お邸にお迎えします、たかこさんです。
高子:初めまして
後妻:ま、座んなさい
秘書:お茶でも?
後妻:ブランデー。
秘書:たかこさんは?
高子:えっと、お水でもいただけたら……
秘書:お二人ともお紅茶にしましょう
後妻:ちぇ

0:(秘書、退場)
後妻:あんたの母親、なんで死んだの?
高子:あ、胃がんで……
後妻:ああそう。若くてもなるんだ、がんってのは。
高子:働きづめで、具合が悪くなった時にはもう手遅れで
後妻:ふぅん。でもよかったね、死ぬ前に父親のことを聞いといてさ。知らなかったんでしょ?
高子:全然。おとうさんはもう死んだって聞かされていて……それが母が死ぬ間際に初めて、京都にいらっしゃるって……。でもそれを知ったからって何もできませんから
後妻:娘だってわかったんならすぐにでも押しかけてくればよかったのに。
高子:そ、うなんでしょうか。この間奥野さんからお電話いただいて、まだ迷っていたぐらいで。今もなんだか……
後妻:嬉しかった?
高子:え?
後妻:「おとうさん」ができて。
0:(秘書入場)
高子:どうかな。ちょっと、わからないです。お会いしたことも、ないし。
秘書:どうぞ。(お茶を出しつつ高子にむかって)いやぁ、お手伝いさんをクビにしたものだから忙しくってね。
高子:はぁ
後妻:何よ。あんな鈍な女、雇っちゃおれないでしょ。
秘書:(若干笑いを含んで)いやいや別に……
後妻:邪魔。下がってなさいよ、今この子をいじめるのに忙しいんだから。
秘書:はい、はい
後妻:ネチネチした男ってきらい!
高子:あっ、あの、でもここに来られたのは嬉しかったです
後妻:ん?
高子:あ、さっきのお話の続き……。母が元は京都で働いていて、京都はとてもいいところだと……だからちょっとあこがれていて
後妻:嵐山に来たくらいで喜ばれちゃあね。京都に行ってからいいなさいそういうことは。
高子:え、ここも京都じゃあ?
後妻:違うわよこんな田舎。「京都」ってのは京都のまちなかのこと。
高子:岡崎のような……?
後妻:フン、岡崎ですって古臭い。誰が言ったのよ
高子:奥野さんが
後妻:あらそう。どこから来たんだっけ、金沢?あたしも元は金沢よ
高子:えっ!そうです金沢で焼き物のギャラリーを。
後妻:ギャラリーはどうしたのよ。閉じちゃったの?
高子:いいえ、叔父がやっています。
後妻:よかったね継ぐ人がいて。もったいないもんね。
高子:ええ、はい。
後妻:あんたもさ。隠し子たぁ言え鞍内の娘なのよ、この邸のご主人の娘さんなんだから、堂々としてなさい。そんなねぇ、人差し指をもじもじさせてちゃ駄目。
高子:は、はいっ
後妻:そのうち弁護士が来るわ。顔でも洗ってらっしゃい
高子:はい
後妻:ふふん、鞍内に似たところなんてひとっつもないね。よかったわ。鞍内に似たんじゃ熊だもんね。

0:(茶室に集まる一同)

鞍内(弁護士として):それでは鞍内一馬様のご遺言を読み上げます。
鞍内:能楽堂、及び飛燕閣(ひえんかく)、また財産の二分の一をあや子様に。ご嫡子の冬馬様には四分の一を、たかこさまには八分の一を……そのほかは能楽保存協会へ寄与されます。
秘書:……使用人のことは特に?
鞍内:は、ええ、遺言上では……
秘書:……
後妻:結構です。
冬馬:どうもありがとうございました。これ、そこの茶屋の団子、包んでもらったからお持ちください。うまいですよ。
鞍内:おお、こりゃどうもお気遣いいただきまして、蠟梅庵(ろうばいあん)の、うまいですよなぁ、ここのは……それでは失礼いたします。
高子:ありがとうございました……
0:(弁護士退場)
冬馬:たかこちゃん、浮かぬ顔だな。お団子が欲しかった?
高子:いえ、なんだか遺産だなんて、想像がつかなくて
後妻:ま、ともかく戻りましょ。ここ、寒いわ
冬馬:いやぁー鷹野さんがやめちゃったから家庭的な昼飯は望めないな
秘書:まったくです。鷹野さんがお料理もお給仕もみんなやってくれていたのに……
後妻:まだ言ってやがる、あんなこと。お手伝いの癖に客間でがぁがぁ昼寝するような女がいますか。やめてもらって当然よ。
冬馬:はは。んで、昼飯は?
秘書:とりいそぎ小野ホテルから取り寄せました。
冬馬:だってさ。よかったね、高級食だ。
後妻:奥野。如仙(じょせん)さんのとこから電話はまだないの
秘書:まだです。お料理運びますのでお席に。
冬馬:なんだ、如仙さんとこって。
0:(話ながら一同着席)
後妻:舞台下の板が随分前から外れているから変えてもらうのよ。今朝見せてもらったら埃だらけでひどかったわ。壺も新調してさっぱりしましょうか
冬馬:おい勝手にそんなことをしちゃいかんよ。響きも何も変わるんだし、公演の予定をずらさなくちゃいけないだろ。今から急には無茶だ
0:(スープが配られる)
後妻:えらそうに。
冬馬:能に関してはあんたほど疎くない。
後妻:そんなら他人事のような顔はおやめよ。あんたがこの面倒な舵取りをやるべきところをあたしが代わってあげてるんじゃありませんか?
高子:(小さな声で)いただきます
冬馬:フン、だましだましで奥様になりくさったんだから、それくらい嫌がらずにすりゃいいでしょ。
後妻:なんですって!
冬馬:(スプーンで皿の端を打つ)
後妻:……なによ
冬馬:(リズミカルに打ち続ける)〽スープ・が・さめますよ~
後妻:そりゃそうよ冷めるわよこんな不愉快なんじゃぁ。
高子:あ、でも、おいしいです、よ。……
冬馬:そうだね、ポタージュなんて冷めてもうまいさ。ね、たかこちゃん
高子:……あッあの、冬馬さんは能はやらないんですか。
冬馬:ん?うん。僕は演劇をやるので忙しくてね。能はやめちっまったよ
高子:演劇?
後妻:(かぶせて)ハ、演劇!
冬馬:黙っていろ。
0:(投げつけられたスプーンが卓上を跳ねる)
冬馬:はーあ。たかこちゃんさ、チョイでかけようよ。
高子:え、お食事……
冬馬:いいのいいの。外でおやつをたんと食べるんだから。さ、行こう。
後妻:出かけるんなら、修理の件はあたしが安いところに決めちまいますよ
冬馬:やってみろ。あんたが恥をかくだけさ
後妻:(机をたたく)
冬馬:たーかこちゃん早くいこう鬼が来るぞぉ
高子:そ、それじゃ、あの失礼します
0:(高子、出ていこうとして秘書にぶつかる)
高子:あっ
秘書:おお、どこへ
冬馬:外!
0:(高子、冬馬に手をひかれて退場)
秘書:(溜息)……奥様、喪服の件ですが。
後妻:なによ
秘書:百貨店の係りの者と話しましたが、やはり間に合わないということです。
後妻:だったら裸で出るっていったでしょ。義母様(おかあさま)のしょうのう臭い着物なんか死んでも嫌。
秘書:いえ、わたしの妻のツーピースがありますのでお貸ししようかと
後妻:……妻。
秘書:ええ、妻のツーピースを。
後妻:あはははははは。よく言えたわね!このあたしに。いいわよ着るわよ、着てやるから。その女ごと連れて来なさい。目の前で裸に剥いていじめてやるんだ

0:(喫茶店のベル)
鞍内(マスターとして):いらっしゃいませ。ああ坊ちゃま
冬馬:よ、奥の席あいてる?
鞍内:あいとります
冬馬:コーヒーフロートをふたぁつ
鞍内:はい。
冬馬:ゆっくりでいいからね
鞍内:はい
冬馬:たかこちゃんコーヒー好きかい
高子:あ、飲んだことがなくって……
冬馬:えっ。マスターごめんよ、コーヒーフロートを1つとクリームソーダ1つに変更!
鞍内:はぁい。
高子:わぁクリームソーダ。
冬馬:レトロでいいよ、ここのは。真みどりなんだから
高子:初めて飲みます
冬馬:あれっ、そう。おいしいよ甘くて。ねぇ、ぶあついパンケーキか、甘いトーストだったらどっちが食べたい?
高子:あっ、あのお財布を大きな鞄に入れっぱなしにして忘れてきてしまいました!
冬馬:おごったげるさ、もちろん。で、どっちがいいの。
高子:あ、恐縮です、あの……それじゃパンケーキを……
冬馬:マスター!パンケーキ二つ!……そんな縮こまらなくていいさ。いやーあんたもさ、大変だよね。何がきっかけでわかったわけ?
高子:わかったって?お父さんのことでしょうか
冬馬:そ!急にあんなオジンが父親だとわかってさ。
高子:びっくりしました。あたし、実は昔にお能って見た事あるんです、一回だけ。金沢で、母に連れていかれて。
冬馬:ねむたかったでしょ。
高子:実をいうと、はい。でも母がとても楽しそうだったのをおぼえています
冬馬:そうかぁ、もしかしたら親父が出ていたのかもしれないな。わりと地方にもよく行っていたから
高子:能を演じている方って、なんだかお人形みたいで、あの、鞍内さん、おとうさんのお写真を見た時、うまく結びつかなくて。あの舞台上の感じと
冬馬:そりゃそうだ。まぁそんなもんだよな。僕だって洋服を着ている自分と能装束を着た自分を並べて想像したら、変な感じがするもの。
高子:冬馬さんはお能やめてしまったんでしたっけ
冬馬:うん。十七まではやってたし、老いぼれたら順当に鞍馬十郎を襲名するんだろうなと思ってたよ。あっ、鞍馬十郎ってのは鞍内がずっと襲名している名前なんだけどね
高子:それじゃあどうして?
冬馬:たかこちゃんに話してわかるかなぁ。

0:(カンカン!拍子木の音)

鞍内:鞍内冬馬の話。

冬馬:世阿弥の本なんか読んでいると、どうも僕は能に向かない気がしてきてね。
冬馬:世阿弥の言う「演じる」というのが演劇のやり方と喧嘩してどうも納得がいかない。演劇の学びは能に繋がるだろうと思ったけども、むしろ邪魔をすることが多かった。
冬馬:無知な父はいいなぁ。そう思った。
冬馬:鞍馬十郎こと鞍内一馬、俺の父は、背が高く、恰幅の良い体から相応の太い声を出した。学校は適当にあがってしまって、能しかしてこなかった古臭い男だった。
冬馬:その図体に似合わず、「天女をやらせたら達人」「優美の人」と言われたが、まぁまったく普段はひどかった。
鞍内:「ああそうですか、加藤君のところのね」
冬馬:と、よその女の書生を紹介されると、いきなり
鞍内:「あんたは指毛の処理なんかちゃんとしてる?」
冬馬:「えっ、してます!」とその若い女は泡を食う勢いで返事をした。僕は一連のすべてにうんざりした。
鞍内:「いやー偉いな、ぼくなんか天女をやるときに限って剃り忘れるからねぇ」
冬馬:「やめろよ父さん」
鞍内:「え?なんだよ。舞台写真を見るとやっぱり毛深くてコッケイだよな、あれな」
冬馬:「下品だろやめろよ」
鞍内:「ええ?」
冬馬:そんな父は舞台の上で女人だった。恋の執念に焼き焦がされる女、我が子の行方を狂いさがす女、そして花降り雲香る天女。思えば、父は年齢にそぐわず若く美しい女ばかり演じたものだ。

0:(カンカン!)

冬馬:いや、こっから先はやめておこう。話したってしかたないや。
高子:わ、気になるなぁ……
冬馬:忘れてよ。さ、クリームソーダだ。さくらんぼあげるよ。
高子:えー、クリームソーダ、こんなにきれいなんだ……食品サンプルとおんなじか、もっときれい!
冬馬:ふふん、だんだん景気よくなってきたな?僕ほんとに昔から妹がほしくてね。だから腹違いでもいいから妹をこさえてくれって父に冗談で言ったことがあるくらいだよ。
高子:まぁ
冬馬:ほんとほんと。たかこちゃんはどお?妹になってみて
高子:だれかの妹になるなんてびっくりです。ひとりっこだったから……
冬馬:妹にとってみちゃあ兄なんてあんまり嬉しくないかもしれんな。嫌わないでね、いろんなとこ連れて行ってあげるから。
高子:そんな……気にかけていただけるだけでありがたくって……。母が、きっと鞍内のおうちにいったらいじめられてしまうだろう、って。しきりに泣いていたんです
冬馬:ふふ、あや子さんがいじめるよ、僕の代わりに
高子:あや子さん?
冬馬:あの、おやじの後妻のね。……パンケーキまだかなぁ。

0:(邸に残った二人)

秘書:ところで、本当に工事なさるんですか
後妻:舞台の?するわよ。
秘書:旦那様の跡継ぎとなる方がいらっしゃらないのに、能楽堂をずっと維持するのも難しいでしょう
後妻:そりゃ、能のつながりはどんどん減っていくだろうからね。だから能以外のこともあの舞台でできるように新しくするのよ。真新しい舞台になったら、その記念で色んな団体に使ってもらやいいわ
秘書:ほぉー
後妻:宮戸(みやと)のおかあさんに若い舞妓を寄越してもらってもいいし。ま、そのうち冬馬さんの演劇なんかもやればいいわ、能楽堂で。どんなのやってるか知らないけど。
秘書:ふふふ。
後妻:なぁに。さっきから。なんでも言いなさいよ
秘書:できるかなそんなことが。おまえ、信用なんかないんだから。如仙さんだって冬馬さんが声をかけなきゃ動かんと思うぜ
後妻:……
秘書:女ひとりで肩肘張ったって始まらんさ
後妻:なにも私一人でやろうっていうんじゃないわよ。私がむちゃくちゃやってるのを見かねて、そのうち冬馬さんが代わりにやってくれるわ
秘書:俺を頼ったっていいよ。「むかしみたいに」

0:(カンカン!拍子木の音)

鞍内:秘書、奥野の話。

鞍内:奥野、お前ずいぶん遊んでいるらしいな。
秘書:えっ、誰がそんなことを
鞍内:うちのが文句いってたぞ
秘書:奥様が?
鞍内:芙美は潔癖だからなぁ。
秘書:あはは……
鞍内:いやー、俺が甘いのがいかんのかな。もう遊ばん方がいい。お前も一応うちの書生なんだから、稽古もせずに茶屋にいりびたるようなんでは評判がわるいだろ。
秘書:はい、すみません
鞍内:やる気がないならお前、やめたらいいぞ。いつまでもぶらぶらしてちゃあな
秘書:……
鞍内:え、どうなんだ。実家にでも帰ってやれ。
秘書:少し考えさせてください。
鞍内:うん。門下に残るなら謡をもう少し真面目に稽古しなくちゃいかんぞ。地謡に入っていてもお前の胴間声ばっかり気になる
秘書:はぁ……。お手伝いでお家に置いていただくわけにいきませんかね。実家はどうも窮屈で……

0:(カンカン!拍子木の音)

鞍内:そして、後妻、あや子の話

秘書:奥様のお友達からまたお手紙が来ていましたが、まだまだ奥様の亡くなったのをご存じない方がいらっしゃいますね。
鞍内:まぁ、女子大時代の同窓生なんかになってくると数えきれんからな。芙美ってのは顔が広い女だったんだなぁと思うよなぁ、しみじみ。
秘書:……(笑いを含んで)旦那様はどういう女がお好みです。
鞍内:え?なんだよ。そうだなぁ、きれいでもどうでもいいが、声がいい女でないとな。
秘書:ああ、声が良い女。……そういえば歌のうまいのがひとりおりますよ。祇園「宮戸」(ぎをん・みやと)の芸妓です。
鞍内:ふぅん
秘書:奥様ほど声がいいかはわかりませんが……
鞍内:いや、宮戸の芸妓ならちょうどいいや。こんど家元が遊びに来るから宮戸で一席やるんだ。ついでに顔見ておこう。名は?
秘書:みや子です。
鞍内:みや子。良い名だな。本名は?
秘書:なんでしたか、たしか「あや子」です。
鞍内:ほー、お前のコレじゃないのかよ。本名まで知っているなんてのは
秘書:まぁひょんな繋がりで

0:(座敷)
後妻:あの……「みや子」です
鞍内:ああ、あんたがみや子さんか。どうも宜しく
後妻:今日は呼んでくだすってありがとうございます。
鞍内:あんた歌がうまいって聞いたんですよ
後妻:あら、良く褒めてもらいますけど、能楽師の先生に言われると恥ずかしい
鞍内:いやいや、恥ずかしがることはないけどね。いえなんでそんなことを言うかというとね、僕の亡くなった妻がとても声が良くてね。謡はやらなかったけど、美空ひばりの真似なんかさせるとうまいんだよ
後妻:あら、素敵。いくつでお亡くなりになったんです?きっとまだお若かったでしょ
鞍内:うん。56だったかな?それでね、なんとなく声がいい芸者さんがいるって聞いたから呼んでみたんだ。なんだかなつかしくてね。
後妻:そう、……私きっと奥様よりはずっと下手だわ。でも何かうたいましょうか、小唄でも。
鞍内:頼むよ
0:
鞍内:いや、歌がうまいね、あのみや子っていうのは。
秘書:そうなんですよ。きっとお気に召すと思いました。
鞍内:どうもお前、あの女を俺に押し付けたいようだな?
秘書:いえいえ……。
鞍内:再婚でもさせたいのか。
秘書:ええ、再婚。なさったらよろしいのに。
鞍内:お前ねぇ、再婚なんかしたらヒソヒソされて大変だぜ。能楽師なんて楽屋で噂話しかしないんだから。
秘書:と言ったって、お寂しいでしょうに。

0:(カンカン!)
鞍内:ここまで。

0:(邸に残った二人)
秘書:旦那様もああいった割にもうあの時には腹を決めてたんだ、きっと。お前も渋ったわりにコロッとおくさんになっちまってサ。
後妻:だって、そりゃそうよ。あのね、女ってみんなあこがれるのよ、鞍内がなんて言ったか知ってる?
秘書:あ?
後妻:家のことなんか何もしなくていいよ、二階から歌を時々歌ってくれりゃいいから。
秘書:まるきり籠の鳥じゃないか。
後妻:そういうのに憧れたりもするわ。じっさい、ああいって結婚を申し込まれたときは素敵だった。鞍内はどうも粋とはいいきれない男だったけど、繊細なところもあって、やさしかった。さすが天女を演じるだけある人だった、あんたなんかとは比べ物にならないわ。
秘書:馬鹿にしやがって。元は芸者だろ。老いにおびえる生活からあがらせてやったのは俺だぜ
後妻:ふん。(煙草に火をつけかけてつけない)あたし嫌な女よ。でも嫌な女にしたのはあんただわ。
後妻:あたし金沢に生まれたの。良いところだったわ。京都よりずっと。そんで京都に売られてきたの。宮戸のおかあさんに拾われて。あたし踊りがうまかった。
秘書:……そうだったな。まったく純な女に見えたよ
後妻:あんたがお客としてくるようになって、あんたが、「うたがうまいのが好きだ」っていうからね、あたし、うたを目いっぱいに稽古したわ。そしたら三味線をあんたが弾いてね。うたってみろっていうからね。
秘書:もういい。何だよ、いったい
後妻:聞きなよ!とにかくあんたの三味線にあわせてあたし、うたったし、あんたにあわせてあたし、変わっていったわ。昔はもっといい言葉遣いだった。あたくし、って。でも今はこうよ「あ・た・し」。
秘書:よくしゃべるなぁ、酒でも飲んだのかよ。
後妻:呑まなくっても腹の中にあんの、酒が。
後妻:あたしと結婚するとなったとたん、あんた突然に女をとっかえひっかえした。あたしは鬼になってあんたを追いかけまわしたわ。
後妻:その頃あんたが手を付けた女に片っ端から会ったの。今じゃ友達よ。みーんな厭な女だわ
秘書:お前だって
後妻:そうよ、嫌な女だけど、それはあんたがそうしたんでしょって。ねぇ、あたしまるで桜姫よ。あんたまるで釣鐘の権助。あたしをつくったのはあんただわ。
秘書:桜姫ってガラかい。道成寺だろお前は……ちえ、こんな嫌な女なら、結婚がおじゃんでほんによかったよ。
後妻:そうよ、まったくあんたったら慌てふためいて、旦那にあたしを紹介して、中古品みたいに引き渡しちゃったんだから。それで結婚しちまうあのじいさんも、どっかおかしかったのよ。
秘書:ああ、もう昔話はよそうよ。旦那様は死んで冬馬様は襲名しないってんだから、これからの大変な舵取りのことを考えなくちゃいかんだろって。
秘書:舞台工事のこともさぁ、俺なら書生だったから如仙さんの信用も多少はあるし……どうだい、
後妻:馬鹿ね。いまさら色目使われたって困るわよ……(煙草に火をつける)あんたじゃ人は動かないわ。冬馬さんがあんたを見る目でわかるもの。
秘書:フン。ハナから俺を馬鹿にしてるんだ、あの人は。
後妻:だからとにかくあたしが事を動かし始めて、後はどうにか冬馬さんにやらせるのよ。あんたは黙って見てらっしゃい。
秘書:そううまくいくかな。
後妻:あたし、あんたに言っておくことがあるわ。
秘書:なんだ
後妻:あんたはあたしにふさわしかったってことよ。
秘書:ふぅん、そうかな
後妻:若い頃の、ばかなあたしにはね。今のあたしにはふさわしくない。
秘書:そんなこといったって、お前が頼れる男は俺しかいないだろ?
後妻:聞いたでしょ、あの遺言を。鞍内はあんたに遺産を遣らないんだから、あたしからお給金を頂戴するしかないのよ、あんた。
秘書:なぁんだ金か。金の話なんか男にするなよ。偉そうに。
後妻:偉そうなのはあんただ、昔ッからずっと金もツキもないくせに天狗になって。女にばっかり偉そうにして。
秘書:そんな顔しても怖くねぇよ。
0:(時計の秒針の音)
秘書:ああ、そういや。俺の妻がきているよ
後妻:なんで
秘書:お前にツーピースを遣りにきたんだよ
後妻:ふぅん!(立ち上がって)
後妻:きれいな女?
秘書:いいや。地味なおとなしい女だよ。
後妻:……応接間で待たせといて
秘書:いじめるんじゃないぜ
後妻:化粧を直してからいくわ
秘書:なんで。女が女に会うのにめかし込まなくてもいいだろう。待たせてんだから早くしてやれよ
後妻:女に会うからきれいにするのよ。あたしきれいでしょう。もっときれいになって会うわ。
秘書:……早くしろよ

0:(葬式を済ませた後)

後妻:ああ!くたびれた。正座なんか久しぶりにしたわ。葬式ってこんなに長かったっけ
秘書:そのツーピース、どなたかに褒められました?
後妻:……ええ、そりゃもう、奥様方によく褒められたわよ。地味だからかなぁ
秘書:さぁー
冬馬:あっ、たかこちゃんそんな慌てて立ち上がっちゃ、
高子:あっ(足が痺れてバランスを崩す)
冬馬:おっと。危ないよ、痺れたまんま無理に立って足くじく人が多いんだから
高子:あ、びっくりした……こんなに立てなくなっちゃうんだ。ありがとうございます
冬馬:まだあっちを片付けてるからゆっくり座ってようよ。
高子:じゃあ、そうします。さっきあの、立花さんという方にお饅頭いただいたの食べていいかな……
冬馬:いいよいいよ。今晩は粗食だからおやつでも食べないとね
高子:なんだか皆さん優しくて拍子抜けしました。隠し子って、お葬式に出てもいいんですね。(まんじゅうを一口)
冬馬:ふは、まぁ別に出たっていいだろう。おやじもなぁ、生きていたら、さぞ、かわいがっただろうと思うよ。
高子:ミルク饅頭だ、おいしい
冬馬:よかったね
高子:おんなじこと、色んな人に言ってもらいました。さぞ生きているうちに会いたかっただろう、って。そういわれると、会いたかったなって。おとうさん、ずっといないのが普通だったから、ちょっと憧れ、あったんです。
冬馬:ふーん。君のお母さん、どんな人だったの。
高子:どんな人だったんだろう。体が弱くて、ううん、心かな。不安定な人でした。調子がいい時は優しいし、調子が悪い時はキツイの。でも優しかったよ。おいしいものをよく買ってくれました。
冬馬:だからたかこちゃんは舌が肥えてんだな
高子:食いしん坊だから。あ、そうだなぁ、母って子供みたいでした。あたしから見ても可愛いなと思うような感じで。
高子:あたしが悩んでいることを話したりするとなんだか姉みたいに聞いてくれて、でもね、言うことはとってもしっかりしてるんです。悩みもわかるけど、でもこれはこうしなちゃいけないでしょう、って結局お説教されたりして。
高子:かとおもったら、おいしいものをお土産に買って帰ったりするととっても喜ぶし、あったかい毛布をあたしと引っ張り合いしたりするし。今思うと、すごく男の人にもてるような感じだったのかも。
冬馬:いいなぁー、僕の母なんか、仏様みたいに達観していてさ、一緒にふざけてくれることなんかなかったよ。
高子:歌がうまかったって聞きました。
冬馬:うん、歌はうまかった。皿洗いの時や風呂なんかでいつも歌ってたよ。こんな田舎じゃなかったら近所から苦情がくるところだ。
高子:あたしの母も歌が上手でした。教会で、聖歌隊のリーダーだったんです。
冬馬:……おやじってば、歌がうまい女ばっかりだな。知ってる?あのあや子さんも歌が上手なんだよ。元は芸妓なんだ。
高子:えー!芸妓さん!すごくきれいな方だとは思ったけど、わぁ……、あたし京都に来たら一回舞妓さんか芸妓さんに会ってみたいと思っていて……
冬馬:あ、そうなんだね。今度三味線を弾いてもらいなよ。
高子:三味線!教わりたいなぁ
冬馬:ちょっと、お茶もらってくるよ。ゆっくり足ほぐしててね。
高子:あ、はい。

0:(廊下に出て)
冬馬:奥野さーん
秘書:ええ、はい?
冬馬:あのさ、あや子さんが言ってる工事のことだけど。
秘書:ああ舞台板張替の。やっぱり止め(やめ)ですか
冬馬:考えたんだけど、まぁ今年は公演も少ないからやってもいいと思う。その代わり僕が仕切るから、って、そう言っといて。
秘書:今年は演劇の本番がお忙しいんじゃ?何でしたら私が色々、承りますよ。
冬馬:いや、まぁ忙しいけど、稽古は動かしてもらえばいいから。
冬馬:ていうかね。悪いけどあんたに任せられないよ。昔から評判も悪いしね。
秘書:……ほう
冬馬:(声をひそめて)大きい声では言えないけど、あんた、あや子さんとの噂も立ってるから。これを機に辞めてくれると嬉しいんですけど、どうですか。
冬馬:まぁどうですか、というか……ね
秘書:あや子とのことは、もう終わっておりますから。
冬馬:噂が立ってるんだから、終わってる続いてるだのは関係ないの。一月までに出ていってくれますか
秘書:一月。一月までに?
冬馬:五月におやじの追悼公演があるでしょう。そこまでに余裕をもって不祥事の種は摘んどきたいんですよ。じゃ、考えといてください。
秘書:一月だと……!馬鹿にしやがって……
0:(秘書を置いて部屋に戻る)

冬馬:ただいま
高子:お帰りなさい。奥野さんと話してらした?
冬馬:ああ、聞こえちゃったか。あの人声がでかいから内緒話できないんだよな。
高子:たしかに。ライオンみたいな声、のっぽなのに。
冬馬:あの声で謡なんか謡った日にゃ最悪。おやじも嫌な顔してたよ
高子:でもまだああやって家にいるのはどうしてなんですか?
冬馬:さぁー、どうしてなんだろうなぁ、世の中にはみんなから嫌われていても何だか生き延びてる不思議な人がいるもんだよ。
高子:……見た事あるかも、そういう人。
冬馬:でしょ?でももうすぐ追い出すから。そうしたらあや子さんも僕も、たかこちゃんも落ち着けるさ。
高子:うーん
冬馬:あ、君は優しいから難しい顔してるけど、ほんとだよ。ああいう人はいない方がいいんだから。
高子:冬馬さんが言うならそうなのかも。……そういえば冬馬さんの舞台。どんな役をするんですか?
冬馬:毛皮のマリーって知ってる?
高子:へぇ、知らない。アメリカかどこかの人が書いたの?
冬馬:ううん。日本の作家だよ
高子:マリーって、女の人の名前?
冬馬:そうなんだよ。でも男なんだ。しかもね、男相手に体を売るんだよ。
高子:ええーッ!
冬馬:僕は、そのマリーって男に育てられる欣也っていう子供の役。美少年の役なんだよ。困っちゃうよね。
高子:似あう!すごく似合うと思います!チケットいただけたり?
冬馬:えっ見に来たい?それじゃ一番いい席とっといてあげるね。二月の四日と五日に山科の方であるんだ。遠くだからタクシー使いなね。
高子:やったぁ……!演劇って見るの初めてです。
冬馬:そうなんだ。かなり強烈な劇だから覚悟しておいて。
高子:冬馬さんってどんな役おやりになるんですか。いつもは。
冬馬:うーん。なんでか、女とか美少年だとかの役がおおいなぁ。前はカントボーイの役なんかやったし。カントボーイってわかる?わかんなくていいよ。やっぱりおやじが「天女の達人」っていうのもちょっと関係するのかなぁ?
高子:男の人が女の人を演じるのって不思議な感じ。逆は、宝塚があるからなんだかわかるような気もするけど。
冬馬:ああそうだ、前に話した僕の話の、続き、してなかったね。
高子:喫茶店で聞かせてくださった話?気になっていたんです!
冬馬:ふふ、恥ずかしい話だけどもう勢いで話しちゃおう。秘密だよ。

0:(カンカン)

鞍内:鞍内冬馬の秘密の話。続き。

冬馬:僕は普段の野卑な父と同じくらい、舞台上の父を見て育った。舞台の上で共演している時も、後見(こうけん)でじっと座っている時も、父の姿をぼんやりと目に映していると段々––––目の奥の方になまめかしい像が結ばれる。白く柔らかい女、薄絹の下の肌。そんな像の連続。カッと体が熱くなってとめどなく汗が垂れた。
冬馬:思春期の僕の危うさはずっと父によって与えられていた。
冬馬:17歳のある舞台。
冬馬:父は天女だった。唐突にすってんころりんと転んだ。間の悪いことに天女舞の真っ最中だった。
冬馬:もちろん立ち上がろうとしたが、そううまくいかない。
冬馬:白い面で、長い鬘で、わずかに開いた面の口の濡れ光るような光沢。ぐしゃぐしゃの白いうすぎぬ、赤い袴に埋もれて不自由にもがく体。転がった花冠の垂れ飾りがピルピルと震え、絹装束がギィと鳴き、空しく盛り上がる囃子、くぐもった呼吸音。
冬馬:僕は倒錯に震えた。
冬馬:不格好だった。この上なくエロティックだった。
冬馬:これ以上の法悦はなかろうと思った。誰もわからないだろうけど。
冬馬:もうこれから後、目が喜ぶことはなかろうと思った。女を抱くことはないだろうと思ったんだ。
冬馬:舞台上で転んだ父。裾を崩してしどけない女。
冬馬:僕の人生はここで終わるべきだと思った。
冬馬:あんまりだ、あんまりだ。
冬馬:そして、その夜だった。
鞍内:「いやぁ、舞台から落ちたことはあるがコケたのは初めてだったな。はは。いやーえらいことだった、……」
冬馬:「とうさん」
鞍内:「なんだ」
冬馬:「僕は能をやめます」

0:(カンカン!拍子木の音)

鞍内:ここまで。

冬馬:自分の話は苦手だ。一度舞台を見てくれた方が、よっぽど伝わりそうだよ。

0:(夕食時)
高子:いただきます
冬馬:おーい、奥野さんも一緒に座って食べなよ。台所でむしゃむしゃ食べるんじゃなくてさ
後妻:えっいやですよ。向こうで食べさせとけばいいでしょ。
冬馬:あ、そう、まぁそれなら。
後妻:……
冬馬:……昼間奥野さんに言ったんですけど、聞きました?工事の件、僕が仕切るならやってもいいと思うんです
後妻:ええ。やってくださるんだったらお任せしますよ。
冬馬:どうも。五月の追悼公演に間に合うかなぁ。大急ぎだ。
後妻:ああ、そう、追悼公演ね、冬馬さんも何か短いのでも舞ったら?お客が喜ぶわよ。
冬馬:よしてくださいよ。地謡くらいならしてもいいけど舞はもう駄目。
秘書:(据わった目で入ってきて)お呼びでしたか
冬馬:ううん、呼んだけど呼んでない。
後妻:なんでもないわよ
秘書:おやおや……ずいぶん仲良しになりましたね。
後妻:あんたは仲間外れね。残念。やめるんですって?
冬馬:一月までにね。(奥野に)考えといてくださいよ。
秘書:あや子ぉ
後妻:やめてよ気色悪い。なによ。
秘書:お前誰のおかげでそんなに偉くなったんだ、え!俺の実家がどうだかお前、知ってるだろ、それでどうして俺を追い出すことになるんだよ
後妻:ちょっと!やめさせるって決めたのは冬馬さんでしょ!
冬馬:食事中だぞ。外でやってください。
後妻:ぴしゃっと言ってやってよ!もう今すぐ出て行ってほしいわよ
冬馬:僕はもう言うべきことは言ったよ。一月までに出て行ってほしいってね。それだけですよ。
秘書:おい!出て行ってくれってどの口が言うんだ。なめやがってお前……おいお前みたいなやつが……このやろう
後妻:ちょっとやだ酔ってんの?
高子:あぶない!お皿が!
秘書:(高子の方を向き)お前みたいな小娘が金をもらって何に使うんだ!なぁ、俺が管理してあげますよ、ね、たかこさぁん!
高子:きゃっ!
冬馬:奥野さん!やめなさい
秘書:黙れぇ!みんな俺を馬鹿にしやがって、おぉい!(泣き出す)
0:(秘書が泣きながらふらついて出ていくのを何とも言えず見送る)
冬馬:……まったく。とんでもない人だな。だいじょうぶ?たかこちゃん
高子:はい……。
後妻:あれが本性よ。たかこさんね、ちょっとでも嫌な感じがした男には近づかないことよ。
冬馬:どこ出て行ったんだろう。ちょっと追っかけてきます。
後妻:もう外に出たようだったら鍵をかけてね。
冬馬:はいはい。
0:(冬馬、席を立って行く)
高子:奥様は、奥野さんと昔からのお知り合いだったんですか。
後妻:その奥様っていうのあんまりあたしに似合わないからやめてくれる
高子:あ、えっと
後妻:あや子よ。
高子:あやこさん。
後妻:うん。で?
高子:えっと、奥野さんと、何かあったのかなって
後妻:昔、婚約までしたの。
高子:婚約!……あれ、でも
後妻:そう。結局、あいつが意気地なしで鞍内に下げ渡されちゃったの!
高子:え……
後妻:結婚とか、婚約とか、憧れちゃだめ。一度だめになったら、大嫌いになるわよ。
高子:あの、鞍馬の旦那様って、どんな方でした、か?
後妻:さあねぇ。死んだ後に言われることなんて、あたしはみんな幻だと思っているわ。
高子:どうして?
冬馬:ちょっとわかりますよ。
高子:あ、お帰りなさい。
冬馬:鍵かけてきました。……死後に良く言われる人が本当にいい人だったのか、っていうのはさ、わかんないよね。
後妻:その通りよ。あたしは鞍内の芸の良さも、偉かったのかも知らない。しろうとだし、ばかだから。でもね、死んだ人のことをどうだ、こうだ、って言ったって、そんなのは亡霊よ。
冬馬:俺がおやじについて言えるのは天女舞のうまい人だったっていうだけ。
高子:天女かぁ。想像がつかないなぁ
後妻:女よりきれいなものなんだわよ、きっと。
冬馬:……わかったようなこと言うなぁ。
後妻:え?……もう訳がわからなくなってきた。
高子:あや子さん、あの、今度歌をききたいです。三味線も教わりたいし
後妻:いーやーだ!鞍内がいないのに歌ったってしょうがないもん。
後妻:お酒でも飲みましょう、鞍内がこっそり隠してたの、あたし知ってるのよ。

0:(翌朝)
冬馬:(あくびして)おはよう
高子:あや子さんは?
冬馬:飲み過ぎたんじゃない?納豆まだ残ってるかな
高子:あの。
冬馬:たかこちゃんはトーストでしょ。もう食べた?
高子:あたし出ていきます。
冬馬:ん?えっ
高子:冬馬さん、あたし、たかこじゃないよ。
高子:「たかいこ」です。昔にいたんです、たかいこという名前の美しい女の人が。気位の高いまま、燃えるような恋をしたひとが。あたしをそれにしたくって、母がこの名をつけました。
冬馬:誰、それ。どのくらい昔のひと?
高子:あたしも知らない。和歌を詠んだ人。
冬馬:そう……で、出ていくってなに。
高子:遺産、いりません。あたし出ていきます。
冬馬:どうして?
高子:なんだか、もういいなって思ったから出ていくの。
冬馬:ちょっと待ちなって!車出すよ。ね。

0:(車で駅前まできた二人)
冬馬:ねぇ、たかいこは、どうして出ていこうと思ったの。
高子:疲れちゃった。みんな人生の終わりみたいに疲れていて、なんていうの、希望ってものがないし、朝ご飯の時の喜びなんていうのもないし、疲れちゃう。あそこにいたらあたしおばあさんみたいになっちゃう。もっと気楽に生活したい、あたし。
冬馬:そりゃ、そうかもしれんな。別に陰鬱な人間じゃないんだけどね、俺達だって。
0:(……)
冬馬:ねぇ、たかこちゃんさ、俺と結婚しない?
高子:えっ
冬馬:ちょうどって言っちゃあなんだけど、俺も家から出たかったんだ。家を買おう、京都のいいところに。君の気に入ったところでいいよ。安アパートだっていいよ。それでさ、時々カフェのモーニングとか映画のレイトショーとかに出かけて、楽しく暮らそう
高子:あたし、たかいこです。たかこなんかじゃありません。
冬馬:ん?
高子:たかこじゃありませんったら。
冬馬:あ、そうそれは……すまんかったね。……で?
高子:あの。
冬馬:うん……。
高子:結婚、できやしないでしょ、きょうだいなんだもの。
冬馬:そりゃ役所じゃできないさ。でも俺たちが心の結婚をするのを誰が止められるの。
高子:心の結婚?
冬馬:女の子が好きそうな言葉で言えば駆け落ちさ、駆け落ち!
高子:……
冬馬:……ねぇ、テキトー言ってるんじゃないよ、俺、君が来た時から君と家を抜け出したかった。君はとってもかわいいよ。俺があんな話までしたのをなぜだと思うの。
高子:違うの、疑うわけじゃないわ。
冬馬:ありがとう
高子:でも、ただ結婚をしない、って私、なんとなく決めていたの、ずっと。
冬馬:どうして?
高子:……するのなら、恋だなって思うの
冬馬:ええ?
高子:……だって。
冬馬:君はきっと大人にならないんだろうね。
冬馬:知ってる?恋に恋をし続けた人は子供のまま老人になるんだよ。僕の母がそうだった。それこそ妄執だよ。亡霊と一緒。あの後妻だってそうさ。きれいだろ、あの女は。だけど厭味で耐えられない、中身はもうとっくに老婆なんだ。あんな風になりたいのかい
高子:だって、だってきれいなままでいたいんだもん。
冬馬:結婚しよう、たかいこ。
高子:駄目よ、冬馬さんは。ヘンタイだもの。お父様の演じる女にしか欲情できないんでしょ
冬馬:ヘンタイかな?それは君がアレを見てないからそんなこと言うんだ
高子:そういうところがきらい。
冬馬:……ごめん。
冬馬:一緒に暮らせばそのうち俺のことわかるってば。意外と愉快な人間かもしれないよ?俺と一緒にいて楽しくない?
高子:結婚なんかしないわ。
高子:あたし、あんたらの事情なんて知らないでここに来たの。だからあたしの見たまんまの姿があなたがたの姿よ。あたしには、奥様が鬼に見える、奥野さんが天狗に見える、そんで冬馬さんはヘンタイよ。だからさよなら、結婚なんかしないんだわ。
0:(高子、車を降りる)
高子:さよなら!お手紙も送らないでね!
冬馬:たかいこ!……チケットも要らないの!ねぇ!

0:(駅に駆け出す高子、冬馬は追ってこない)
高子:(走りながら)あーあ。あたし一文無しの家なき子になっちゃった。マッチ売りでもしようかなぁ。
高子:……冬馬さんとけっこん、してもよかったのかな
高子:……(ゆっくり立ち止まり)
高子:決めたわ、あたし京都へ行く
高子:京都へ行く、お母さん。お母さんの好きな京都へ行こう。
鞍内(駅員として):お嬢さん、電車はしばらく来ませんよ
高子:あ!駅員さん、きっぷを頂戴。あたし京都へ行くのよ。
高子:うーんそうねぇ、いちばん遅い列車がいいわ。
鞍内:おひとり?ずいぶん身軽なようだけど。ええと、京都のどこまで?
高子:あ、……お金、忘れて来ちゃったぁ。……でもキスしたげるから。
鞍内:良くないな。キスを安売りするんじゃありませんよ、あなた。
高子:どうかきっぷを頂戴。あたし、あたし、京都へ行きたいんです。
鞍内:ここだって京都じゃないですか。いいもんですよ、嵐山も。
高子:……え。……ここも、京都、ってそう思われます?
鞍内:そうですよ。嵐山だって端っこだけど京都ですとも。舞鶴だってあなた、あそこだって京都だよ。そう思うと京都は広いでしょう。だから焦らなくたって、あなた。落ち着いて行きたいところを考えるといいですよ
高子:……そう、そうですよね、ここだって京都だわ。なにも岡崎だけが京都じゃないんだわ。そうか……ありがとう、駅員さん、優しいな。
鞍内:そりゃどうも。
高子:あたし、
0:(好きな間)
高子:……ええ、少し。考えてみます。
鞍内:そうなさい。ごゆっくり。
0:(夕日が駅舎の廂からギラっと差し込む。高子はホームのベンチに腰掛ける)
高子:(架空の歌です。自由に節をつけてうたってください)
高子:〽京都よいとこ、恋捨ててー。名を振り捨てて、軽々とー。比叡(ひえ)のお山を越え行けば。あらありがたの、都かな。京都よいとこ、京都よいとこ……

0:終

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