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小説「京都 リ・バース」 3 タクシー・ドライバー(1) 東の都編

 困ったことだ。
 胸の前に掲げたウェルカム・ボードの端をポンと叩いてみる。
 彼の客が乗ったはずの到着便は、ずいぶん以前に到着している。入国手続きに、こんなに時間がかかるはずもない。だが、彼の携帯電話には、何の連絡も無い。
 そろそろ現地のエージェントに問い合わせてもいい時間か……。
 今日の客は、初めての客。それも個人の客ではあるが、正式にエージェント経由で予約してきた。
 キャンセルの通達も来ていないのに、この場を離れるわけにもいかない。
 とりあえず、きつく締めたネクタイを指先で少し緩めてみた。
 入国ゲートからはまた、ぞくぞくと外国人たちが大きなスーツケースをカートに乗せて踏み出てくる。一通りやり過ごすと、人波が途切れつつあった。他者と距離を置くように、ゆっくりとした足取りで一人、長身の外国人青年が姿を現した。
 柔らかく渦を巻く毛先の、艶やかな金髪の明るさが目を引いた。ロングコートの下には、光沢のあるしなやかな生地のスーツが伺える。ビジネス・スーツというより、ややカジュアルな出で立ち。知性と若さある気楽な旅行者に、遠目には見えた。
 手には角張った大きなスーツケースと、厚みのある遣いこんだドクターズ・バッグ。
 ……医者か……?
 !
 息を飲む。目が合ってしまった。
 この稼業をはじめて、いろんな人間を見てきた。タクシー・ドライバーなど、労働時間は不規則で、気苦労も多い。個人タクシーへと独立してからも、それは代わりなく。昔はよく客と喧嘩もした。そんな血気盛んな気性も、髪に白いものが混じり始めた今は、忍耐もうまく交わす話術も身につけていた。
 昔の度胸のよさが、外国人客相手でも腹が据わって片言の英会話でも対応できた。そんなことを何度か繰り返すうち、当の外国人客から仲介業者を教えられ、代理人(エージェント)からの紹介もこなすようになっていた。
 そんな自分でも、この男の視線には怯んだ。陽性の印象の中で、唯一、人を拒絶する視線の凍えた色。その間逆さに目を引かれた。
 だが、向こうから逸らし、通り過ぎて行く。
 溜め息を付いて、背筋に冷たい汗が浮いた自覚を拭った。
 懐で、携帯電話が鳴った。
「……ええ。では、……仕方ありません」
 エージェントからの電話だった。今頃。小一時間も無駄にした。客は、行き先を変更し、関西空港に向かったという。
 ウェルカム・ボードを二つに折り畳み、踵を返した。
 タクシー・プールに向かう。手ぶらで都内に引き返さなければならないのは、全くの無駄だ。だが、こんな日もある。そう自分を宥めた。
 タクシー乗り場に出る出入り口には、あの長身の姿があった。
 背の高い外国人は珍しくない。だが、長髪のやや細身な後ろ姿は、泰然と伸びた背筋。均整の取れた美しさは目を引いた。
 外を眺め、ためらうように佇んでいた。
 成田上空は晴れだった。都内は、午後からは雨の予報。余計、気が重い。適当に都内を流して、雨に追われる客でも拾おう。
「タクシー・ドライバー……?」
 声を掛けられた。癖のない発音だと感じた。とても機械的な。
「……イエス……」
 青年は、肩越しに顔だけをこちらに向けていた。
 鼻梁と頬骨が高い。顎の線が男性的な、端正な顔立ちだった。
 スーツケースから左手を離し、軽く右手で叩いた。
 任せた、とのジェスチャー。主従関係が成立したらしい。
 スーツケースを手に、青年の前に立った。
「どうぞ。……プリーズ」
 やや気圧され、英語で言い直していた。
 トランクにスーツケースを納め、運転席に。後部座席の男は、コートを脱いで窓の外を眺めていた。
 ヨーロッパからのロング・フライトの客なはずだ。長旅の疲れからか、顔色はあまり良くない。
「どちらまで?」
 助手席に帽子を置いて、シートベルトを締めながらバック・ミラーで青年を伺う。
 始めてそのことに気付いたように、ミラー越しにこちらをじっと見返す。一度目を伏せ、思いついたように内ポケットから手帳を取り出す。手帳、ではなくパスポートだった。
「……」
 懐に戻し、一度顎を引く。
「……都内、で宜しいですか?」
 ふいに、青年が目を上げた。
「アマン東京に、お願いします」
 自分の耳を疑った。迷っていたようだったのに、はっきりと答えてきた。それも、最初に声を掛けてきたのとは打って変わった、柔らかい声。
「かしこまりました。では、高速道路を走行いたしますので、シートベルトをお願い致します」
 シートベルトを締めると、青年は目を閉じシートに体を預けた。

※ 3 タクシー・ドライバー(1) 完 3 タクシー・ドライバー(2) に続きます。

ここまで、お読み頂き有難うございました。感謝致します。心の支えになります。亀以下の歩みですが、進みます。皆様に幸いが有りますように。