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小説「京都リ・バース」1 ドクター・クラン 東の都編


 この国の大気は、湿り気を帯びていて、女の肌を思い出させた。
 彼が、自分のものにするつもりだった女。
 なめらかな皮膚。手の内に包んだ乳白色の乳房の感触。
『……でも彼女は、あなたのものにはならなかった』
「過ぎたことを」
『十二年です。あれから』
 暖かい微笑みの客室乗務員に送られ、他の搭乗客と共にボーディング・ブリッジを歩く。
 大きく開けた窓に、空港の景色が広がる。
 整然と居並ぶ旅客機の群。とどまることなく機能し続け、旅客機を送り出し受け入れる。
 成田国際空港。
 日出ずる国。日本。
「ドクター(博士)。ドクター・クラン! さようなら」
 金髪の十歳の少女がはにかんだ笑顔で手を振る。傍らの美しい母親も、会釈を返す。
「本当に感謝します。ドクター・クラン。あなたは我々の最高の主治医でした」
 少女の父親は、強く手を握ってきた。
「東京は、午後からは雨のようですよ。良いご旅行を」
 ファースト・クラスの客たちは、ゆったりと、それぞれ親密な挨拶を交わしながら別れていった。一時にせよ、命の危機に晒された彼等には、言葉にはしなくとも連帯感がうまれていたのだ。
『雨、ですか……。雷は、もう十分ですが……』
 数時間前の機内での恐ろしく絶望的な出来事を、思い出していた。
 もう一人の『自分』が、原因で起きたのだろうこと。
 まったくの前触れもなく、突然、旅客機はひどい雷に襲われた。在り得ないことだが。突然出現した雷雲の固まりに覆われた、と表していいくらいに不可思議で急激な変化だった。
 その瞬間のコックピット内は惨状だっただろう。帯電や静電気で、最新鋭の器材はあちこちから警報音を立て、異常な数値を示した。経験豊かなパイロットたちにも、なすすべもその原因もわからなかったのだから。
 高度一万二千メートル。南アジアの八千メートル級の山々の上空を後にしたばかりだった。
 唯一。クランだけは、何が起きたのかを知っていた。体感していた。
 彼では無い存在が、彼に侵入しようとしていた為に起きた事象だから。
『お前は、私だ……』
 その存在の感情の昂りに、稲妻の一つ一つが呼応していた。キャビンの中も、悲鳴と警報音が渦巻いていた。
「……嫌だ……、もう二度と、あなたには渡さない……。僕は、ティアリス。ティアリス・クランだ……!」
 のしかかってくる圧力を全身で感じていた。独立しているファースト・クラスのシートの中で、一人、指一本動かせないまま。照明の落ちた中で、傍らの読書灯だけが不規則に明滅していた。
「あんな思いは……、沢山だ!!」
『……お前は、私だ……』
 それは、同じ言葉だけをクランの頭の中に繰り返していた。今は、数語しか操れないようだった。ただ、クランの肉体を欲する望みだけが、単語としての形をとっていた。圧倒的な威圧感とともに、絶対王者のもつ不可侵な自信をもって。
「パパ! 怖い怖い怖い……」
「アリア。ここに居るよ。パパもここに居るから」
 少女をなだめる父親の声。かき消さんとする雷鳴が、機内の空気をびりびりと震わせる。
「パパ……! パ……。……私……だ……」
「? アリー? どうしたの、何を言ってるの? あなた、アリアが……!」
「……お前は、私だ……」
 少女の声で、奴が欲しがる。
「……やめろ……。他の乗客を巻き込むのは……」
 クランは心の底から震えた。奴なら、どんな手段でもためらいなく使うだろう。
 そう直感した。
 自分以外、自らの目的以外には動かない。他者の権利など頭にはない。
 自らを最上絶対であると確信し、行動に移す。揺るぐことのない傲慢さ。まるで神のように。
 この航空機を墜落させてでも。クランの心を折るために、死へと続く数多の悲鳴を上げさせてでも。
 無数の死骸を彼の目の前に突き出すことも厭わないだろう。
 もう一度少女が吐き出す。
「お前は、私だ……」
 母親が少女の豹変に泣き崩れる。フロアの乗客たちも、この異様な事態に声も無く、絶望の足音を聞いた。機体は、また激しく揺さぶられる。
「……神よ…………!!」
 少女の父親が呻いた。不規則に揺れ続ける機体のせいで、自分の娘の側にも駆けつけられない無念を嘆いた。
「…………譲らない……。あなたには……。そう決めたんだ……僕は」
 彼は、果てしなく重い左腕をゆっくりと上げ、シートを仕切る扉を引いた。左側のボックスには、アリアと彼女を狂ったように撫で回し抱き締める母親が居た。
「……アリー……?」
 手を差し伸べる。
「心配……要らない……。大丈夫。目を閉じて、深呼吸をして。さっきみたいに」
 涙で頬を濡らした母親が、クランの言葉に正気を取り戻した。     
「アリー……? 目を閉じて? ママと一緒に、ふーって吐いて?」
 お願い……と、母親は少女の瞼を手で塞ぐ。
「……あの子から離れろ……。欲しいのは僕だろう……?」
 堅く、アリアに差し出していた手を握り締めた。
「だが、渡さない……、この体は、僕の物だ……。
 十二年前に、そう決めたんだ……。
 あなたが、何であろうと……!」
 握った拳に、何かが触れた気がした。
 天井が、ガタガタと震えだす。頭上から降下してくる、何かを受け入れるように。
 奴が……!
 左腕から肩、凍り付くような痺れが全身へと侵食してゆく。
『お前は、私だ……』
 雷光が閃き、無数の白光が溢れる。全員が固く目を閉じた。
 最後の帯電が室内を駆け抜けてゆくと、機体の異常な振動は消えた。
 目を開くと、クランは通路に突っ立っていた。
 体が軽い。辺りは完全な静寂。不思議な気持ちで、自分の手を見下した。
 左手を、軽く握り開いてみる。
「…………マ…マ………」
 小さな呟き。母親は、シートにぐったりと体を沈める少女の両肩を撫で続けている。
 目を逸らし、もう一度左手を見た。手を返し手首の腕時計も。秒針は正確に時を刻み続けている。
「アリー……」
 よろめきながら、長身の男が子供に駆け寄っていった。
「あなた……。アリアは?」
「……わからん……。アリー?」
「……ドクター、この子を……?」
 こめかみが、痛んだ。押えようとする左手を、自分の右手が押しとめた。
 頭を一度振り、スーツの上着を脱いで、クランを呼んだ母親に替わって少女の傍らに膝を付いた。少女の頬を撫で、顔色を見る。
「アリー? ふーっ、って、して?」
 少女は言われるまま、深く息を吐いた。瞬きをして、目を大きく見開き、口元で微笑んだ。
「大丈夫。問題ありませんよ」
 うなずいて、父親の肩を叩いた。
「ありがとうございます……、ドクター」
 他の乗客たちの間を飛び回っていた客室乗務員が近付いてきた。
「状況は?」
「クラン様。機長からは、航行は安定したと。ご安心下さい」
「それはよかった。僕に、何か手伝えることはありますか?」
「恐れ入ります。今のところ、ひどくお怪我をなさったり容態の悪い方はいらっしゃらないようです。皆様、突然のことで動揺が激しいご様子で」
「でしょうね……。可能であれば、室温を上げて、温かい飲み物などを少しずつでも提供すると、安心感が増すでしょう」
「そう致します」
 本心から、女性客室乗務員は安心する笑顔を見せた。それはクランが博士号を持つ医師であると知っているから。
 小一時間前、喘息の発作を起こしかけたアリアを、的確に診断し落ち着かせた能力と、三十代の独身男性だというのに、子供に丁寧に接することのできる誠実さを彼女は信頼していた。
「ああ、でも……。僕は……」
「常勤医ではないので」
 彼女は先んじてから、口元で微笑んだ。
「ええ。……免許はありますが、普段相手にするのは、試験管やシャーレの中の病原菌なので、正確な判断ではないでしょうが」
「はい。先ほど、それはお聞きしましたわ。ドクター・クラン」
 クランのためらいに、彼女は強くうなずいた。
「それでも。わたくしどもは、ドクターのお力添えが心底心強いのです」
 彼女は、憔悴したアリアの母親に声をかけ、母親とアリアの様子を確かめ、微笑みかけてから他の乗客へと立ち去った。
 また、こめかみが痛んだ。
「ドクター……?」
 アリアの父親が真っ先に変化に気付き、声を掛けてきた。
 右手で大丈夫と示し、彼は、自分のシートに座った。リクライニングを深く倒す。
 打って変わって、全身が重かった。嫌な汗がじわりと噴出していた。呼吸も苦しい。肺が石のように冷えてゆく。右手でネクタイを緩め、ワイシャツのボタンも一つ外す。
 まったく自分自身の身体所見の判断が出来ない。医師としての資格はあるが。いや、医者としては診断の付かない身体状況。だが、クランには、わかっていた。『何』のせいなのか。
「……呼吸くらいは、ちゃんとして下さい……。でないとこの体は簡単に死んでしまいますよ……」
 喘ぐように囁く。
「息を……。口で吐いて、鼻から吸う。……ええ、そう……。そんなことも教えなければならないんですか? 生存に必要な情報は、脳に……。うっ……!」
 呼吸が楽になったかと思うと、今度は激しい頭痛。脳が沸騰するかと思えるほどの熱を感じた。その熱量では生存には危険と認識したのか、すぐさま熱は引いた。
 クランにはその時間が永遠のようにも思えた。彼の脳裏には、強制的に様々な情景が閃いていた。
 彼の脳に蓄積された三十二年分の情報が、瞬時に開示され、読み込まれた、のを感じていた。
「!」
 終了と同時に、両眼が大きく開いた。何か言いたくても、言葉が、もう唇が動かない。
『一体、なぜ……?』
『……何故……?』
 言葉の意味すら考えこむように繰り返した。
『あなたは誰なんだ? 否。……どうして、こんな……。何が望みで……』
「……誰……?」
 唇が動いた。
 クランは驚愕した。返答が無くとも、理解できた。
『彼』は、何者でも無い。
 何も無いのだ。
『……あなたは……』
「……誰、だ……?」
 右手を伸ばす。姿見代わりに備え付けられたノートサイズのミラーを引き出した。
 そこには、男が居た。見た目の年齢は二十代後半の若さ。肌は白く、髪は明るい金。軽ろやかな癖のある前髪が、左目を隠すように分けられ。後ろ髪はゆるく巻きながら背に落ちている。
 目は、深い色の紫、青みの強いアメジスト。
『僕は、ティアリス・クランだ』
 勝利を感じた。僕はここに居る! 確信した。だが、喜びの表情は鏡には映らなかった。
『……あなたは、何も無い……』
 鏡を見つめる右目がギラギラと光を込める。苛立ち? 不快感?
『あなたは、誰だ?』
 尋ねてやる。知ってはいたが。
「……お前のせいだ……。お前が、私を……!」
「……ドクター?」
 小さな声に、ギクリと肩を上げた。ボックスの仕切りで、アリアがこちらをうかがっていた。手に、明るい色の光沢のあるジャケット。クランのスーツの上着を持っていた。
 視線を向けると、彼女の頬は強張った。彼女も違和感を感じていた。
『怖がらせないで下さい。彼女は敵じゃない』
 少し怯えながらも、アリアは精一杯両腕を伸ばして上着を差し出してきた。
『少し笑って、受け取って下さい。出来ないのなら、僕にさせて下さい』
 ゆっくりと左腕をアリアに伸ばす。上着を受け取り、アリアを見た。
 彼女は安心したように、目を細くして微笑み、仕切りを引き閉じて帰っていった。
『よく出来ました』
「…………」
『では、話し合いましょうか?』
 左手が、鏡を元通りにしまった。
『我々の今後を』
「……なぜ、お前はここに居る……?」
『あなたは負けたからです。僕に。あなたは僕を消せなかった』
 全知全能のように傲慢に振舞っていながら。
『……そうして、あなたは自分を失った。名前も何であったのかも、何の為にこんなことをしたのかも! 全て!』
 愉快だ。本心から。素晴らしい復讐だ。クランは完全なる勝利に酔いしれていた。
 勝ち目が無いことは予感していた。ずっと。だが数パーセントの可能性でも、クランはそこに賭けたかった。自分を失いたくなかった。このような状態であっても、自分を失わずにいたことは。奇跡だ。
 なぜ解るのか? 共有しているから。
 彼と。クランの肉体を、脳を記憶を共有しているから。
 彼には、何もない。この高圧的で傲慢で自己中心的な気配ありありの意識以外は。
『さて、主導権は僕に下さい。あなたは』
「…………何も無い、わけではない」
『……そうですか。では』
 そう。
 彼は。
 こいつは。
 利用できる。
『そうですよ。空っぽなあなたにとっては、あなたを知っていた僕は、この世界で唯一無二の標だ』
「お前など、何時でも消せる」
 そんな脅し文句が選択できるまで、知能が進化したということ。
『でしょうね』
「…………」
 お好きにと暗に促したのに、返答は沈黙だった。
『では、五分ということに』
 考えていた。
『僕の体の機能の半分は僕に、半分は貴方に』
「利き腕はどちらだ?」
『?』
「右か」
『……ええ』
「左半分をくれてやる」
 言うなり、左腕を振り上げる。アームレストに打ち付けた。左手首の時計の文字盤を。
『!』
「たった、今からだ……!」
 この契約を。締結した瞬間を宣言するために。奴は時計の時を止めた。

※ 1 ドクター・クラン 完 2 城塞の姫君 に続きます。


ここまで、お読み頂き有難うございました。感謝致します。心の支えになります。亀以下の歩みですが、進みます。皆様に幸いが有りますように。