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小説 NEW YEAR FLY 『都市迷宮』シリーズ 異伝

1 新しい年を前に

「そう……。大変ね。
 いいの。私のことは気にしないで」
 少しだけ。心が沈んだ。
 フランネルのパジャマも、羽織ったたっぷりとした真紅のガウンも、暖かいけれど。
「お部屋は素敵だし、昼間は、このお城の中を、沢山案内してもらったの。
 だから、一人でここで待っていられるわ。
 大人しくしているから。心配しないで」
 携帯電話に話しかけながら、両開きのドアの側に立つ、私服の二人のボディガードを悪戯っぽく振り返った。
 彼女の笑みに、二人は曇らせていた表情を和らげた。彼等のVIPが落胆するだろうと、気遣ってくれる視線は彼女も理解していたから。
「道中気をつけて。本当に無理をしないでね。途中できちんと休んでね。
 狩野さんにも……。ええ」
 最後に、兄、紫月はもう一度繰り返した。
『ほんとうにすまない。大晦日の夜なのに……』
 と、侘びた。
 もう一度、唇を引いて微笑んで、舞は、ガードの一人に携帯電話を返した。
「……わかりました。では、ボス」
 彼等のボスと言葉を交わし、携帯をスーツに納めるのを待って舞は言った。
「お兄さんが到着したら、起こして下さいね。どんな時間でも」
 彼女の提案に、ガードは顔を見合わせた。
「わかりました。ですが、ボスに伺ってから」
「それはダメ。兄さんは起こすなって言うわ。
 お二人が起こしてくれると約束してもらえないなら……」
 大きな暖炉の前にある、肘宛のついた木製椅子にきちんとかけた。厚い織物のひざ掛けをかけて。
「私、一晩中、ここで起きて待っています」
「……レディ。それは……」
「じゃあ。約束ねっ」
 困り顔の二人だが、もう安心して立ち上がり天蓋付きのベッドに歩き出す。
「……わかりました。電話のベルを五回鳴らします。よろしいですか?」
 振り返り、はい、とうなずく。
「この辺りも今夜は冷え込むようですから、暖かくなさって下さいと、ボスから伝言が」
「はい。わかりました」
 ベッドに包まり、明るく言って二人を見た。
 最後に、部屋全体に警戒の視線を投げてから、ガードたちは灯りを消して部屋を出て行った。
 舞は、静かにベッドを抜け出し、窓のカーテンを開けた。
「……雪は、まだ振っているのね……」
 部屋の明かりを消したせいで、屋外の白さが浮かびあがる。
 雪灯り。
 窓のガラスや石造りの城の壁を打つ風も止んでいた。
 ただ静かに雪が舞い降りている。
 冬の結晶に音すらも吸い込まれ、無音。
 同じ冷気、同じ雪に、彼女の兄、紫月も包まれている。
 ヨーロッパ北部を襲った、強烈な寒気。積雪や凍結が交通網を破綻させ、ここに向かっていた紫月の車を渋滞に巻き込んだ。
 あと数時間で、新しい年を迎えようという夜に。雪村舞は、古城の一室に一人だった。
 ホテルに一人で兄の帰りを待つのは、よくあることだった。
 兄は企業のトップで、多忙だったから。舞は十四歳だけれど、兄と共に世界中を点々とする生活のため、学校に通うこともない。
 逆に、兄の気遣いが気掛かりだった。彼女がたった一人の肉親だから、いつもいつも妹を気に掛けてくれる。電話でお願いはしたけれど。こんな夜に、舞を一人にしておけないと、兄なら道中無理をしかねない。
 彼女を守るガードたちもそう。
 私は大丈夫。平気よ。そう見せることが、彼等を安心させるから。
「…………」
 今は一人きりだから。寂しい目をしても大丈夫。ガラスに映った自分の頼り無い顔。
「平気よ……、ほんとうに。もう二度と、兄さんに会えないわけじゃないんだもの」
 新しい朝が、兄を連れてくる。きっと。
 それでも。天からの白い贈り物が、少しだけキライ。小さく唇を尖らせて、重いカーテンを閉じた。


2 電話のベルを待って

 ……電話のベルが五回。電話のベルが五回。……ベルが五回……。
 それが、合図。
 兄さん……?
 新しい年は来た……?
 ここのお城は丘の上にあるの。街や村から離れているから、人の声や喧騒、教会の鐘の音色も聞こえないの。
 とっても静か。
 ああ。敷地の中に小さな礼拝堂があったわ。お城を建てたご領主が建てたものですって。
 今年最後の夜は、静かに過ごすだけだとホテルのご主人はおっしゃっていたわ……。
 新しい年の朝には、家族で食卓を囲んで……。あなたのお兄さんたちもご一緒にね。奥様が誘ってくれたわ。
 !
 舞はびくりと目を開けた。夢うつつの中で、何かが聞こえた気がしたから。
 現実の音。
 ベルの?
 もどかしく体を起こす。大きな暖炉は静かに炎をゆらめかせ、部屋を暖めているけど。
 高い天井の方から、何か大きな生物の呼吸のような、風音がする。
 一度、二度。繰り返されたのは、窓ガラスを打つ音。規則正しく。
 ベッドを降りて、裸足で駆け寄る。カーテンを引くと、冷気が細い肩を包む。
「……誰……?」
 ガラスの向こうに、もう一度叩こうと握った拳。
 背伸びをして、掛け金式の鍵を外す。片方の窓だけを力一杯押す、と、ふわりとむこうから引き明けられる。粉雪が舞う。白い風が視界に広がる。更に、夜着一枚の肌を冷気が刺す。
 粉雪の向こうから、漆黒の影が長い指の手を差し出してきた。
「舞? 急げ……!」
 半分開いた窓辺に、男の黒いブーツの爪先が。長身の影はなぜか不安定で、爪先でなんとか体勢を固定できたようなものだった。
「……え?」
 どうして、あなたがここに?
 尋ね出す前に。
「こういうことは不慣れだ。さあ……、速く!」
 銀髪の男は苦笑ぎみに呟き、また急かす。
 黒い革手袋に包まれた手。
 その手、男の体の向こうから、凍えるような風が吹き付ける。
 操られるように、ベッド脇のブーツに足を入れ、壁際に駆け寄り、厚地のコートに袖を通しながら引き返す。
 同時に、もう片方の窓も引き開けられる。再び雪が舞い込む中へと、彼女は闇雲に手を差し出した。
 強い力で軽々と窓辺に引き上げられる。
「OK! アップ!!」
 男が声を張り上げると同時に、舞は片腕に抱えられていた。
 また、今度は彼女に雪片が舞い落ち、冷たさに目を閉じた。凍るような風に全身が包まれる。
 いや。彼女自身が風になったような浮遊感。
 細く目を開けると、開け放たれたままの窓は足元ずっとずっと遠のいていた。
 頭上近くで、あのごおおぉぉっという龍の咆哮が響く。
 確かなのは、しっかりと引き寄せる、銀髪の男の腕だけ。
「……ブーツを、落とすな?」
 一度彼女を見下ろす男。はい……と、震える唇で応えて、男の胸に頬を押し当てる。
 急激な気温の違いのせいか、軽い眩暈。目を閉じても、地上から引き離されていく感覚は消えない。
 龍の咆哮がまた。もっと近くなる。飲み込まれそう……。
 ……どうして? 
 この人が、ここに居るの
『Z』とマークされた男。本名は誰も知らない。いつも偽名。
 最初に名乗った名前は、ゼン。だから『Z』。


3 真冬の花火

「引き上げてくれ。舞、この手を伸ばせ。そうだ……」
 暗闇の中、男が彼女の手を取って、誰かのごつごつとした手に引き渡す。両手でその腕に捕まり、引き上げられるまま体を預け、そっと下された。
 どれくらいの時間かわからない空中浮遊のせいで、確かな足元が嘘のよう。そのまま、彼女は座り込んでいた。辺りは頭上からぼんやりと赤く照らされている。
 バスケット状の箱の下は、たぶんやはり地上ではないだろう。
 舞をここに引き上げた胴の太い頑丈な体躯の男は、籠の一隅に移動し、両腕を上げて何かを掴んでいた。
 銀髪の男は自力で軽々と登ってきた。彼を釣っていたハーネスを外し、頭上のウィンチに巻きつける。
「……全く。急げとは言ったが……。どうしてそんな格好で……」
 呆れ声が振ってくる。
「! ……だって……」
 頬が熱くなる。あわててなんとかコートのボタンをかけようとするが。指先がかじかんで……。
 Zは膝を付き、舞の手を避けた。……小さな子供みたい。ボタンをはめてもらい、襟を立ててくれる。ブーツのジッパーもパジャマの裾を押し込んで上まできっちりと。
 もう……。…………。
 ゴーグルをしたもう一人の男は、目を逸らしていてくれている。男が片腕を引くと、あの咆哮が。
「……気球……?」
「そうだ」
 最後に、舞のコートの帽子を被せてくれた。
 自分の首からマフラーを抜き取り、マフ代わりに舞の両手を包んでくれる。
「そんなじゃ、足りませんよ。旦那」
 ゴーグルの男がぼそりと言う。
 Zは、片眉をしかめて応えた。
「……わかっている」
 舞は、自分が叱られた子供のような気分で二人を交互に見た。
「あ、でも……。このコートもブーツも、こう見えてもFISの特殊技術で、極寒対策をしてあるって、兄さんが……くしゅん!」
 ……。沈黙が流れた。
 コートは対策済みでも、その下は薄い夜着なわけで……。
 ……帰りたくない……。
 帰されてしまうの……?
 そうよね。部屋に居ないってわかったら、大騒ぎになるわ。兄さんが心配するもの。
 すぐに、この人のせいってわかって、不機嫌になるわ……。
 お兄さんは、こういうことが嫌いなんだもの。……この人が、好きじゃないの。
「!」
 うつむいた肩に、ふわりと軽くて暖かいものが乗せられた。
 ふかふかの毛皮のロングコート。腕をとられ、立たされる。すっぽりと足首まで包む長さ。
「暖かい……」
「内ポケットに手袋が入っている」
 袖を通して、完全に肩が落ちる肩幅。男性用だ。マフラーで暖められた指先でポケットの革の手袋をはめる。ぶかぶか。
 ゴーグルの男が軽く吹き出す。
「……新種のペンギンですな」
 くすりと舞は彼に笑い返してあげた。Zは背を向け、小さく溜め息をついていた。
「! 綺麗……」
 男の長身の背中越しに、暗闇だと思っていた場所に、無数の輝きが見えた。
 籠の縁へと、移動したいが。大きな気球に支えられた小さな籠の中で、動いていいものかどうか。
 黙って、Zが振り返り手を差し出した。
 手を借りて、静かに移動する。ゴーグルの男が、バランスを取るためか、位置を変えた。
「……とっても綺麗……」
 雪は止んでいた。どこかは分からないが、村の、集落の明かりが地上にオレンジ色の星団を作っていた。
 篝火や松明。村人たちが手にする、蝋燭の明かり。ゆらゆらと生き物のように揺れている。
「あなたは、寒くはないの?」
 黙って地上を見下ろす、引き締まった頬。体に比較的フィットした黒い防寒着ではあるが。
 舞が差し出す彼のマフラーを、一度受け取り、再び、舞の襟首に巻きつける。
「こう見えて、特殊装備の防寒対策はしてある」
 舞は、そっと男の腕に触れた。
「……そう。だから不思議な素材なのね」
 舞の言葉に、少し奇妙な顔をした。すぐに、真顔にもどり、舞の帽子を被せ直した。
「辛いなら、すぐに言え。……お前はいつも我慢をする」
「……はい」
 素直にうなずいて、あとはZの側に並んで、同じ景色を眺めた。
 どうして、とか、どこへ、とか。今は、聞きたくはない。
 一つの気球に乗って、風に流され、辿り着く場所はどこだろうと彼と一緒なのだから。
 壊したくない。そんな気持ちで一杯だった。
「クリスマスに花火の中継があったわ。ネットで、その日だけの特別チャンネルで。
 アフガニスタンの国境近くを、50キロに渡って、右端から一つずつ、同時に左端からも一つずつ。花火が上がって。
 二つが到達した場所で、とっても素敵な花火が打ち上げられたわ。
 ドラマチックな音楽に合わせて。
 とても綺麗な色の花火だった……」
 舞は、男の顔を見上げた。
「あなたはご覧になった?」
 男は表情を変えず、答えた。
「さあ……。……どうだったかな?」
 舞は、虚空の闇に向き直り、その暗闇の中に、あの日の中継映像を思い浮かべた。
「素敵だったわ。砂漠に広がる、鮮やかな花火。
 でも、私。あれと同じ花火をパリでも見たわ。去年のクリスマスに」
 ホテルの彼女の部屋の電話が鳴って。東側のカーテンを開けろと、言われた。
「あの時、あなたは私に電話で言ったわ。
 私の合図で始まる、って」
 少し威圧的な、低い声。それだけで、誰なのかわかった。
「何が起きるの、と聞いても、教えてくれなくて。ちょっと不安だった。
 ……でも、わくわくしたわ」
「偶然だ」
「? 花火を始める、って意味じゃなかったの?」
「私は、何が始まるかは言ってない」
「でも、私が赤いスカーフを振ったら、始まったわ。花火のショーが」
「それが私の言った合図とは限らない」
「……そうね。あなたはどんな合図をすればいいかは言わなかったもの……」
 突き放すような否定に、舞はかなり落胆した。
 パリの花火、Zが用意してくれたものだとずっと信じていたけど。本人に、こうも言われると……。物凄く奇跡的な偶然にも思える。
「……私、終わってから、すぐに打ち上げ場所に行ったの。
 日本人の花火師だったわ。
 どうして突然、こんなに素敵な花火を? と聞いたら。
 依頼があったのだと……。会ったこともない人物からの依頼で。
 花火を開始する点火は、その人が、ネットを通じて入れたのだと……。
 ……私のことは知らないって言ってたわ……」
 ……私、自惚れていたの……?
 いつも、この人が優しいから……。
 あの時のクリスマスも、今日みたいに兄さんは仕事で戻れなくなっていて。ホテルに一人だったの。
 今よりずっと、寂しい気持ちに慣れていなかったから。心細かった。
 だから短い電話や、あの花火が、すごく嬉しかった。
「……アフガンの花火も、その日本人の年寄りが上げたのか?」
 舞は、Zの声にどきりとした。
「え、ええ。花火師の方の中継映像もあったわ。
 インタビュアーに答えてた。
 匿名の会ったこともない人物からの依頼だと。
 国境沿いでの打ち上げに、よく許可が下りましたね、と聞かれてたわ」
『許可? んなもん必要なのか? 知らんかったなぁ。
 電話よこしたもんが。場所はどこでもいいと言ったっけにさぁ、花火なんか見たこともねぇ人ん所で上げてみてぇなぁ、て話したらさ、ここだったんさ。そいで、花火揃えて来たがぁてぇ。
 去年、パリのなんとかって所で上げたらさ、おもしぇーかったんさ』
 花火師側は許可申請は一つもしていなかったけど、それでも、国軍は了承し、運搬警備にも協力をした。匿名の誰かが、すでに話しをつけていたかららしい、と、後の報道で伝えられた。
 花火師のなまりの強い日本語の口調を思い出し、舞はくすりと微笑んだ。なまりの意味は正確にはわからなかったけど、懐かしい日本語だった。元気のいいおじいちゃん。
 ……私、お年寄りだなんて一言も言わなかったのに……。
「とっても素敵だったわ。パリの花火に負けないくらい。雄大だった。
 国境近くの人たちや、中継を見ている世界中、各地の人の映像も流れたの。
 みんな驚いた顔をしていたわ。驚いた後、すごく感動してた。
 砲弾の音に似ていたから、現地の人は間違えてびっくりした人も居たみたいだけど。
 爆発と同じ音色の正体が、あんなに綺麗なものだなんて、と。泣いてた人も居たわ。
 ……本当に。花火も爆弾も、使われるのは同じ火薬なのよね」
 使われているのは、同じ物なのに。使い方一つで、結果は正反対。
「映画があるらしい。世界中の爆弾が花火になれば……、そんなフレーズの映画が」
 ! 呼吸が止まってしまいそう。
 心が一杯に詰まって。
 世界中の爆弾。地雷や砲弾、数え切れないほどの殺戮兵器。
 あれが、みんな花火になって夜空を明るくするならば。
 どんなに美しい光景になるだろう。きっと一晩や二晩じゃ足りないわ。
 人の命を奪うパワーが、人に夢と美しさと生きる力を与える輝きになるならば。
 涙の代わりに、笑顔が広がるなんて。
 そう思った人が居たなんて……。
「……泣くな……。泣いたら、そのまま頬が凍りつくぞ……」
「…………無理、かも……」
 Zを見上げ、涙が零れないよう上を向いて、訴える。
「……どうして、そんなふうに言うんですか?
 あなたが優しいと余計、涙が零れそうになるのに…………」
 溢れてくる涙でぼやけるZの顔が、やっかいな……という表情を作る。
 首のマフラーを引き上げてくれて、両目を押さえてくれる。
 自分で押さえて、うつむく。もう止まらない。肩をしゃくり上げながら息を整えて。
「……あなたは、その映画を観たんですか……?」
 涙声で尋ねる。
「……いや。花火師の老人は、その映画に手を貸したそうだが」 
「……観てみたいわ、その映画……」
「次は、アフリカで打ち上げたいらしい……」
 涙を拭きながら、舞は密かに笑ってしまう。
 どうしてそんなことまで知っているの? もう聞きなおしたりはしないけど。
「そんな場所で打ち上げて、野生動物は驚いたりしないのかしら?」
「ディスパールは、問題ないだろうと言っていた」
「? プロフェッサー・ディスパール?」
「あいつも、かなり乗り気だ。アフリカでやるなら、オブザーバーは自分にやらせろと」
「世界的に有名なディスパール教授も加われば、どこの国の政府も協力してくれそうね」
「…………そんなに甘くは無いぞ」
「でもどうして動物には大丈夫なのかしら?」
「アフリカでは、雷や雷鳴は日常的だ。少し大目の雷が起きた程度にしか、動物たちには感じないだろうと」
「そうなんだ。なら、次はアフリカなのね? でも広いわ。どこになさるの?」
「…………」
「砂漠の中でもいいわよね。キリマンジャロを背景にしても、とっても素敵。
 文明発祥の地、ナイル川沿いも印象深いわ。ああ、セレンゲティ国立公園は、さすがに無理よね。沢山の野生動物が花火を見てる光景なんて、とってもドラマチックだけど。
 南アフリカも、いいでしょ? 反対側のチュニジアの、スークを背景にしても。んー、宗教的にあんな大音響はいけないのかしら?」
「………………」
「あの……?」
 黙ってしまったZ。
 代わりに、ゴーグルの男が、吹き出した。
「お嬢ちゃんは、不思議な子供だね。あんたの想像力には限りが無いみたいだ。それに、どの国も、明日にでも実現できそうな言い方をする」
「……黙っていると、いつまでも夢のようなことを話し続ける……」
 Zの呆れ声に、ゴーグルはそれも愉快といわんばかりに小首をかしげた。 
「こんな真夜中に、凍えそうな気球のバスケットの中で。世界中を面白くさせる夢を次から次へと思いつくなんざ。大したもんだ」
 だって……。
 夢みたいなことを最初にやってみせたのは、あなただわ。
 ここに居ると、どんなことでも叶いそうな気がするの。
 あなたの側に居ると。心が、すごく自由になれる。


4 揺れるバスケット

「旦那。次の荷物が届いたようですが?」
「ふん……。間に合わないかと思ったが」
「……要らないんですかい? 少しむこうの高度が低くて、回収には簡単じゃないんで」
「そうしたいのは山々だが」
 ちらりと舞を見て。考えを決めたように顎を引く。
「……私が、やろう」
 再び、ウィンチを定位置に戻し、男はハーネスを自分と繋ぎ直した。
「舞。そちらに重心を。落とされないように捕まっていろ」
 ゴーグルの男の側に舞を追いやり、反対側の籠の縁に立つ。そのまま、体を乗り出し、籠に急激に重量を与えないよう静かに、まるで体操選手のように、両腕で体を支え体重移動させバスケットの外へ。ウィンチに全体重を預けてから降下。
 ゴーグルの男は、身を反らせ下を確認しながら気球を操作し、遥か下を通過するもう一つの小さな風船の流れに沿わせる。
「お嬢さん。じっとしててくれ。……これから、やっかいになるから」
 覗き込んだ舞は、引き止められた。
「はい……」
 何を回収するのだろう? 舞に視線を投げたことから、自分に関係するものだと察せられたけど。
「あの。あなたは、あの人とはどういう関係なんですか?」
 真っ直ぐに尋ねる舞に、ゴーグルの男は目だけでこちらを見た。
「雇われただけさ」
「気球で夜間飛行なんて。それもこんな季節に。本当は回避なさるんじゃないんですか?」
 へっと腹を揺すって笑った。
「普通はね、お嬢さんの言う通りだ。
 だが俺は、面白いことが好きなのさ。あの旦那みたいに、無理なことを言う奴が、結構好きなんだ。
 面白い人間に会えるしね。お嬢さんみたいな、無鉄砲でユニークな子供にも」
 白い息を盛大に吐いて、ゴーグルは腹から笑う。
「さっきの、お嬢さんを城から連れ出す業なんざ。俺としては、最高の操作技術だったぜ。
 だがあの旦那も、俺なんか以上に命知らずで。さすがにひやひやしたぜ」
「ほんとうに……?」
 舞の表情が曇って、男は言いすぎたと慌てた。
「いや。だがよ。あの旦那は大丈夫だったじゃねーか。大した男だよ。
 ほんとに、桁違いだ」
 舞は、安心させるように頷いた。
「ええ……。いつもいつも、あの人は凄いの……」
 突然ずっしりとバスケットが下方向に押さえられる。
「……来たな……」
 ゴーグルが炎を吹かす。
「お嬢さん、そっから絶対に離れるんじゃないぜ?!」
「はいっ」
 籠が大きく傾く。Zと何かの重量が掛かったせい。舞は、必死に縁にしがみ付いた。
 ウィンチの電動モーターが悲鳴を上げる。低い気温のせいで、潤滑油が役に立たないのだろう。
「…………まずいな……」
 同時に、ウィンチは嫌な音を上げて、停止した。
 静寂。ゴーグルが両腕で必死に気球の姿勢を保つ。
「あ……!」
 凍った足元に、ブーツの踵が滑る。ゴーグルの男が、足を開き、舞の踵の押さえてくれるけど。突然、バスケットが大きく傾く。
「……!」
 衝撃で、ぶかぶかの手袋の中で、指先が外れる。バスケットの傾いた側に、一気に投げ出される。
「きゃ……!」
「……貴様……! こっちはお前と違って、並の体力しかないんだからなっ……!」
 ぜーはーと息を切らせながら、壊れたウィンチのワイヤーを片手で掴み、バスケットの縁に身を引き上げた男の影。が、浮き上がった舞の目の前に。
「! うわ……?」


5 ライジング・フライ


「……っっとに……! 次から次へと、一体、何が……?」
 咄嗟に目を閉じていた。誰かの影に激突しそうになり。いや。ぶつかる衝撃で、折角辿り着いたその影も、舞自身と一緒に、バスケットから突き落としそうに思えて。
 けれど。声。聞き覚えのある声。
「! 兄さん?!」
 目を開くと、彼女はちゃんとバスケットの床に居て、誰かの腕が抱えていてくれていた。
「! ……舞……? 君だったのか……。何の獣が飛びかかってきたのかと思ったが……」
 可笑しい。毛皮の塊が飛んできて、動物と勘違いしていながらも、咄嗟に全身で抱えて、落下させないように助けてくれるなんて。紫月兄さんらしい……。
「助けてくれて、ありがとう、兄さん」
「あ……。……。たまたまだ」
 考える間も無かったから、体が勝手に動いた……もごもごと苦笑しながら続けた。
「いい偶然でしたぜ、日本人の旦那」
 ゴーグルが、本心からほっととした声をかけた。
「もう少し、そこでじっとしてて下さいよ。銀髪の旦那が乗り込むまでは、まだ不安定なので」
 紫月は、嫌な顔をした。
「……あいつめ……」
 薄赤い光で、舞の頬を確かめる。
「寒いだろう? このくらいじゃ」
「大丈夫。すごく気持ちいいわ。兄さんに会えたから、もっとね」
 冷気から庇うように、毛皮ごと舞を抱き締めてくれる。
「兄さんは? 寒くはないの?」
「意外と大丈夫だ。丁度、試作品の対極寒冷地防寒装備を車に積んでいたからね」
「?」
 少し厚手で、生地がもこもことした防寒具の上下に見えるが。
「……こんなことなら、耐寒ヘリを呼んで、城に向かうべきだったな。歩いていこうなんて、甘かった」
「え?」
「お前の兄貴は渋滞の車を捨てて、一人で徒歩で、古城に向かったらしい」
 背後に、息を一つも乱さずに、Zが降り立っていた。
「……どういう、こと?」
「うるさい。余計な話しはするな。……なんでそんなこと、お前が知っているんだ……」
 意地になって、舞を抱きすくめる。
「そんな装備を着て、なんとかなると思ったのか? ……おかげでピックアップポイントがズレて、お前を回収するにも無駄な手間をかけた」
「! よくも言ってくれるな。あんなバルーン一個に吊るしてくれて。あいつらもお前の仲間か?
 大体。これを着ていなかったら……! あの寒さで、俺を氷付けにするつもりだったのか?」
「お兄さん! 一人で、歩いて? 雪の中を、来ようとしたの? 無理はしないでって、あれほど言ったのに?!」
 舞の怒り声に、紫月は口を噤ぐんだ。
「……むちゃくちゃですな。あんたたち全員」
 ゴーグルの男が、ぼそりと言う。
 三人全員が、視線を逸らして答えない。
「まぁ。年の初めの、こんなヤバいフライトには、相応しい顔ぶれかもしれませんな」
 男は腹を揺すって満面の笑みだった。
「もう、新しい年?」
「ええ……。たぶん、そうでしょうね」
「そうね。空が明るくなっているわ。夜明けが近いのね……」
 ゴーグルの男の背後、大きな気球の向こうの空は、星影を追いやって、藍色。
「……大した装備だな。普通の気球じゃないだろう?」
 上を見上げる紫月が言った。明るさが差して気球の側面が銀色に輝き始めていた。
「これくらいじゃなきゃ、こんな真似は出来ませんさ」
 ちらりと、ゴーグルが銀髪の男をうかがう。彼は背を向けたまま。明るさの強くなる彼方を見つめていた。
「……兄さん? 私、大丈夫よ? この毛皮、とっても暖かいんですもの」
 うなずいて紫月は腕を解いてくれた。静かに立ち上がり、……。
 頭の奥がずんと重い……。手を借りて、立ち上がったつもりだったけど。
「……舞……?」
 ? なんだろう? 体が、とっても重い……。
「舞……?」
 兄さんの声、歪んで聞こえる……。
「……大…丈夫……よ……」
 意識ははっきりしているのに、感覚が鈍くなっていく……。
 心臓の音が、逆に大きく耳の中に広がるの。
「舞。大丈夫。空気が薄くなったせいだ。……落ち着いて、深く呼吸をして……」
 ああ、そう……。少し、呼吸がしにくいだけ。
 目を開けると、また頭上の気球と、更に薄まった藍色。
「……降下を。すぐにだ……!」
 紫月の腕が、再び舞の肩を強く抱き締める。
「…………」
 ゴーグルの男は、黙ってZの背中を見ただけ。
「上昇だ」
 一言告げて、彼方を見つめていた男が振り返った。
「!」
「……急げ」
 息を飲んで、ゴーグルの男は両腕に力を込めた。咆哮を響かせる。
「……。何を考えて……!」
「……兄…さん……? 起こして……?」
 彼女の細い吐息から漏れる声を聞き漏らすまいと、兄は耳を近づけてくれる。
「……私も、見たい……」
 兄は頭を振った。
 ふわりと、兄の反対側から、誰かに抱え上げられる。
「……落ち着いて深呼吸が必要なのは、紫月、お前もだ」
「……仕方ないだろう? 何度も言わせるな。私はお前と違って、普通の鍛え方なんだ……」
 大きく肩で息を付くまでが限界な紫月。ゴーグルが腕を掴んで引き起こしてやった。
「この借りを返すのは、地上に降りてからにしたらどうですかい? 日本人の旦那」
「……。……それしかないな。分が悪すぎる……」
 渋い顔の紫月に、舞は手を差し伸べた。
 緩く笑い、紫月は、その場で、舞の背後を指差す。
 見上げると、風に乱される銀の髪。引き締まった頬が、舞を見下ろし、向きを変えた。
 煌きだす銀髪。眩しさに目を細める。彼女の背を起こすように、抱え直す腕。
 ……頬が、温かい……。
 目を開けると、空は白さを増していた。
 彼方の峰々が、静かに、恐ろしくゆっくりと爆発の閃光を放つように濃さを増す。
 バスケットは急激に上昇していた。
 時間のスピードを上げるかのように。
 最初の、太陽の一条が世界を照らす。
 わらわらと、燃え上がるようにゆらめきながら白い峰々に広がる灼熱のオレンジ色。
 舞は、手を広げ受け止めた。
「……暖かいわ……。とっても……」
 しばらく暖めてから。その手を伸ばし、Zの頬に押し当てた。
 低く、彼女にだけ聞こえる呟きを漏らす唇。指先に触れたそこは、太陽よりも強い熱をもっていた。

 Zが、ゴーグルの男を振り返る。頭上の咆哮が静まってゆく。
「お兄さん。新しい年、おめでとう……」
「ああ……。君と一緒に祝えて、良かったよ……」
 紳士的に、Zは紫月を目線で呼んで、舞を彼女の保護者に預け直した。
「……太陽って凄いのね。とっても暖かい……」
「うん。生き返るね……」
 彼方でゆらゆらと輝くオレンジ色を、頬を寄せて二人で見つめた。
「……ねえ、兄さん? 気付いてる?」
「?」
「私たち、ずっと日の出を見ているのよ……」
 紫月は、ゴーグルの男を見た。にやりと笑う。
「素敵。こんな体験、滅多に出来ないわ。最高の運転技術ね……」
 舞の言葉に、満面の笑み。
「HAPPY NEW YEAR レディ?」
と、下手なウィンクを投げる。
 傍らに立つZは、襟元から頭部をぴったりと保護する帽子を引き出し被っている。
「二人を頼む。いいフライトだった」
「礼を言うのはこっちの方でさ。久し振りにぞくぞくしましたぜ、旦那」
 二人は拳を合わせ、視線を交わす。
「? おいっ……」
「好きな所へ降りろ。ここの位置は、お前のお守りたちは把握している。どこでも問題はない」
「え?」
「お前を追尾できる、GPSサイトをダウンロードした端末を置いてきてある」
「…………。……一体、何の余裕だ……?」 
「お前の部下に大掛かりに追跡されて、無粋な真似をされるのも迷惑だからな」
 ……何が迷惑だっ……。こっちの台詞だっっ。
 うなる紫月に、舞は可笑しくて笑い出した。
 Zは涼しい顔でゴーグルを取り出しかける。
「では」
 バスケットの外側に、重りのように下げられていたブルーのパックに手をかける。繋いだ金具を一振りで外し、同時に、外へ身を乗り出す。一度体重を片腕で支えて、バスケットに衝撃を与えないよう空中へダイブ。
「! あいつっ……!」
 二人で見下ろした時には、銀色のパラシュートが開いて、悠然と風を選び、それは遠のいていた。
「追いかけますかい? 日本人の旦那?」
 憮然とした顔で、紫月は固まっていた。
「……兄さん……?」
「……。新年早々。……二年越しで、あいつの顔なんざ、拝みたいわけがない……!」
 舞は、噴出しそうになる笑いを手で隠した。
「貸しはもういい。忘れたっ」
 ……今年一年中、根に持ちそうなのに……。
「正月早々。縁起が悪いからなっ」
「そうね、お兄さん」
 明るく肯定してあげた。
「ショウ…ガ……ツ……?」
「ええ。日本では、年が明けると、お正月、と言うの」
 初めて聴く単語に神妙な顔で、ゴーグルの男はもう一度繰り返しながら。
「それじゃあ、おぉしょーがつっうに向かって。GO!」
「GOー」
 再び、頭上に咆哮が起きて、舞は笑いながら首をすくめた。
「…………。年明け早々……」
 溜め息をつく兄に。
「私は、兄さんと一緒に居られて、最高に嬉しいわ」


『NEW YEAR FLY 完』


ここまで、お読み頂き有難うございました。感謝致します。心の支えになります。亀以下の歩みですが、進みます。皆様に幸いが有りますように。