願うよりすてると、手もとにのこる

初詣にいったらなにを願うものなんでしょうか。私はこどものころは「背がたかくなりますように」でじりじり変化し「なりたいものになれる努力をできますように」「踏みだす勇気をもてますように」と自分ではどうにもならないことや自力本願を意識してとなえていました。しかしそれでも動きだすことはせず、ただ音のない声にするのみでした。

いつのまにか初詣に行かなくなり、願うかわりに去年の末にただ「書いてみる」ことをはじめました。

いつのまにやら習慣です。

「今からはじめよう!」と決意して、予定を立ててご満悦になったのに、1週間でことごとくやめるかすっかり忘れてきた私がです。

決意が必要なわけではなかったんです。そして時間をつくれるかが問題でもないようです。

「じゃあ毎日時間があるんだ?」と思われそうですが、どうなんだろう。
2月は7:30に家をでて、週3日は22時すぎに退社。通勤時間は片道1時間で半分は歩き。書く内容はその2時間で考えて、メモがとれたら取る程度。

ちょっと前の私なら「時間はつくるものだから」と言ったんだろうな。
時間はつくったわけではなく、そこら辺にありました。「そのへんにおちてた時間なんだよ」という感じです。

「毎日、とかいうならさぞかしいいもの書いてるんだろうな?」とも思われそうです。

自分がよーくわかっていますが、ぜんぜん成ってないですよ。だってこわいから一度も見返したことがありません。着地点がみつからず途中で消えたり、おもしろくしようとしてすべっていたり、そんなのばかりです。

ただ「まいにち」という事実がほしかった、それだけです。

賢者ならきっとこういいます。「量より質をたかめよ。意味がないではないか」

いいえ、そんなもの。自分をきらいになるくらいならやるほうが得策です。お買い得といっていい。
決意にたいして「結局やめてしまった」をつみかさねた私には、もう「だめな自分」をのせるキャパがありませんでした。

まいにち、という事実をつくるために、気づいたらどんどん捨てていっていました。「こうあったらいいのにな」という理想を。

時間をつくり、おもしろいものをみつけ、それをうまく解釈し、いい感じのことばにする。

今ではその理想よりも、「これを投稿したら次はどうしよう」です。
そうしないと、途端に書けなくなるだろう予想ができます。

そこらへんにあった時間で、正体不明のままでもおもしろいものを、ただのことばにする。それをまいにち。

手もとにのこったのは「まいにち書いてる」という事実のみ。

理想のままだと手もとになにも残らなかったのに、すてると残るものもあるなんて、願いのままでは気づかなかったなー。





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