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「ひ・よみ」…第10回5-3-3その他の論点

5-3-3 その他の論点

ここからは、本文の内容の中でよく取り上げられているテーマについて見ていきます。


・食

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「一二三(ひふみ)の食物(たべもの)に病無いと申してあろがな、一二三の食べ方は一二三唱(十七)へながら噛むのざぞ、四十七回噛んでから呑むのざぞ、これが一二三の食べ方頂き方ざぞ。神に供へてから此の一二三の食べ方すれば何んな病でも治るのざぞ、皆の者に広く知らしてやれよ。心の病は一二三唱へる事に依りて治り、肉体の病は四十七回噛む事に依りて治るのざぞ、…」(日の出の巻 第八帖)

「日本には五穀、海のもの、野のもの、山のもの、皆人民の食ひて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ、日本人には肉類禁物ぢゃぞ。今に食物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ、今度は共喰となるから、共喰ならんから、今から心鍛へて食物大切にせよ、食物おろがむ所へ食物集まるのぢゃぞ。…」(梅の巻 第十四帖)

「…遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。…」(冬の巻 補帖)

「牛の喰べ物たべると牛の様になるぞ、猿は猿、虎は虎となるのざぞ。臣民の喰べ物は定まってゐるのざぞ、いよいよとなりて何でも喰べねばならぬやうになりたら虎は虎となるぞ、獣と神とが分れると申してあろがな、縁ある臣民に知らせておけよ、日本中に知らせておけよ、世界の臣民に知らせてやれよ、獣の喰ひ物くふ時には、一度 神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ、何もかも神に献げてからと申してあることの道理よく分りたであろがな、神に献げきらぬと獣になるのぞ、神がするのではないぞ、自分がなるのぞと申してあることも、よく分ったであろがな、くどう申すぞ、八から九から十から百から千から万から何が出るか分らんから神に献げな生きて行けん様になるのざが、悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ。」(天つ巻 第五帖)

「…。ひふみの食べ方 心得たら、今度は気分ゆるやかに嬉しウレシで食べよ。天国の食べ方ぞ。…」(黄金の巻 第四十帖)

「その人その人によって、食物や食べ方が少しづつ違ふ。身体に合わんもの食べても何もならん。かえって毒となるぞ。薬、毒となることあると気つけてあろうが。…」(夏の巻 第十九帖)

前三者は「一二三の食べ方」として、よく触れられる部分ですが、
本当にこれでよいのでしょうか。
禅寺では以前から五十回以上噛んで、
食べ物が口の中でとろとろになってから飲み込むようにいわれています。

「ひふみ」を唱えるだけに集中していては、食べ物に対して失礼です。
自分のことだけを考えている、「われよし」の食べ方です。
調理の経験のない者の食べ方です。

調理の経験があれば、
「おいしいなあ。どうすればもっとおいしくできるかな。」
と考えるはずです。

そうすれば、食べ物たちも、
あの人のところへ行けば、おいしくしてもらえる、
喜んで食べてもらえる。」と集まってくる、
と思いませんか。

神妙な面持ちをして、一二三を唱えることに集中して食べているなど、
はたから見て、美味しそうに見えますか?楽しそうに見えますか?

前にも触れましたが、以下の文言は、
何をするにも忘れてはならないことです。

「…あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ。…」(松の巻 第十一帖)

私は、「いただきます」は、
食事を与えてくれた人に対するだけでなく、
「関わってくれた、すべての人、すべてのもの、に対する感謝」
だと思っています。

「神に供へて、神に献げて」の実態です。

それに、現在の環境にあっては、
ほとんどの食品に、薬品が使われていて、
安全なものを探し出すだけで精一杯で、
食べ物の種類、食材を選択することは不可能です。

私は、スーパー・コンビニで売られているもののうち、
99パーセントは食べることができません。

これらのことを考えてみると、正しいものは後の二者だと言えます。


・「北よくなる」

これも、「おおもと」にあるものです。

「…北おがめよ、北光るぞ、北よくなるぞ、…」(天つ巻 第二十七帖)

「…北よくなるぞ。…」(夜明けの巻 第二帖)

「…キT(た)がよくなる、キたが光るぞ、きT(た)が一番によくなると申してあること段々に判りて来るのざぞ。…」(岩の巻 第十帖)

「…霊界では光のさす方が北ぢゃ、その他の東西南北は皆南ぢゃ、北が元ぢゃ、北(基田)よくなるぞと申してあろうがな。…」(五十黙示録 五葉の巻 第二帖)

太陽と地球の話で思い出したので、ここで説明させていただきます。

上記の「北よくなる」という言葉から、ポールシフトなどという、
おかしな説明がでていますが、そのようなことはありません。

日本が北になっても、何一つ良いことはありません。

極地域になる、ということは、
宇宙線(宇宙からやってくる放射線粒子)の影響を多大に受ける、
ということになります。
オーロラはよく見えるようになるでしょうが、
ちょっとした磁気嵐でも、大変な影響を受けることになります。
電流・電波は使えなくなります。
発電所も電気の流れが異常をきたして、火災を引き起こします。

日本は電気のない生活をすることになります。

それでよろしいのでしょうか?

私の解釈はこうです。
「北」というのは、実際の北の方角や北極のことではなく、
「背を向けられていたもの」ということです。
「背」という文字に「北」が含まれているのは、
「天子は南面する」とした場合に、
「体の北を向いている部分」、という意味だからです。

こうして「北よくなる」の意味は、
「人々が背を向けていた、目を向けていなかったもの(興味の目的・対象となっていなかったもの)から、重要なものが現れる」
ということになります。

何も恐れることはありません。


・サニワに関する部分

サニワに関する部分も重要なものが多くあります。

「…下の神が上の神の名をかたりて来ることあるぞ、それが見分けられん様では取違ひとなるぞ、…」(海の巻 第八帖)

「…心して怪しと思ふことは、たとへ神の言葉と申しても一応は考へよ。神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。サニワせよ。…」(黄金の巻 第二十九帖)

「…たとへ神の言葉でも尚サニワせよと申してあろう。…」(五十黙示録 竜音の巻 第五帖)

私は、この上記の部分が、
「ひふみのふで」中で、最も重要な言葉と考えます。
この言葉の神には、この神自身も含まれます。

今までは、「自分のいうことすべてをそのまま信じなさい。」という神ばかりでした。
「ひふみのふで」では「ミタマ(身魂)磨き」がこれに該当します。
今まで、「神を疑え」と言った神がいたでしょうか。

私は、この「五十黙示録 竜音の巻 第五帖」の部分によって、
真剣に向き合ってみようと決意しました。

本当のことを言う「神」が現れたのです。

「幽界霊も時により正しく善なることを申すなれど、それは只申すだけであるぞ。悪人が口先だけで善を語るようなものであるぞ、よいことを語ったとて直ちに善神と思ってはならん。よい言葉ならば、たとへ悪神が語ってもよいではないかと申すものもあるなれど、それは理屈ぢゃ、甘ければ砂糖でなくサッカリンでもよいではないかと申すことぞ。真の善言真語は、心、言、行、一致であるから直ちに力する、言葉の上のみ同一であっても、心、言、行、が一致しておらぬと力せぬ。偽りの言葉は、落ちついてきけばすぐ判るぞ、同じ「ハイ」と言ふ返事でも、不満をもつ時と喜びの時では違ふであろうがな。われは天照太神なり、などと名乗る霊にロクなものないぞ、大言壮語する人民はマユツバもの。」(五十黙示録 竜音の巻 十四帖)

「はじめに出て来る霊は殆ど下級霊であるぞ、玄関に先づ出て来るのは玄関番であるぞ。祖霊の出る場合は、何か頼みたい場合が多いぞ、浄化した高級霊ともなれば、人民に判るような感応は殆どないぞ。」(五十黙示録 竜音の巻 第十六帖)

七十年もそのままで、「直ちに力する」ことばはあったのでしょうか。
初発の「ふで」も、玄関番程度の内容です。
ほとんどが「おおもと」の写しです。
そして、この「おおもと」由来の用語はかなり見受けられます。

初発の第一帖だけでも、「神の国」、「みたまを不断に磨いて」(身魂磨き)、「日本はお土があがる、外国はお土がさかる。」、「大洗濯」があります。

他には、タテカエ・タテナオシ、大峠、因縁のミタマ、メグリ、グレンとひっくり返る、ハラに入れて、「雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神」という言い方、「天理、金光、黒住」という言い方、生れ赤子、ゴモク、炒り豆にも花咲くのざぞ、借銭なし、神急ける、褌しめて、ウシトラのコンジン、草木動物虫けら、などなど。「変性」の言葉そのものは表れていませんが、同様の記述もあります。また、「おおもと」の神諭類の文末は、「…ぞよ。」で統一されていることも、判断の材料になります。

こうして、これらに重複部分などを削っていくと、実際に残ってくる検討に値するものは、帖でいうと3パーセント強となってしまいます。

これが「ふで」の中での「九分九厘と一厘のイクサ」のことだと思います。

「あれっ、なんでこんなこと考えているんだろう。」
と、思ったことはありませんか?

それが、本当の神からの導きだと思います。


・イシヤの悪だくみ

これには現在では、差しさわりがあるので、
触れないでおこうかとも思っていたのですが、
関心をお持ちの方も多いだろうということで、
暗示的な表現になりますが、少しだけ説明さ
せていただきます。

現在の日本語は「文字中心」になってしまったので、
かなの大小や濁点の有無などをうるさく言い募りますが、
これらの表記が統一されたのは、昭和や戦後になってからの話です。

本来、日本語でカナの大小や濁点の有無は、
はっきりと区別されてはいなかった、ということです。

厳密に区別される必要があれば、その時点で、
まったく別のカナが考案されていたはずです。

ということから「イシヤ」という表現は、
人生でほとんど聞いたことのない、
「石屋」などという単語ではない、ということです、
「秘密結社」って何?ということです。

やり場のわからない不平不満を持って、生きていくことほど、
不健康なことはありません。
目の前の問題から、着実に処理していくことによって、
訳のわからないものが、もしあったとしても、
その影は消えていくでしょう。

ということで、昨今の事情を鑑みれば、「イシヤ」の解釈は自明です。


「おまけ」
カナで思い出したので、ついでながら…。

動植物名をひらがなで書いてしまう、特に文学関係の方が、
時々いらっしゃるのですが、現在の表記では「カタカナ書きが正しい」、
ということを言っておきたいと思います。

これは、現在の「ひらがな漢字」混じり文表記の中で、
名称のまとまりが簡単に認識できるようにするため、
動植物名がカタカナ表記されている、ということです。

当然、戦前の正式文章は「カタカナ漢字」混じり文表記であったため、
動植物名はひらがな表記されました。

ということで、戦前の図鑑に名称がひらがな表記されているものが、
そのままの形で出版されているので、それらを参照した人々の中には、
ひらがな表記が正しい、と思ってしまう人もいます。

出版社が一言、注意書きを追加してくれていれば、と思います。


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