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夏が来て

おととい、作家・川上未映子の最新長編、
「夏物語」を買った。

これについて、「つち式」主宰の東から、「8月4日に向けて読むつもり、なんか気になる。」と連絡が来たとき、それが反出生主義など、人の誕生にまつわる倫理をテーマとした作品であると、おおよその察しはついたものの、それが8月4日に控える「微花」×「つち式」の鼎談とどのように関わってくるのか、いまいち想像がつかなかった。

「夏物語」を買う少し前、やはり4日に向けて「つち式」を読み直しはじめて、はたと気付く。その創刊宣言にはこう書いてある。

「この雑誌の出発点は、この世に生まれたことの不可解さだといってもいい。どういうわけかわたしは生まれ、気づけば生きている。この不可解。(中略) 生まれたことは甚だ不可解であるけれども、ともかく、今わたしは存在している。この事実を引き受けてやる。そして、このまたとない生を十全に生き尽くしてやる。わたしは、《より生きる》ために本誌を創刊する。」(つち式二〇一七)

読み手によって、「つち式」の魅力は様々あるだろうし、創刊からの一年間、思いがけず様々な立場から、様々に語られてきた。けれど、誰もここに言及している人がいない。そして僕はここにこそ強く惹きつけられてきた。自分が存在している、という乾いた、ありふれた事実にさえ、僕はどこかで気後れをしているから。それでもどうにか生が続いてきた。二十六年、今も続いている。
そうして、この話の続きに、反出生主義があってもおかしくないだろう。甚だ不可解ではあったものの、それでも自分はこの生を引き受けた。あるいは気後れしながらも、どうにかこうにか生きてきた。そのようにして生まれ、生きてきた自分が、果たして生むのか、と。

ここであらためて、今鼎談のタイトル
「開かれてある世界に生きなおす」の意味を考えてみると、それは自分の存在に驚嘆すること、ただ生きて在るということへの驚きをもって、はじめて人は世界に開かれていくのかもしれない、と思い当たる。あるいは開かれてゆく際の最初の感情が、存在への驚嘆なのかもしれない。驚嘆して、それは甚だ不可解ではあるけれども、それでも引き受けるということの先に、生きるというには足らず、生きなおすという言葉が出てくるのではないか。

生きなおした先で、さらに生むのか?
生まれた僕らが、つぎは生むのか?

つまり「微花」と「つち式」の成り立ちに共通してある存在への驚嘆、不思議、不可解という感情は、「果たして生むのか?」という問いへと繋がってくる。そこへ奇しくも、「微花」は絵本となり、それはイコール児童書というわけではなかったけれど、雑誌から絵本へと至ったのには、なおも子どもの存在が大きかった。子どもというからには、その存在には遠からず誕生があったということだ。( いま思い出したことに、絵本制作の座右にあったのは大江健三郎の「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる」という小説の一節だった。)

以上、とりとめもなく、夏物語にまつわる東の「なんか気になる。」に誘われて、微花とつち式とをくらべながら、来たる鼎談のアウトラインはここら辺ではないかと書いてみた。(果たして当日、どのような話になるのかと聞かれれば、それはまったくわからない。)
暦が大暑となるや否や、いきなり本格の夏である。どうもおかしいと嘆きつつ、それでもここに、ようやく懐かしい、陽差しの眩しい夏が来た。夏物語を読むにはうってつけの夏。鼎談の夏だ。

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