街探シリーズ<16>野川上流を歩く

私はかれこれ40年以上武蔵野市に住んでいる。ご存じのように武蔵野市に川はなく、流れといえば玉川上水のみ。隣の三鷹市には野川や仙川が流れているのと比較すると、何となく潤いにかけるイメージがある。三鷹の大沢まで足を伸ばすと、野川公園が整備され、広い河原を持つ野川が流れている。武蔵野市民にとって野川は玉川上水ほど身近な存在ではないど、気になる存在ではあった。まして、その源流が日立製作所中央研究所の中の湧水だと聞くと、下水の処理水を流している玉川上水よりはロマンがある。そこで、小金井、三鷹あたりの流れは知っているが、源流に近い国分寺の流れはどのようになっているのか見てみることにした。
まずびっくりしたのは、国分寺駅からほど近い日立の研究所の広さだ。源流の湧水は春と秋の年2回しか開放されないが、外からうかがうだけでも、同研究所の広大さはわかる。研究所用地に用意された敷地に研究所建屋があるようなイメージを持っていたのだが、予想に反して歴史を刻む武蔵野の森の一角に日立の研究所は建っている。その中に国分寺崖線のはけから湧き出した水が池を形成し、あふれた水が野川となって世田谷区の玉川2丁目まで流れ、そこで多摩川に合流する。その距離は約20kmだ。
日立の研究所の池で湧き出した水は、一度地下のパイプに入りやがて細いコンクリートの流れとなって国分寺の恋ヶ窪から東元町へと流れていく。しかし、国分寺市内を流れる野川はコンクリートの細流や、梯子状開渠で風情には乏しい。いいかえれば、コンクリート製の溝川が流れているだけで、広い河原が緑に覆われている中流部の野川とはイメージが違っている。

水質汚染からの脱却

ただし、現在の野川はコンクリートの溝川がしばらく続くが、ほかの河川と決定的に違うところがある。それは見てくれは、あまりかっこいいとは言えないが、流れている水そのものは湧き水であり、まさに「清水」であることだ。しかし、その清流がかつて生活排水で汚染されたことがある。高度成長期に国分寺市も住宅開発が進み、下水の普及が追い付かなかったため、野川にもその汚染水が流入、ほかの河川と同様ドブ川と化したことがある。その時、立ち上がったのが野川同志会の皆さんで清掃活動から始まり、下水工事の訴えかけなどを行い、現在のような清流が復活、「お鷹の道」の細流には、都下では珍しく日常の生活圏にホタルが飛び交っている。また、野川同志会では、野川流域の歴史や過去の暮らしを掘り起こし、それを掲示板に掲出、お知らせ主体の他の地域の掲示板とは一線を画している。
つまり、野川は国分寺の領域では側道さえないコンクリート製の細い流れになったからこそ、流域の人にとっては野川を愛する気持ちは人一倍強い。「野川」「元町用水」「お鷹の道」「国分寺」「殿ヶ谷庭園」など、水にまつわる一連の文化遺産は国分寺の市民にとって何物にも代えがたい宝物なのだ。

小金井市の流域に入ると風景は一変する

やがて野川は小金井市に入る。その境となっているのが鞍尾根橋だが、ここから風景は一変する。この橋から眺めると左手は国分寺市で、コンクリート製の細流だが、右手の小金井市側に目を転じると、野川の流れの両側に河原が広がり春から秋にかけては「緑の草原」になる。また、国分寺市流域は東京都北部建設事務所の管轄だったものが、小金井市流域ではその南部建設事務所の管轄になっている。
そして野川の源流は、前述の日立の研究所の湧水だけではなく、国分寺崖線の多くのはけの湧水が集まって「野川」になっているということを初めて知った。そうした湧水の一つが、鞍尾根橋から少し歩いたところにある貫井神社の湧き水だ。ここはかつては貫井弁財天として尊崇を集めた神社だが、背後の山からは豊かな湧き水があふれ、野川へと注いでいる。今も同神社からは用水路に湧き水が流れているが、かつてその水量は今の比ではなかったようだ。
さらに、もう少し野川を下ると小高い丘陵が見えてくる。ここにあるのが小金井市が管理する「滄浪泉園」だ.犬養木堂が名付けたといわれる同園は、もともとは銀行家、政治家などで活躍した波多野承五郎の別荘だった。波多野氏は武蔵野の特徴的な地形である「はけ」とその湧水を巧みに取り入れてた庭園とした。はけとは国分寺崖線の砂礫層から地下水が湧き出る層のことで、かつて1万坪強あった「滄浪泉園」からも、大量の湧水が野川に流れ込んでいた。野川からは少し外れることになるが、かつての武蔵野原風景を見ることができるという点で、「滄浪泉園」に立ち寄る価値は十分ある。入園料100円は安い。

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