街探シリーズ〈9〉宿鳳山高円寺から桃園川緑道を経て馬橋稲荷神社

江戸時代は、中野から荻窪にかけては郊外で主たる産業は農業という田園地帯だった。阿佐ヶ谷から中野にかけては、天沼を水源とするの水があり、水田耕作地帯でもあった。また、この辺りは徳川将軍家にとっては、鷹狩の好適地でもあった。事実、徳川家光は何度も鷹狩に来て、宿鳳山高円寺でお茶を喫していた。また、もともとは違う名前だった同地を、高円寺改名させたのも家光だった。
今回、同寺を訪れたのは、東日本大震災の翌日の2011年3月12日以来だから、実に13年弱ぶりになる。前回はあの津波の映像がショックで、いてもいたたまれず、神詣で、仏詣でに飛び出した経緯があった。そのせいでもあるが、高円寺がどんな寺だったか記憶にない。少し時期はずれているが、再訪してみて、周囲を椿の垣根が巡り、椿寺ともいえる、たたずまいだった。
今回は年末でまだ晩秋の気配が残っており、本堂前の大銀杏はまだ散らずに、華やかな装いのままだった。また、もう一つの再訪の目的は、高円寺稲荷神社の石の鳥居の登り龍、下り龍を見ることだった。
この宿鳳山高円寺と道路を挟んですぐの地点に、中野から阿佐ヶ谷まで続く「桃園川緑道」が整備されている。これは、桃園川を昭和40年までに完全に暗渠化、今は下水として利用されており、上部は前述の桃園川緑道として、いこいの場となっている。
しかし、再び水を放水し、かつての面影を取り戻している、玉川上水の現状を知る身とっては、桃園川緑道は緑営は薄く、いかにも管理されたグリーンベルトという印象だ。もっと言えば、グリーンベルトになっていないので,安っぽく見えてしまうのだ。

いまも尊崇集める馬橋稲荷神社

宿鳳山高円寺地点から桃園川緑道を歩き始め、ルック商店街の旧宝橋を過ぎてしばらくすると、今は地名としては残っていないが、「馬橋自治会」の掲示板がある。そこを左に曲がり少し行くと、地域の人の尊崇を集めている「馬橋稲荷神社」の脇門が出てくる。そこをやり過ごして、表参道へ回るもよし、脇門から入って表参道に向かうのもいいが、やはり一の鳥居、二の鳥居に続く馬橋稲荷神社の壮麗な佇まいを見たい。
そこには、日本三大稲荷といわれる伏見稲荷などとは違う趣がある。この馬橋稲荷神社は、基本には農業神であり、稲荷神社の原型を良くとどめている。また、同神社は白山神社ななどかつての他の村社も集約した、馬橋村という地域共同体に住む人の神様のデパートだ。
ところで、桃園川はもともとは曲がりくねった流れだったが、明治になり直線化された。そのため、馬橋稲荷神社は崖上あり、その下を桃園川が流れていたという残されている。つまり、馬橋稲荷神社は、水とは切っても切れ関係の神社である。龍が雲を呼び、雨降らせることで、稲が良く育つことを、「登り龍、下り龍」に象徴させた、石の二の鳥居を東京市に編入された時、当時の氏子総代が寄進、いまに伝わる。この石の鳥居を彫刻したのが、石工の田中酉蔵で、前記の高円寺の稲荷神社の鳥居も同じ石工の作だ。
登り龍、下り龍の同じモチーフ石の鳥居は、この2カ所と品川神社と3カ所確認されている。絵柄も勇壮で、見るだけで思わず気持ちが昂る。そういうこともあり,最近は馬橋稲荷神社の龍の二の鳥居は、「パワースポット」として人気急上昇中だ。たとえ、パワースポットに興味はなくとも、格のある稲荷神社の佇まいを見るだけでも、足を運ぶ価値がある。

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