街たんシリーズ<12>西国分寺駅を起点に豊かな自然の中の史跡をめぐる

地名の由来となった武蔵国分寺が最寄りのJR西国分寺駅ができたのは、意外に新しくて昭和48年(1973)のこと。今では環状鉄道の武蔵野線の乗換駅として存在感が増している。その西国分寺駅北口を出てしばらく行くと「史跡通り」になる。この通りは、西国分寺駅ができたのをきっかけに、地元の人が自ら名乗り、自動車の乗入れ制限を実施して「伝鎌倉街道」や「武蔵国分寺跡」につながる先ぶれの通りとして、半世紀後の現在は風情のある佇まいを呈している。
この史跡通りから600メートルほど行くと、中央線沿いに「伝鎌倉街道」になる。なぜこんな呼び名になっているかといえば、鎌倉時代には鎌倉街道という言い方はなく、「上の道」「中の道」「下の道」と言い慣わされていたからだ。この鎌倉時代の風情を残す「伝鎌倉街道」は「上の道」で、鎌倉を起点にすると町田、府中、国分寺、小平から現在の群馬、長野にまで達していた。「いざ鎌倉」となれば、御家人は重い武具を担いではせ参じたわけだ。
この「伝鎌倉街道」は、今は舗装こそされているが国分寺崖線を切り開いて道を付けたことがよくわかる。しかし、ユンボ一つなく、それどころか鉄製の建設工具さえ乏しい中で、前述の長大な街道を作りあげたのは大変な労力。わずか120メートルとは言え、鎌倉時代が見える道路が、幹線鉄道の中央線と並行しながら残ったのは奇跡といえる。
そして、小平在住の御家人が、鎌倉にはせ参じる場合、いま歩いた「伝鎌倉街道」の切り通しを抜けると、奈良時代に創建された武蔵国分寺、同国分尼寺の壮麗な建物群が飛び込んでくる。これは農村で暮らしていたであろう御家人にとっては、驚きだったろう。しかし、武蔵国分寺、同国分尼寺は、鎌倉末期に、新田義貞と北条泰が戦った時に炎上してしまった。
いまは発掘調査によって発見された礎石や柱によってかつての佇まいを想像するしかないが、おそらく鎌倉時代まで時代が下れば、京都政権の力も衰え奈良時代に創建された当時の華やぎはなくなっていたであろう。

武蔵国分寺は武蔵台緑地に抱かれるように建っていた

ところで、武蔵国分寺、国分尼寺の立地は、国分寺崖線(ハケ)のふもとの平地にあった。この辺りはすぐ近く、縄文遺跡があったことからもわかるように、非常に住みやすい土地だった。国分寺崖線からは、いたるところから涌水が噴出し、生活用水に困らない上に、燃料は武蔵台緑地に生えている大木を切り出せば十分賄えた。
恐らく全国に国分寺の建立を計画した奈良人も、先人が生活の場としてきた場所を事前に調査し、条件のいい土地に国分寺を建て、国府を置いていったのだ。よく言われるのは、大和から赴任した人たちは、大和三山のような里山がある場所を選んで、国分寺を開発していったといわれる。しかし、そうした情緒的な理由だけではなく、生活の基盤が整っているという現実的な要因も大きかったはずだ。
そんなことを考えながら、国分寺跡の背後に佇む武蔵台緑地に上ってみた。この緑地は府中市の管理になっており、散歩できるように道がしっかりついている。ただし「山道なので、ランニングは危険なので散歩にしましょう」と注意書きがあるのは微笑ましい。
しばらく山道を歩いていると、不思議なサークルがいくつもあるのに気が付いた。木の枝を組んで周囲に土台を作り、真ん中に葉っぱや、抜いた草をうず高く積んである。ひょっとしたらこれは、この間テレビでやっていた肥料づくりのサークルではないかと思いついたとき、新しいサークルを作っているグループに出会った。
話しを聞いてみると、やはりテレビで見た「バイオネスト」だった。武蔵台緑地の場合は、府中市都市整備部公園緑地課が、昨年あたりから、剪定した枝葉を焼却炉で燃焼処理するのではなく、バイオネストで肥料にし、武蔵台緑地に戻すことで、サステナブルな循環を目指しているのだ。剪定した枝葉をトラックで運び出し、燃やしてしまうより、バイオネストで肥料に戻した方がコストも安くつくし、生物多様性の観点からも効果が大きい。バイオネストで枝葉を微生物分解させると、昆虫は確実に増えるし、やせてしまった土も豊かさが戻る。
こうしたことを教えてくれたのは、府中市から委託された造園会社の女性のディレクターだった。かつて国分寺の僧侶たちの暮らしを守ってくれた武蔵台緑地に、今度は現代人がバイオネストを作り循環を目指しているのは、いかにも現代的だ。

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