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相手を尊重するということ

小4の娘が、コーヒーを淹れてくれた。
いつも見てるから、どうやるか知ってるよ、って言いながら。
ああ 私のことを見てくれてるんだ。
私もあなたのこと見てるつもりだったけど、私以上に、あなたの方が私を見てくれてたんだね、って知った。

お互いのことを見ていること、一緒に何かをすること、話しながらにこにこしていることが、何気ない日常の中の幸福感を運んでくれるのだと知った。

思えば、これまで、対人関係の中で、満たされた思いや安堵感を味わった時は、相手が自分の思いやあり方を受け止めてくれていると感じたときだった。
逆に言えば、自分のことを手段として扱ってくるような相手と接しているとき、自分の心が物として扱われるような、そして、時に叩きのめされたり、削り取られていくような感覚にとらわれたものだった。心の一部が足で踏みにじられるような痛みを覚えている。

世の中にはいろんな人がいるので、そういう人もいるんだと思う。

さて、娘とのことで出てきた幸福感、には思わぬ効用があった。すぐ上で書いたような、人の心を手段にしてしまう人との関係は、少なからず自分の心にダメージを与えるものになるのだが、娘との幸福感を味わえるようになればなるほど、そのダメージがダメージではなくなっていくことに気づいたのだ。つまり、人の心にダメージを与える人がどの程度の意思をもって、他者を傷つけているのかは知らないが、仮にそんな意思があったとしても、私の心の前では、無効化してしまうのである。

日常ののんきな幸せが、打算的な思いのネガティブさを霧散させてしまったということ。

私が感じた日常ののんきさや、幸せは、大げさにいうと、無条件で生まれたものではない。娘と関係を構築してきた時間。その時間を過ごすために私がこつこつと重ねてきた日々の営み。あるいは、その営みを支えるものとして、他の家族との関わり。そういったものがあっての、のんきなひとときなのである。

一方、打算的な思いの方は、そういうコツコツと積み重ねられたものから、いいとこどりをしてやろうとする、狡さだったりする。

だから、いつもそうとはいかないけれど、周囲の人を尊重しながら、日々の営みをこつこつと続けていくことは、いいとこどりをしてやろうとする狡さに対する強さとなりうるのだろう、と信じたいな、と思うのである。

相手を尊重することを忘れ、平気で奪おうとするような振る舞いを恥ずかしく思わなくなってしまった人。
どんなに優れた能力をもっていようとも、その能力を、人を助けるためではなく、人を打ちのめしたり、自分が得をするためにしか使えなくなってしまうとしたら、そこに どんな希望が残っているというのだろう。


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