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多面的な自分を生きよう

自分が少し前まで書いていたnoteを読み返していて、
なんて「悲しみ」をいっぱい抱えていた、自分の日々なのだ、と思ってしまうと同時に、
いろいろ言いたいことを抱えて 人は生きているんだわとも思った。

以前は、直接 思っていることを話し合える人もいた気がするけど、今の社会の状況のせいか、あるいは年齢を重ねてきたせいか、実際に近くにいる人とは話し合えないなと思うようになってしまっている。
また、自分には 世間で言うところの「スピリチュアル」の視点が核にあったりもするので(それが全てではない)、そういうものをはなから信じていない人たちに おいそれと 見せてしまうわけにはいかないというのもある。

さて、少し話が変わるが、この2年間で、県外に行ったのは、仕事のために行くように指示された出張によるもの、その一度だけ。プライベートでは、自分のための買い物も数えるぐらいしか行かなかった。家で過ごすことがほとんどになってしまった。

世界中が、そうなったからだ。

なんだ、案外、外出しなくても平気だ、家の時間がいいじゃないか、と思っていた。
大丈夫だって、思った。
急に、大事な予定が全てキャンセルになった時は、さすがに涙が滲んだけど。
人がたくさんいた空間が、静まり返っているのを目にするのも、寂しかったけど、大丈夫、なんとかやっていけてるって、言い聞かせていた。

そうしているうちに、親しい人が 心折れて、お休みするということが続いて起きた。
かつて楽しくおしゃべりしていた人が、固い表情で、低い声でしか返事をしてくれなくなった。それでも、なんとかやってきた。そう思っていた。

でも、久しぶりにお店で買い物をした時、オンラインではない研修を受けた時、
やっぱり やめちゃいけないことがあると 改めて思った。
オンラインが全てダメなわけじゃない。使った方がいいケースは本当に多い。
でも、直接触れること、その場に身を置くことで、得られるエネルギーというものがあるのだ。

多様な生き方が可能だって?本当にそうだろうか?

もともと、私の頭や心の中は、いつも「本当にそれでいいの?」がいっぱいだった。
もっと違うやり方がある、今のやり方が正解だとは限らない。

この2年間、そういう思いさえも押し殺していた。
でも、生きるもののエネルギーとは、動いてこそのものだ。止まったり、凝り固まってしまったら、それは、生を全うしているとは言えない状況を意味する。
そういうことへの悲しみが、これまでの私の言葉には満ちていたかもしれない。
今もたぶん悲しみは、常にあると思うけれど。
ただ、いろんな光で、ある1日を照らしてみてもいいかな、と やっと思い始めたところ。

楽しさを もっと大事にしてもいいはず。

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