見出し画像

外国人の子どもに『わらぐつの中の神様』は理解できない⁈

 小学校5年生が使う光村図書の国語の教科書に、『わらぐつの中の神様』という物語文が載っている。
 あらすじは次のとおりだ。

 雪国に住む小学生のマサエにとって、わらぐつは古くさくて不恰好な物で、その中に「神様」がいるという話も迷信だと思っていた。
 しかし、おばあちゃんが若かったころの話を聞いているうちに、物事は見かけで決まるのではなく、使う人の身になって作った物や心のこもった物の中には「神様」がいるのだと思えるようになった。

 作者の杉みき子さんは、昭和5年(1930年)に新潟県上越市で生まれた児童文学作家である。

 この作品は、昭和30年ごろの新潟県が舞台だと言われている。ただし、物語の中心となっているのは、マサエのおばあちゃんが自らの娘時代を回想する場面である。こちらは明治の終わりから大正あたりの話ということになるのだろう。


 私は小学校の担任時代、外国から転入してきた子どもを受け持つことが多かった。その子たちにとって、この『わらぐつの中の神様』の学習は大きな「鬼門」だったという印象がある。

 まずは物語の冒頭で、雪で濡れたゴム長靴を乾かす方法として、長靴の中に新聞紙を丸めて詰め込み、湿気を吸い取らせるという「技」が紹介される。けれども、こうした描写について実感をもって理解することは難しいだろう。他にも、時代背景や雪国に関する一定の知識がないと、読み取ることが困難な内容が続くのだ。

 しかし、最大の難関は「使う人の身になって作った物や心のこもった物の中には『神様』がいる」、つまり「神様が宿る」という主題に関わる部分なのだ。

 日本には「八百万(やおろず)の神」と呼ばれるれるように、太陽や月、風の雷のほか、あらゆる現象、さらには学問や商売など、世のなかに存在するすべてのものに神が宿っているという考え方がある。

 これは外国人だけでなく、日本人の子どもたちにとっても理解しづらいことなのかもしれない。けれども日本人の子どもの場合には、幼いころから日本の昔話を読んでいたり、初詣や七五三のお祝いで神社に行ったり、祖父母から「物を粗末にすると罰が当たるよ」などと諭されたりするなかで、なんとなくこの「宿る」という感覚を理解しているのではないだろうか。

 だが、それを外国人の子どもたちに求めることは酷だろう。来日してから数年が経過し、生活面だけでなく学習面でも日本語に不自由することがなくなっているとしても、やっぱりこの『わらぐつの中の神様』の主題を理解することは難しいのである。

 ・・・そういえば、『わらぐつの中の神様』の単元が終わった後に市販のテストを行ったところ、裏面に、
「このお話で心に残った場面を絵にかいてみましょう」
 という課題が載っていたことがあった。その際、ある外国人の子はこんなかんじの絵をかいていた。


 ・・・ところで、先ほどは
「日本人の子どもの場合には、(中略)『宿る』という感覚を理解しているのではないかと思う」
 と書いた。

 しかし、よく考えるとこれはかなり「あやしい」ような気もする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?