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カワセミは巨大な鳥⁈

 1年ほど前から、「『ごんぎつね』が読めない小学生」のことが話題になっている。子どもたちの「国語力」、特に「読解力」が危機的な状況にあるというのだ。

 きっかけは、2022年7月に出版された石井光太著『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)の中でそのことが取り上げられたからだ。
 2023年10月27日付の週刊大阪日日新聞でも、石井氏の著作から引用をしながら、そのことが紹介されている。

 ・・・『ごんぎつね』は、昭和初期に童話作家として活躍し、29歳の若さで亡くなった新見南吉の作品である。

 いたずら好きの子狐・ごんと村人・兵十との「心のすれちがい」を描いたこの作品は、1980年から小学4年生の国語の教科書すべてに掲載されており、子どもたちの誰もが触れる物語だ。

 しかし、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』の著者である石井氏は、東京都内の小学4年生の授業を見て、子どもたちによる「ごんぎつね」の読解に衝撃を受けている。

 母親の葬儀の準備で「大きな鍋で何かがぐずぐず煮えていた」というくだりがある。これはもちろん、葬儀の参列者に兵十が食べ物をふるまう準備をしている描写と読み取れる。
 ところが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と尋ねると、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「昔は墓がなかったので、死んだ人を燃やす代わりにお湯で煮て骨にしている」などと複数名の子が真面目に答えていたという。

2023年10月27日付「週刊大阪日日新聞」より

 たしかに、衝撃的な話ではある。
 だが、このエピソードを読むかぎり、子どもたちに欠けていたのは「読解力」そのものではく、その基盤となる「生活経験」なのではないかと思えるのだ。

 たとえば、新見南吉が生きていた時代には、大家族の食事を賄うために大きな鍋で調理をすることが一般的だったのかもしれない。しかし、核家族が進んだ現代の家庭で、そうした大鍋を見ることは稀だろう。

 また、都市部の葬儀の場合には葬祭場で執り行われることが多く、自宅で営まれることは珍しくなっている。遺族が参列者に料理をふるまうという場面を目にする機会もないのだ。

「大きな鍋」「母親の死」という情報をもとにしてこうした読解をしたことは、当該の子どもたちにとって理にかなっていたともいえるのだ。


 ・・・今から30年ほど前に、小学校6年生のクラスを担任していたときのことだ。

 卒業を目前にした時期に、ある子どもの次のような言葉に驚かされたことを覚えている。

「この前、テレビで『カワセミ』を特集していたので見てみたら、すごく小さい鳥だったのでビックリした。もっと鷹みたいに大きな鳥だと思っていた」

 6年生の国語の教科書には宮沢賢治の『やまなし』が載っており、その中には、カワセミが魚を捕食し、主人公のカニたちに恐怖を与えるという描写がある。どうやらその子は、その描写から巨大な鳥をイメージしていたらしい。

 私としては、それなりに教材研究などの準備をして『やまなし』の授業に臨んでいただけに、この言葉には少なからずショックを受けた。

 ・・・だが、今になって考えてみると、それも無理のないことだったと思う。宮沢賢治が暮らしていた土地とその時代には、カワセミが魚を捕らえる光景など日常的なものだったのだろう。しかし、現代の子どもたちにはそうした前提となる生活経験がないのだから。

 最近なら、カワセミが魚を捕食する場面を撮影した動画をインターネット上で簡単に探すことができる。しかし、30年前にはそうした映像を「間接体験」として子どもたちに紹介するという発想もなかったのだ。


 ・・・子どもたちの「読解力」は、たしかに低下しているのかもしれない。

 けれども、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「昔は墓がなかったので、死んだ人を燃やす代わりにお湯で煮て骨にしている」という発言だけをとらえて、
「読解力の不足は、人間として持つべき感性や情緒を理解する力の欠如につながる」
 などと短絡的に結論づけることは慎むべきだろう。

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