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#5 知多木綿について調べてみた!


知多木綿について調べてみた!


前回は日本の綿花産業がどのようになっているか?
を書いていきました!

そのため、
日本の明治期の繊維産業はとても盛んだった印象があったけれど、
なぜ衰退していったのか?
を大まかに把握することができました。

今回は、
地元の近くの、一大産地であった愛知県の知多木綿について書いていこうと思います!

最初は卸すことから始まった。


全国的に綿花栽培が始まった戦国時代には、綿花の栽培が知多地域でもされており、慶長年間(1596年~1615年)には生白木綿が江戸に送られていたことが伝わっています。

生白木綿とは棉の繊維そのままの黄ばんだ色の木綿のことで、この状態では完成品として扱われず、商品価値が低いものとなります。
そのため、白く加工する晒加工をすることで、商品価値を上げる必要がありました。

ここまでじゃないですが、このように色がついているので漂白する必要があります。

当時の知多にはその晒技術がなく、生産された知多木綿のほとんどが伊勢に送られ、名前も「伊勢晒」や「松坂晒」とされ、江戸に送られていきました。

当時、晒技術での売上は藩の貴重な財源の一つとなっており、門外不出の技術として、厳しく統制されていました。

しかし、知多の中嶋七右エ門が伊勢の工場に住み込みで働き、何とか技術を持ち帰ることに成功しました。

そこから、知多で晒加工ができるようになると、「知多晒」として全国に知られるようになりました。

繊維の街として全国から


明治に入ってからも、知多は繊維の街として有名でした。

最初は農家の副業として木綿が作られていましたが、人気になるにつれて工場化が進み、最盛期には遠く九州からも出稼ぎで人が来るようになりました。

さらに、自動織機をいち早く導入し、織物産業の最先端が揃う街になっていきました。

また、国内でも自動織機の開発がされており、トヨタグループの創始者である豊田佐吉もこの頃長く知多に滞在したと言われています。

現在の知多木綿


織物工場の数は少なくなりましたが、現在も知多木綿は生産されており、愛知県の地場産業の一つとして、広く知られる存在となっています。

おわりに


今回は知多の歴史博物館に行ってみたので、それもあってnoteにしてみました。

現在の知多には他にもたくさん魅力があるのですが、今回知多木綿について調べたことで、より一層魅力的な場所になりました!

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