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美しい風景――買い物依存が止まらなくて

       
                
 橋の上や保養所の側の雑木林から見る美しい柴山潟と白山連峰。冬には、シベリアから渡って来て羽を休める白鳥たち。朝日や夕日を受けて輝く湖面の息を飲むような煌めき……。湖水の淡いグレーが茜色に染められて朝日が昇り、やがて時間が経つと刻々とその色を移していく。点描で描いたような煌めく湖面が、その季節や日によってあるときはブルーに変わり、あるときはエメラルド色に輝く……。
 
 夕方になると辺りを茜色の濃淡に染めて夕日が落ち、天上と湖上が結び合うように柴山潟にくっきりと朱色の光の帯が流れてくる。夕日の落ちる向こう側は辺りの湖水が藍の色を濃くして、背景の山々もやがて薄闇にその姿を沈めていく。

 そして源平橋の辺りから白山を背に桜並木に沿ってしばらく歩くと日本海にたどり着く。水平線がずっと見渡せる人影のない藍色の海――。
光と風と湖と海。見慣れた日々の風景の中にあった――。


 私は怜衣。もう三十三歳になった。生まれた故郷は、この柴山潟(しばやまがた)のある加賀市の小さな町。金沢からも普通列車を乗り継いでも二時間くらいで行ける。

 この頃、私は、なかなか治らない悪癖に捕まっていた。何枚ものカードを作り、月末に届く多額の支払いを借金で補填する日々を繰り返していた。多重の債務に追われて、昼と夜の掛け持ちの仕事をする毎日。
 
 買い物をするのは、別に特に買い物が好きなわけでも、ブランド品を買って人に見せびらかしたいわけでもない。地元の短大を卒業して、地元の会社の事務をしていた私は、間違いが許されない経理という仕事のプレッシャーと、口うるさい上司や同僚たちとの人間関係をやりすごせなくなっていた。
 
 
 この会社は短大を卒業してから二つ目の会社だ。上司は部下の書類なら嫌というほどやり直しをさせ、自分のミスは部下のせいにする嫌な奴だった。
 この間も頼まれた書類の日程を間違って言うから、「いえ、今日までとは聞いていませんけど」と反論したら「あんた何を聞いとるがや。だからあんたには仕事を任せられんがや」と返してきた。
 こいつは「あんたならうまくできんやろけど、ま、やらせるだけやらせてみるか」と言うのが口癖だ。
 
 同僚たちの女性特有の優しさの陰にかくれた、自分たちと違う者を嗅ぎ分け排除する意識。職場の女同士というのは自分と全く毛色の違った人間には冷たくて陰湿だ。
 この間の忘年会では驚いた。セクハラをする同僚の隣に席を設けてあるのはなんと私の席だった。
 
 私はねとねと触ってくる奴の側を何とか逃れようとして向こうへ行こうとするのだが、女同士結託して絶対自分が側にならないようにごりごり押して私が抜けるのを阻止しようとするのだ。特に中年のしつこい須曽という女が主犯だろう。あの人にはなんどか煮え湯を飲まされた。
 
 一週間前にも私は指示どおり書類を作っただけなのに、間違いが後でわかると自分はそんな伝え方をしていない、と言う。行きがかり上、私がミスをしたことになって、先方に謝りの電話を掛けさせられた。そのことははっきり上司に言ったのだが、すると須曽さんから後でしっぺ返しをくらった。「業務連絡飛ばし」だ。
 
 うちはお局的な人たちが何人もいる。仕事内容を教えてくれなかったり。私ばかりいつも重い物を持たされたり、帰り、みなで喫茶店に入ると私の席だけはなくて座らせなかったり。みんなに廻しているお菓子を私にだけは廻さなかったり、汲んだお茶を「ぬるい」と言って捨てられたり。
 自分たちはおしゃべりばかりしているのに、私はトイレにも行けない程忙しい。少し手伝ってほしい、と言っても「私は今、これをやっているから」と言って全く聞く耳を持たない。その癖、自分たちの仕事が残ると私に廻してくる。
 
 昨日も帰ろうとしたら、営業部の人が「経費の承認今日中にやっといて」と領収書をお局に持ってきた。そしたら即、お局は「寺井さん、やっといて」と私に廻してきた。「私が?」聞き返すと「営業の人から「経理はいいよね。ノルマもなくて。こっちは昼間、忙しくて申請できないんだよ」と私に嫌味を言われたり、言い出すときりがない。
 昔から群れの中に入るのは苦手だから、よけいそういう羽目になるのだろう。
 

 仕事の帰り道、ウインドーショッピングをしたりするとき、目をつけた服が誰かに買われてしまうのではないかと気になったり、届いたダイレクトメールの店のアクセサリーや服が欲しくなって、仕事が終わると直行したり。
 店員さんに「お客様はスタイルがよくて本当にお似合いですね」とか「この服、私も気に入っていたんです。さすがにお目がたかいですね」などと褒められるとその場かぎりのお世辞とわかっていてもうれしい。 
 
 買った後は決まってなぜ買ったのか分からなくて落ち込む。着ないでつるしてあるだけの服、つるしもせず袋に入れたままの服が次から次と段ボールに溜まっていく。今回だけは止めようと思っても止められない。
 
 働き出して十年以上になるが、給料はこれまでその都度全部買い物に費やして、それどころか借金は四百万を超えていた。それを埋めるため、職場には内緒で夜はクラブで働いた。自分がそんな仕事ができるとは思わなかったのに、お金を稼ぐためには方法を選んではいられない。だけど、そのことが会社の人にばれて噂になってしまった。例によって口うるさいお局たちが騒ぎはじめたので、私は自分から職場を辞めた。
 
 お局の一人は辞める日に「今までいじわるをして悪かったけど、私たちのレクレーションだったのよ」と言ってきた。そういえば、お局の人たちって、古い狭い町で姑と同居したり、そういうフラストレーションがたまっているのか、でも他人にいじわるをする人の神経がわからない。

 父は借金のことを知って激怒したが、四百万の借金は清算してくれた。
それでもネットオークションでスーツが半額になっていると知ると夢中になってパソコンにしがみつき、一気に、五、六着の服を買い集めてしまう。そして手に入ったら、すぐ違う服がほしくなる。結局、オークションで続けて偽ブランド品をつかまされて、五十万円をだまし取られてしまい、ますます深みに陥るだけだった。このままではいけない、このままでは借金がまた増えていく……。 
 
 心の中にいつも何か虚無感があり、お金を使う瞬間だけ高揚感に変わるみたいだった。でも、我に返って死ぬほど後悔の繰り返し……。こんな状態がいつまで続くのか……。
 インターネットをつけると深夜、二時、三時まで消せない。インターネットをやらないときは、テレビの画面をただ見続けて、二時、三時まで……。そうしてないと何か、心の寂しさや不安に潰されそうだった。
 
 私のような症状は病気なのだ、ということをあるとき、テレビで知った。買い物が止められなくなる病気、買い物依存症。もし私がお酒を飲めていたらアルコール依存症になっていたかもしれないし、それ自身楽しむためではなくて、対象に自分自身がコントロールされ、自分がコントロールできなくなるほど執着してしまう習慣。
 日常生活につきまとう寂しさと空しさの感覚からの逃避として繰り返すものと言われている。
 
 振り返ると、私が十代の頃にリストカットをしたり、登校拒否をしたりしたのもそういうことなのかもしれなかった。

 私はとにかく借金清算のため、引き続きクラブで働くことにした。こうした夜の店でも顔なじみができていた。従業員二百名ほどの中堅どころの建設会社の専務だが、店に通ううち、若くもない私の何が気に入ったのか分からないが、私の源氏名、「京子」と言って時々指名してくれるようになった。いずれ会社を引き継ぐ私とは違う世界の御曹司だ。最初の奥さんは亡くなったとかで、私より五つくらい年上らしい。
 
 調べたのか、私の誕生日に真っ赤な薔薇の花束を持ちきれないほど抱えて店にやって来た。
 いつものように機嫌よく「おめでとう。京子ちゃんのその少し寂し気な笑顔がほんと、好きやわ」「さ、今夜は京子ちゃんに乾杯や」そんな陳腐なやり方に、思わず笑ってしまう。ちょっと気障で、楽天的で育ちのいい感じの、少し軽薄な次期二代目。

「京子ちゃん、来週、土曜日時間できたから、良かったら食事にいかんか」
「専務さん。私は週末はいつも家でグダグダしているのが趣味なんです」
「若いんやからくすぶっとってもしょうがないやろ、遊ばな。という僕も、まだよく遊び方は知らんけど、ただ今修行中や」  
「来週は母が昼間いないので家のおさんどんやらなくちゃいけないんです」
「うん、わかったよ。じゃ、都合のいいときにまたね」
「専務さん、誘ってあげてください。土日でもオッケーですよ。この人はまじめすぎるんやから」ママが横から声をかけてくる。
「専務さんはいつもは土曜日もお忙しいんですよね」
「うん、それはそうだよ。うちの会社の営業は土日も関係ないからね」
 
 ただの客とホステスの関係だったけど、朗らかな性格の吾朗とは、それから時々、土日も食事をしたりするようになった。なんとなく憎めなくて、初めて会うようなタイプの人間でおもしろかった。

「こんなにシャンパン入れていただいてすみません。お店で奮発していただくのはうれしいけど」
「大丈夫。京子ちゃんは気にしなくてんだよ。僕たちはそれでもお店に来たくて来てるんだから」
「京子ちゃんはお昼はどこかのOLやってるんだって、ママがこっそり教えてくれたけど」
「あ、いえ、それはもう辞めました」
「あ、そうなの」
「前はどんなことやってたの?」
「事務です。ただの事務」
「じゃあ。計算は得意なんだ」
「いいえ、他にできることがないですから」
「今のこの仕事は向いている?」
「さあ、向いているかどうかはまだよくわかりません」
「そうやね。何事もやってみてやね」
「専務さんは仕事がうまくいかないと思ったときなんかはおありなんですか」
「それはあるよ。誰だって」
「そんなとき、どうなさるんですか」
「まず、落ち着いて善後策を考えることやね。そして問題点を徹底的に洗い出すこと。それから普段からそうならんように守るだけでなく挑戦していくことやね」
「そうなんですか。どうしたらそんなに強くなれるんでしょう」
「まあ、普段から気持ちを切り替える訓練をすることかな。日曜日にゴルフやドライブ行ったり。好きな女の子とデートしたり。あちこち遊び場所があるから、おもしろいことしたり」
「ははは、タフなんですね」
「知っとるか、京子ちゃん。この地球ができてからはもう四十六億年も経つんや。人類が誕生したのは、今から五百万年前やそうや。僕たちが生きている宇宙はなんと百三十七億光年前にできたと言われとる。人生なんて、それに比べたらあっけないもんやね。僕らが生きとった証なんて、百年後にはもう消えとるわ。人生、楽しまな」
「専務さんはいつもタフで人生を楽しんでおられそうですね」と返すと
「人生はゲームや。短い人生やから、考えすぎたら過ぎてしまうよ。人生、うまくいかんときも、うまくいくときもいろいろあるけど、いいときが来たら楽しめばいいし、悪いときもそれなりに楽しんで生きることやね」
 
 親の会社を難なく引き継いで、一見苦労もなく軽薄な二代目をやっていきそうに見えて、こういう世界は内側にも外側にも熾烈な競争があって、自分たちには分からない苦労があるのかもしれない。

 
 そんな相変わらずの日々、私は本屋で立ち読みした本の中で「境界性人格障害」という言葉に出会った。「思春期、または成人期に多く生じる不安定な自己、他者のイメージ、感情、思考の制御の障害、衝動的な自己破壊行為を繰り返すパーソナリティーの障害である」と記されていた。
 自分と重なるところがあり、自分さえよく分からなかったこれまでの自分を言い当てている気がして、何か「境界性人格障害」という言葉に感心さえした。
 
 更に書かれているのは、「見捨てられる不安が強い、自分らしさがつかめない、自己像がよい自分と悪い自分の二つに分裂する、などの偏った自己愛の表れや、他者を過大に評価していたかと思うと、急にこき下ろしたり、排他的な二者関係にしがみつこうとしたり」といった内容だった。
 
 難しい言葉の羅列だが、それらは青春の一時期にありがちな一過性のものとも捉えられる気もした。PTSD(心的外傷後ストレス障害)を伴うことがあると書かれている。自分自身のことは、わかりそうでわからないが、私の中にある、不安定さ、生きていることの心細さ、人の中にいても身の置き場所がないような思いは、病名があるような、特別なものなのだろうか。
 ただ、一方で誰の心にも存在しうる気もする。それを言葉に当てはめたような気もする。

 
 そして、自分がその心のルーツをあえてたどっていくならばそれは自分の中の、子どもの頃の思いとぶつかる気がする。
 子どもの頃を振り返ると、家の中は母と父は仲が悪く、もの心ついた頃から子どもの前でも繕いようがない程だった――。家の中の冷たい空気と、語気を荒げた父母の言い争いの中で、体を小さくしていた。小さい頃から両親がいつ別れるか分からない不安を抱いて二人の顔色を見ながら育った。

「お母さんの結婚はね、失敗やったわ」「別れられるものならどんなにいいやろ。あんたがいるからできないんや。あんたがおるから。あんたがおらんかったら、とっくにそうしたわ」母が時々私に言った嫌な言葉だ。 
 
 私は小さい頃、おむつがなかなか取れなかったようだ。母は他の子と比べて私がおむつが取れないのを苦にしていたらしい。度々、怒られた。
「どうしてあんただけ取れんがやね、恥ずかしい。保育園の子はみんなとれたいうがに」私が泣いて謝っても繰り返し怒った。「他の子はみんな取れたがに。恥ずかしい」
 
 ある日、保育園のカラーボックスに濡れたパンツを突っ込んで隠そうとしたら、家へ帰ってから母に何度もおしりをぶたれた。「なんちゅうみっともないことをするが。あんたは。後で臭くなるがわからんがか」
 おねしょなどをしたときには、わざと外から見えやすいところに布団を干したりして「みんなによく見てもらうからね」と睨んだ。
 
 八歳の頃だったか、私が出来上がった味噌汁をキッチンからテーブルの上に運ぼうとして、鍋ごと床に落として足に火傷をしてしまったとき。
 母は、私にいきなり怒鳴った。「やめてよ。やっかいばかりかけんといてよ。私はあんたの世話をするために生きとるんやないんやから」
 
 私には意味がわからなかったが、母がなんとなく私をうとんじているのはわかった。しかし、それはきっと私が悪い子だからだ、父と母の仲が悪いのもきっと私のせいに違いない、と思った。お母さんがいつも機嫌が悪いということはそれしか理由がないように感じて私は母の機嫌が良いように、母に無理を言わないようになっていった。
 私は瞬時で母の気に入ることを察知した。
 
 十歳のとき、誕生日のお祝いに友だちを招いてあったとき。
 母はそれを忘れてしまっていた。せっかく友だちが来てくれたのに、ご馳走も作ってなくて、その日の準備が何も出来ていなかったのだ。
「誕生日のお祝いをしよう。ごちそうも作るから、友だちも呼んでいいよ」と母が言ったから、そうしたのに。がっかりしたし、恥ずかしくて、だから、友だちの誕生日に私は招かれても行くことができなかった。
 それからは、誕生日のお祝いが気になって、友だちとは深い付き合いをしないようになった。
 
 私は自分の感情を子どもらしく表現することが少なかったように思う。自分自身でいると、なんだか母親から見捨てられてしまうような気がして。両親といながら父の存在は薄くて、私の生活は母が全てだったから、あの人から嫌われると生きていけないという思いがあったのかもしれない。

 そして中学一年のとき、母が事故で亡くなった。それは、周囲の世界が壊れて失くなってしまうような衝撃だった。そしてその原因は、たぶん私にある……。長い間、私はその思いに囚われてきた。
 
 母が父と別れることになったあの日、私は母と一緒に行くはずだった。だが、私はあの日、母と一緒には行かなかった。本当は母と一緒に行こうと思った。だがあの日、私はそうしなかった。「もう、この家には来ないから」と言った母の言葉に父親の顔が寂しく見えたからかもしれない。
 私は母についていく選択を、自分自身で選ぶことをためらって、その場に留まってしまったのだ。母に聞かれたとき、「お父さんは優しいから」と答えてしまった。
 
 そしてその日の母の事故。実家へ戻る途中の、トラックと接触事故だった。さっきまで目の前で話していた人が、数時間後に、動かぬ姿になって帰ってくることなど誰が思ってみるだろうか。
 現実というのは時々、最もあり得ない形で真実を突きつける。事故は正面からの衝突で、母は即死に近い状況だったという。
「ごめんなさい、おかあさん」
 
 声を掛けると母の顔はまるで生きて答えそうな気がしたが、やはり、今まで見たことのない母の表情だった。体に損傷はあったが顔は傷一つなく、きれいなままだった。けれど組まれた指先は既に硬くこわばり、足先の体温がなく、身体は生命を宿していないことを告げていた。母のなにもかもが既にもう永久に失われてしまったことを知らされた。

 近所の人たちも線香をあげに来た。「まるで生きておいでるみたいや」「こんなきれいな仏さん、見たことない」全てを遠くにも近くにも感じた。枕勤めの夜、父は泣いていた。――自分が母を殺したのかもしれない――。

 葬儀場の祭壇にもこぼれる程たわわに生けられた白い大輪の百合の花。会場一杯にむせ返るような強く麗しい香り。そのときまで百合の花を嫌いだと思ったことはなかったのに、あのときのむせるような花の甘い香りの強さ、悲しさを、一生、忘れることはないだろう。

 
 そのときからかそれ以前からか、気がつけば私の中にはどうしようもない空しさが根を下ろし始めたようだった。あのとき、私が母と一緒に行けば、行く、と言えばどうなっていただろう。せめて、もうしばらく父親の側にいたい、と言って言い訳をすればもしかしたら母は事故をおこして死ぬことはなかったかもしれない。何千回、何万回、問い直した堂々巡りを、気がつけばまた、繰り返していた。
 
 私が生まれてきたのは何のためなのだろう。私が生まれてきて母が迷惑に思い、そしてしまいに母を死に追いやってしまったのなら、私が生まれてきた価値もあるのかしら。自分の存在なんて愛されていない、世の中でひとりぽっちだなあ。
 何か、私の言葉で、母にしたように、誰かをまたどうしようもなく傷つけてしまうのではないかという不安とか……。楽しい未来が考えられなかった。
 
 学校をさぼったり、リストカットをしたり、試験をすっぽかしたり。一人は寂しいが、かといって学校の集団には合わせられない。友だちは遠い別の世界の人間に見え、おしゃべりもついていけなかった。
 
 
 三年程経って、父は再婚した。もしかして私が生き生きした、子どもらしいところがないので、私をかわいがってくれる母親が必要だと思ったのか、水沢の家にやってきた人は妙子さん、優しい、善良な人だった。
 
 すぐに弟、友樹が生まれたが、妙子さんは私のことも差別せずかわいがってくれた。私に編み物を教えてくれたり、料理を教えてくれたり。学校のことも私が困らないようによく世話を焼いてくれた。人の善意を信じて生きている人。言葉と行為にすきまが無い人だ。私のように言葉が行き先を失って、行為と分裂してしまう人間ではなく。
 
 でも私は相変わらず高校へ行ったり行かなかったり、ときどきリストカットをしたり。毎日、空しかった。それから私がつけたリストカットの生々しい傷痕は妙子さんに見つけられてしまった…。そのときの妙子さんの目。まるで私を別の人種でも見るように、怖い物でも見るように。この人と私は別の人間だ、と感じた。
 私はだんだん他の人間が自分に近づくのも嫌になってきた……。

 
 最近、私はクレジットカードの借金がまた増え出すのを感じて、今度こそはもう繰り返さない、甘えないよう、自分の生活も一新することを決心した。誰かに後始末をしてもらったり、頼ったりできないように、親元を離れて自分一人で生活することにしたのだ。
 
 クレジットカードにはさみを入れ、通帳や判子は父に預けた。たとえ何があっても、自分でしたことには自分で決着をつけるしかない――。
 どこか知らない町に行って暮らしてみよう。一人でやり直してみよう。生活を立て直してみよう。

 
 眼下に広がる内灘の河北潟。
 私は生まれ故郷の片山津からJRで二時間ほど離れた内灘(うちなだ)にやって来た。
 小さな湖とそれを包むようにして外側に広がる内灘の日本海。波と風と光の光景。

 どんよりとした雲の下に風車がやわらかく回っているのが見える。サンセットブリッジの下にはマッチ箱くらいの車がゆっくり行き交い、向こう側にのぞける田園地帯は雪に埋もれている。その傍らに開ける河北潟(かほくがた)は、まるでコンクリートを流し込んだように少しブルーがかったねずみ色の氷が固まっていた。
 そこから左方向に視線を移すと、やがて日本海の海面が広がり、白い波がゆったりと近づいていた。空との境は群青色で、その少し内側は淡いエメラルド色。
 
 湖や海のある景色を見つめていると、自分の心の中に涼やかな風が吹くようで、きらめきが心の中にも映る気がする。この風景は、生まれ育った片山津の柴山潟に似ている。
 ここで新しい生活を始めることに決めていた。いつか友人の見舞いでやって来た病院の傍らに広がっていたこの景色が美しくて、心惹かれたからだ。

 
 私は、河北潟をすぐ見下ろせる場所にある総合病院に中途採用をされて、病院事務として配属された。
 この病院で見かける人たちは、足や腕に包帯をしたり、体の奥深くに病巣があったり、現代の医学でも難病と言われる病気と闘っている人もいる。車椅子で廊下を行く人、肉親に付き添われて通院する人。
 
 でも、そうやって日々命と向き合ってその日その日を生きている人たちの息づかいは、私の心の中に未知の風を吹き込む。命の灯りというものがあるのを感じさせるのだ。

「すみません、ここにスリッパ置いてありませんでしたか」
 初老の夫人が聞いてきた。
「いつ頃ですか?」
「一週間くらい前やけど、そこの椅子の上にでも置いたかもしれんがやけど」
「そうですか。では落とし物でしたら、皆そちらの方にまとめてありますので確かめていただけますか」
「そっちか。ほんなら見てみるか」
 
 会計窓口へ足下(あしもと)が頼りなげな老齢の夫人がやって来る。慣れない手つきで支払いを済ませながら、
「これで間違うとらん? これで全部かいね? 孫たちが心配して、ちゃんとお金払うてこんにゃだめやぞ、いうて言われてきたが。一人でちゃんと払えるかいうて、心配して」
「ええ、大丈夫ですよ。はい、おつりです。お受け取りくださいね。一人で大変でしたね」
 
 見知らぬ人たちと言葉を交わすのは、大変だけどそれなりに楽しい。
 十二階の職員食堂から見える日本海。私はそこで景色を見ながら一人、コーヒーを飲む時間が好きだ。心の中まで瑞々しい風に満たされ、透明に輝く光の粒子が私を包み、胸の奧まで流れて来る気がする。
 眼下に見下ろす手の届かない果てしない海も、よく見るとその日、その日、違った表情をしていた。

 
 私は、この病気を治すためにある自助グループに繋がった。そこは名古屋に会場があり、わざわざ月に一度、片道三時間以上を掛けては出かけていった。
 その自助グループで行う治療というのは先生やカウンセラーがいて症状を治してくれるのではなく、私のような病気の仲間が何人もいて、自分の思っていること、感じたこと、最近あったこと、悩んでいることを、症状も含めてお互いに言い合うものだった。
 
 プログラムは、最初にヒーリング音楽を聴いて心や体を落ち着けてリラックスしてから、みんなでミーティングを行う。お互いに言いっ放し、聞きっ放しが約束事で、何も批評もしないし、解決をすることもない。気持ちよくお互いの話を聞き合うだけだ。ここで聞いた話はどこへも持っていけない。その場で聞いてその場で置いていく。 

 そこで仲間の話を聞き、私の話を聞いた仲間が泣いているのを見て、私は自分が共感されているのを知った。私はミーティングで自分の気持ちを少しずつ出し始め、自分自身について少しずつ話せるようになった。苦しんでいるのは自分だけじゃないと知ったとき、少しずつ癒されていった。

 休みの日は、病院のすぐ側にある内灘の道の駅までサイクリングに出かけ、そこで地場野菜を買ったり、休憩場所でお握りを食べながら、景色を楽しんだりする。独り身の気楽さを堪能しつつ、市営の温泉に浸かったり、近くの牧場で放し飼いにされている牛を見てスケッチ帳を広げたりする。
 
 今日、妙子さんから電話があった。
「怜衣ちゃん、元気か?」抑揚のある柔らかい言い方。
「ちゃんと食べて元気でやっとる?」声を聞くと、なつかしくて泣きそうになる。
「元気にしとるよ」
「不自由ない? 何か送って欲しいもんないか? 送るさけ。たまには帰っておいで。友樹も寂しがっとるわ」
 妙子さんの笑顔まで見えるようだ。
「うん、そのうちに。わざわざ、ありがとう。友樹に、よかったら、こっちにも遊びにおいで、いうて伝えといて下さい」

 でも、たぶん私は帰らない。自分が帰ってもよい人間だと思えるまでは。これからの自分の人生を組み立てる心の準備ができるまでは。人生は旅のようなものだという。私の行き着くところはどこなのだろう。

 その夜、私は夢を見た。
深い、深い森があった。スギやアテやヒメコマツ、雑多な木々がひしめく森。名も知らぬ小さな生き物たちの、未知の命を埋め込む森。わずかの風と光が行き交う森。森の周りには湖があり、湖面は鏡のように森の全景を映している。そしてかすかな波紋を描きながら、底知れず静かに深い濃い湖水をたたえている。
 
 その、湖の近くにはまるで母のように見える女性が立っていた。するとその人は、森に向かって何かを大声で叫んでいるのだ。
 気がつくと、目が覚めていた。この夢は、母が死んだときも見た。あれから、ごくたまに見る夢……。いつも深い森と湖が背景に出て来る。

 
 その週末、吾朗から電話があった。
 吾朗からは今でも月に二度ほど、連絡がある。自分のことを結婚の対象として見ているのだと、この間言っていた。ときどき言っていた「嫁に来いよ。京子ちゃん」はまんざら冗談ではなかったみたいだ。しかし、私の心の底を知ったら、この人は一体どう思うだろう。自助グループに通うようになってからは、買い物の衝動も抑えられているけど……。 

 温かいものを求めているのに心の拠りどころがなくて、何かに逃げそうになってしまう自分。なにか心の中が不安な自分。人の人生を引き受けるなんて考えられない、自分の人生さえ抱えられないのに……。
 結婚なんて、自分自身のバランスがとれない人間がしていいものなのだろうか。それぞれ違うことを感じるはずの人間同士が、どこまで相手に自分を開いて暮らしていくのか。そういう心の距離感というものがよく分からない。 

 私は、人と向き合っておしゃべりすることが苦手だ。人間というわかるようでわからない奧の深い生き物同士が一体どこまで本当の言葉で話したらいいのかと思う。
 私にはどんな人生が合ってるのだろう。
 
 厳しいビジネスの世界で生きている吾朗には、きっと彼の弱さなんかも引き受けて、世間との付き合い方が上手で、賢くてきちんとした、ちゃんとした健康な女性がいいのだ。
 
 自分の中にある生きにくさも依存症も、自分の心の中や、心の底にある子ども時代の私と関係があるとしたら、自分の心やインナーチャイルドを見つめ直すことが、これからの自分に必要なのか。それで、もしもう少し本当の自分に近い自分に近づけるとしたら、もう少し別の自分というものがあるとしたら……。
 
 その思いが強くなり、私は、自助グループの人から、この近くのカウンセラーの先生を教えてもらった。羽咋(はくい)へ行く方向にある高松の病院の先生で、保険も利くということだ。

 
 春も過ぎ、夏も終わり、そして、次の季節が訪れようとしていた。私はまた、サンドイッチを持って道の駅に出かける。
 藍色に縁取られた海は鮮やかなブルーに冴え渡って、白い小さな波頭を作っていた。空が高く淡く透明になり、海も湖も九月の風と戯れながらどこまでも遠くへ煌めきを広げていた。鳶が低く旋回して、風力発電の白い風車が、心地よい風と光を受けて軽々と上空で回転している。
 
 サンドイッチを食べている私を見かけて、バイクから降りた中年の男性が声を掛けて来た。平日に遅い朝食をこんな所で摂っているのが珍しかったのだろう。会社のマークの入ったジャンパーを着込んだその男性は近づいてきて、向こうの山々に目をやりながら「あ、今日はよう見えとるな」と言う。

 私もその方向に視線を向けると、「あれが白山、真ん中のが立山、左側の山の線が目立つのが宝達山」、男性が指差した。

「へえ、三つともはっきり見えるんですね。ここは景色がとてもきれいなので、よく来るんです」
「わしも津幡からよく来るがやけど、今日は野菜をここに納めに来たんや。ほんとにスカッとしたいい天気やね」
「ほんとですね。今日みたい日は、バイクで来られると気持ちいいですよね」
「バイクは好きやけど、ぼけとるから怪我してしもてね。ひざ痛めてしもてね。だからサポーターはいつもしとる」
「今は大分治られましたか?」
「なかなか、治らん。大分いいけど冷やされんがや。どうしても血流悪うなっさかいに。今日は、羽咋のほうも行って来んなん」
「私も羽咋のほうの病院に行くんです」
「羽咋てきれいな名前やね。あそこへ行く途中に看護学校あるけど、ああいうところは頭のいい、きれいな人が多いやろうね。今日はお子さんやご主人は会社に?」
「いいえ。私は未だに子どもや旦那というのは持ったことはありません。たぶん、これからも持たないでしょうけど」
「これやから日本の独身男性が多いわけや。わしの子どもみたいな年やろ。うちの娘も同じようなことを言うとるね。親としてはさっさと嫁ってくれたほうが安心やけどね」
 
 帽子を被っているせいか、私は若く見えるのだろう。
「自分のことはなんとなく分かりますからね。人の人生に責任を持つなんてとても無理やと思うもん、私の場合はね」
「自分の心の中にできた壁はなかなか壊れん。ベルリンの壁とかやったら簡単に壊せれっけど。若いがにもう結婚をあきらめたようなこと言うたらだめや。決めつけんことや。さ、帰るわ。引き留めたいけど、病院行くがならそうもできんし。わしは時々、日曜日、津幡の図書館におるけど、行くことあったら、見かけたら声掛けて。よかったら、また会おう」
 
 帰り支度をしながら男は言った。バイクを唸らせて、秋風のように爽やかな風を遺して走り去った。
 男の言葉は温かいものを遺していって、私もさあ、これから出かけるのだ、と気合いを入れた。カウンセラーの先生に会いに。私はこれから本当の自分に会うために自分の中を旅するのだと思った――。
                              (了)        
   【参考文献】「PTSDとトラウマの全てがわかる本」飛鳥井望監修  講談社
「こころの医学がよくわかる本」井ノ瀬珠実著 小学館 
         「依存症」なだいなだ編集 中央法規
         「買い物しすぎる女たち」キャロリン・ウェッソン著 講談社
         「運はつかめる!」南部恵治著 朝日新聞出版
         「境界例と自己愛の障害」井上果子著 サイエンス社   
「境界性人格障害」インターネット ウィキペディア


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