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母と時代についての覚え書き

 この文章を読まれた方には内輪のことで全く関心のないことかもしれないが、私は母が中年になってできた子なので、母親も九十を過ぎ高齢のため、この辺で親孝行を兼ねて母親の人生を聞き書きで大まかにまとめてみた。知らない古い時代が興味深かったので、載せてみようと思う。

 母の生家は山里の寺で兄弟は女五人、男三人の四女だった。 
兄弟は仲が良く、上の者が下の者の勉強をみたりして面倒をみたそうだ。冬の夜は暖房の代わりに兄弟で足をくっつけ合って寝た。
 冬の娯楽は炬燵の上でカルタ。炬燵は家に一つ。服を買うことはあまりなく、唯一、正月のプレゼントとして一年に一度、親からビロードの足袋とメリヤスのシャツをもらった。
 
 栗の実を母親と一緒に採りに行ったり、その栗を茹でたら、父親は一人一人、皆の茶碗に分けてくれたものだった。松茸を母親と松林へ採りに行き、報恩講には料理人が来て、自分たちが採ってきた松茸を料理してくれた。その頃、すき焼きが一番のごちそうだった。肉は女学校の帰りに買ってくる。ネギは畑で調達した。
 そして母親の味といえば、よく蕎麦の実を臼で挽いて打ってくれた蕎麦だ。その蕎麦の粉に砂糖とお湯を注いで、蕎麦掻きを作っておやつ代わりに食べた。また、鯖の押し寿司もよく作ってくれた懐かしい母の味らしい。
 
 おやつというと,かき餅、夏はさつまいも、くず米があるので餅草にしたりした。時々父親がもらってくるビスケットが楽しみだった。村の人は甘いシンカン菓子が欲しいので、よく蕎麦の実を持って来てくれた。しょっちゅうだったので、もらった蕎麦の実を鳥にやっていたら、村の人が蕎麦の実を持って来てくれたときにまだ子どもだった母は「なんや、とっと(鳥)の餌か」と言ってしまった。祖母は村の人の手前、とても困ったという。この当時、甘い物はシンカン菓子くらいしか無かった。

 お小遣いは年に一度、報恩講の日にもらった。報恩講には寺の境内に屋台がたくさん並んだので、十銭握った子どもたちがやって来た。焼きまんじゅう、飴、綿菓子、めんこ、ジュース、ガチャガチャという機械など。一年に一度の楽しみだった。
 そして貴重な蛋白源として、近所の子どもたちと家の近くの川で「そうけ」というざるに泥鰌を追い込んでは捕まえた。
 
 家族で毎年のようにお重におかずを詰め込んで木津へ桃の花見に行った。知人が小さな桃の実を二輪車につけて持ってきてくれて、とてもおいしかったそうだ。
 祖母は父親に気を遣って、食事のときも父親が箸を持たなければ他の人は箸をつけさせなかった。父親が帰る頃には「おでちゃん、帰っておいでる。早よ始末せにゃ」と子どもたちにかたづけをせき立てた。母は学校へ行く前には必ず玄関を掃いて行くのを習慣にしていた。晩ご飯前には父親の足をトントンと百回、手でたたいた。
 
 それから母の曾祖母である姑さんだが、大変厳しい人で前のお嫁さんは姑さんのめがねに適わず、出されてしまったらしい。なんでもお嫁さんの草履の上に縫い針を載せて、すぐ気が付かなかったら「女としてのたしなみがない」と言ってお嫁さんを叱ったという。その恐るべき姑さんは北海道に渡った次男坊のところに同居したそうで、幸運にも祖母とは一緒に暮らすことはなかったらしい。
 祖母の実家は地主で割に裕福であったのか、嫁いで来るときは寅と梅を描いたおかいどり(打ち掛け)ともう一枚、おかいどりを持って来て、籠に乗って嫁いできたという。戦後は農地改革で、「村一番の地面を持っていたのが村一番の貧乏人になった」らしい。
 
 春になると近所で芹つみをした。その辺りはお茶も作っていたので、よその家に魔法瓶に水を入れてお茶を摘みに行った。各家はみんな農作業で忙しいので「じょろさん、摘んでくっしゃい」と言われ、よその家の畑で一年分のお茶を摘ませてもらった。そのお茶の葉は父親が竈で蒸し、いろりの上にある大きな籠に入れて手で揉んでは乾かした。
 囲炉裏は、食事のときにみんなで周りを囲んだが、当時、小さな子どもを一人囲炉裏の近くに寝かせておいて、よく子どもが転がり落ちて火傷をしたものだという。兄弟が多かったが、「子どもに火傷だけはさせなかったのが自慢や」と祖母がよく話していたものだそうだ。
 その頃は、現金収入がない貧しい時代で、農作業の手がすくと手織り機械で反物を織っている家が多かった。祖母も村の娘さんたちにお針を教えてあげ、夜は夜で夜なべ仕事をしていたし、自分より早く寝て遅く起きる姿を見たことがなかった。

 二キロある小学校には歩いて通った。テント地のショルダーバッグをかけて姉のお古の制服を着て下駄を履いて通った。小学校は一教室五十人。一学年一教室で六年までで全体で三百人ほど。
 先生の言うこととお巡りさんの言うことが一番怖かったそうだ。大きな桜の木の下で先生とよく円形バレーボールをやったものだった。
 お小使いさんが授業の変わり目に鐘を鳴らし、冬の昼どきにはお小使いさんが味噌汁を作って配ってくれた。味噌汁の中身はいつもおからが入っていた。お昼のお弁当は村長さんの娘さんと母だけは、前の日の残りでもおかずが入っているお弁当だった。他の人はいつも日の丸弁当だったそうだ。当時、魚はめったに口に入らず、たまに食べるのはひわしくらいだった。  

 四大節(新年節、紀元節、天長節、明治節の祝祭日)には木綿の紋付きを着て学校へ行った。その日には、日の丸をあげて校長先生は教育勅語を読んだ。
 運動会も十月にあり、母は走ることは好きだったので楽しみにしていた。暁旅行と言って、学校で朝早く高松の海へ遠足も行った。
 三年生のときは、宝達山に登った。そこに神社があって、行事には行ってお参りをした。
 通知表はその頃、親が取りに行かず、本人がもらったらしい。同じクラスがずっと持ち上がりだったが友だち同士、仲が良く、陰口を言ったりけんかはしなかった。餓鬼大将はいたが、餓鬼大将はむしろ弱い者をかばったものだそうだ。 

 小学校も上がらず、八歳になれば子守り奉公に行く者も多かった。母親が病弱で小さい子をおんぶして学校へ行く者もいた。小学校を卒業して紡績工場へ行く子どもは多かったが、行くと結核でよく亡くなった。

 一番上の姉も成績も優秀できれいな人だったが、二十四歳の若さで結核で亡くなった。大分いけなくなった頃、婚家先から実家に戻ってきて泣いたという。祖母が「お前、泣いとるがは、(自分が)死ぬと思て泣いとるがでないがか」と理由を聞くと「病気が辛くて泣いとるがでないがや。おでちゃんやおっかちゃんにこうして心配をかけるかと思うと、それが悲しくて泣けてくるがや」と言ったそうだ。
 亡くなる日、法衣を着た父親に申し訳ないが、足下に来て立ってくれるように頼むとそれを見て「ああ、阿弥陀さんが迎えにこられた」と言って、心安らかに永眠したという。「あの子は兄弟の中でも出来が違ごとった。あの子は極楽へ逝ったと思とる。安心して逝ったと思とるから、あの子が亡くなってもなん、悲しいと思わん」と祖母は姉のことを折りに触れて語っていたそうだ。
 
 小学校を終えると羽咋にある女学校へ通った。当時、女学校は四年間あり、中学校というのは男子校のことだった。女学校の試験を受けに行くとき、姉が一緒に付いて行ってくれた。発表のとき、兄が見に行ってくれて「受かっとったよ」と報告してくれた。
 朝は五時半に、汽車がポーッと音を鳴らしたら家を出発して、四キロある駅まで山道を歩いた。帰りは、遅くなるので祖母が提灯に火をともして途中まで迎えに来てくれた。
 女学校の帰り道、本を読みふけりながら帰って、気が付くと馬にぶつかりそうになったこともあったそうだ。 

 そして女学校を卒業した後は、撚糸工場と機織り工場のある会社に事務員として就職した。朝は七時半から夕方五時くらいまでで、バレーボールの選手だったので試合前一ヶ月になると仕事は三時半くらいで終わってバレーボールの練習に専念した。 
 バレーボールの試合で七尾で勝ち、東京へ進出したことがあったらしいが、行ってみると試合会場らしき施設も何もなく、一面更地のような場所が広がっているばかりで、試合も何もなかった。
 食堂のような所には人が一杯集まって来ていて、そこで生まれて初めて餃子を食べた。
 
 会社へ行くと朝は掃除、冬は朝のうちに股火鉢をした。電話番をしたり、帳簿をつけたり、まだタイプライターも普及しておらず、ガリ版印刷を手書きで書いた。 
 お昼は会社で出たが、当時、食料事情は悪くなるばかりで鰊一本とおつゆだけの時もあった。さつまいもや砂糖が米の代わりのときもあった。
 休みは月に二度、正月は三十一日から二日まで三日間の休み。お盆は二日ほどの休みだった。
 その後、働いて貯めたお金で洋裁学校へ行き、そこでは優秀賞をもらい、洋裁学校の先生になった。
 
 そんなことをしているうち、母も適齢期を過ぎてしまったが、ある日、父が洋裁学校に母を見に来た。寺の長男で最初の奥さんと別れてから三年、次の奥さんをもらっていない人がいるという話は聞いていた。戦時中、若い男性は大半、戦地に赴き、戦後、適齢期の女性は街にあふれていた。
 会うとうどん屋に連れて行かれて兄弟何人おるか、自分の名前を書け、と言われたそうだ。その二日後、結納を兼ねて婚家先の門徒の人が迎えに来た。
 その足で婚家先の近所の寺へ行き、そこの奥さんの打ち掛けを借りて嫁入りをした。その時分は結婚式は夜だった。自分の家で御膳を出したものだった。
 
 しかし、嫁ぎ先の姑である祖母は地元の三大鬼姑に数えられるわがままな人で、最初のお嫁さんはよく陰で泣いていたのだという。

 結婚してすぐに夫である父から「白衣を三日間で縫っておいておくように」と言われた母は、その通りに縫い上げた。が、いつまでも放っておくのでその理由を尋ねると「できるかどうか、試してみたのだ」と父から言われたそうだ。なんでも最初のお嫁さんが縫い物ができなくて、姑である祖母から価値のない嫁だと思われたらしい。

 その時代のことで小舅である父親の兄弟も五人いて、結婚当初はまだ実家に世話になっている者もいた。父親違いの小舅もいて、「あの家でじょろさん、辛抱できるかねえ」とは実家の檀家さんたちが心配して言った言葉である。
 父の弟がなかなか大変で、家で暴れて妊娠していた母のお腹を足で蹴ったことがあったらしい。その時母は「私、こんな家にいられません」と家を飛び出したが、その母の着物の袖を祖父がしっかりとつかんで離さなかったそうだ。
 戦中、戦後は食べ物を求めて小舅たちの友人がよく泊まりに来たという。
 
 父は結婚当初から北海道を節談説教をして布教に廻った。北海道は北陸から渡った寺の次男、三男が多かったという。母は洋裁教室を自宅で開き、生徒さんを採っていたが、祖父がやがて月忌参りができなくなると代わってやるようになった。
 母は下宿人の食事の世話と頼まれた洋裁の仕立てをしながら月忌参りをして、ほとんど家に居ない父親のかわりに忙しい充実した日々を送った。父は私が高校生の時亡くなったが、子どもは私を含む娘二人を授かり、姉は家を継いで養子をもらった。その姉も、十年も前に亡くなった。

 最近の母親は「早いもんやねえ。はや、九十年経ったのが信じられん」とよく言っている。だが、人生を振り返って「そのときそのときを懸命に生きてきたから、あまり後悔がない」と言う。
 若いうちは進学もして、当時としてはやりたいことをやり、健康で自分の家族も得られて、まずまず幸せな一生だという気がする。また、いろいろなことがあっても振り返ってみれば人生は早く過ぎ去ったように思えるものなのかもしれない。

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