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はじめてのプチ介護・・・あれは桜の頃

18年前に亡くなった父は、身体の弱い人でした。子どもたちの物心つく前から、学校に入るまではとか、二十歳になるまではとか、命の区切りを何度となくつけられ、そのたびに通り過ぎ、74歳でその人生を終えました。

娘の私でも定かではないのですが、肺が片方、腎臓も片方、横隔膜はなくて、最期の方には胃も1/3だったかな?肝臓も悪かったし。あと、十二指腸もなんかあったな。「難しい手術で時間かかります」って言われたのに早く終わったのでダメだったのかと家族で肩を落としていたら「内臓が本来あるべきところになかったので手術しやすかった」という逸話もあるくらい。

そんな父でしたが、私たち姉妹は、そんなに看病が大変だったなんて思わず、夏には海に連れて行ってもらい、公園でボールを投げ合ったり(父としては男の子で野球ができたらと思っていたみたい)、映画に連れて行ってもらったり、休みの日は一緒にレコードを聴いたりと、たぶん母は大変だったのでしょうが、今思うと、2人の愛情だなと思います。

毎月病院に行き、2~3ヶ月に一度は入院していましたが、最期の時は、自分で悟ったかのように、3月の誕生日の翌日、自分で入院するといって出かけていきました。

そこからは坂道を転がるに、あんなに普通に会話もしていたのに、一気に辻褄が合わなくなり、夜は看護師さんも手に負えないので家族に泊まってほしいとまで言われるようになりました。母や妹が行った日はそうでもないらしいのですが、私が泊りに行くと、「ゆでたまごを作ってこい」とか「どこそかの駅弁を買ってこい」とか。今だったらもう少し気の利いた返事が出来そうに思いますが、その時は、「ここは病院だからゆでたまごは作れない」とか「もう夜だから買いに行かれな」とか真正面から答えていて、どんどん怒らせていたなあと思います。

それでも「家に帰りたい」と何度も言うので、覚悟を決めて退院することにしたのが3週間後ぐらいだったでしょうか。うちに着いてさぞかし感激するのかと思いきや「家に帰りたい」と。よくよく聞いてみると、子どもの頃の家のことでした。私だって知らないのにそんなとこ行かれないと思いつつも、父は納得できない様子。「ここは誰の家?」「ずいぶん広いね」母が「あなたのうちなのにね」って。

家に帰ってきて3日目に、私が出かけているときに、母が父を支えようとして共倒れに。お昼過ぎに帰ってきた私は真っ青になりながら、もうダメとばかりに区役所に駆け込み、包括支援センターを教えていただきました。たまたま対応してくださった方がとってもてきぱきとしてくださり、翌日には介護ベッドがその翌日には車いすが届きました。本当は介護認定されてからなのですが、緊急なのでといってどんどん対応してくださいました。

介護保険で訪問看護が受けられるのはなんとなくわかっていたのですが、そのケアマネさんがおっしゃるには、病気が結構重いので、健康保険からも訪問看護を受けられるということで、なんとか週6日看護師さんが訪問してくださることに。

帰ってきて1日目は話もでき、お手洗いもひとりで行っていたのに、翌日は手を貸さないと起きられなくなり、その翌日は、食欲もなくなり、ゼリー飲料がよいと言われ買いに走り、だんだん話もできなくなり、起きているのか寝ているのかもわからなくなり、6日目の夜、たまたま来てくださった看護師さんが「危ない」と救急車を呼んでくださり、病院でよく明け方亡くなりました。

介護というにはあまりにも短いひと月にも満たない期間でしたが、いろいろなことが体験できた気がします。

役所での手続きのこと、車いすの選び方、うまく受け答えが出来ずイライラさせてしまうこと、そして私もイライラしちゃうこと。食べられないときには何がよいのか・・・・。

今となってはよい体験でした。そして、父が亡くなったことにより、この年は本当にいろいろなこと、なかなか体験できないことをいろいろ経験することができました。このあとはそんなこともお伝えしていきます。

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