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シンエヴァンゲリオン劇場版考察&感想速報※ネタバレあり(シンエヴァを一度鑑賞後の率直な自分の意見なので多少間違いも含まれるかもしれませんがご了承下さい)

シンエヴァンゲリオンへの道

かつて庵野監督は「エヴァは自分の魂を削りながら作る作品」と言っていた。
1995年のTV版放送を皮切りに、今や世界中で大勢のファンがいるエヴァンゲリオン。庵野監督も放送当初は自分の中にあるエヴァンゲリオンという世界を好きなように展開していたに違いない。
僕らはその類い希ない手法に魅了され、瞬く間にファンは急増した。
その反面、ファンの期待は膨らむ一方で、広がった風呂敷を万人の納得いく結末に導くために庵野監督はどんどん魂をすり減らし、遂には自分の中にあった世界を上手く表現出来なくなってしまうまでに陥った。
それがあのTV版や旧劇場版の結末だろう。
多くの謎を残し、ファンの中に『エヴァンゲリオンとは何だったのか?』という煮え切らない想いを残したままエヴァの物語は一旦幕を閉じた。

エヴァとはそういう作品だったんだ。
謎も含めエヴァの魅力。

そういう想いは時が経過するにつれおおきくなり、僕達エヴァファンは“エヴァの呪縛”捕らわれていった。

2006年、突如としてエヴァの物語は再び進み出す。
“リメイクではなくリビルド”
そんな庵野監督の力強い言葉に僕達は歓喜した。
加えて前・中・後・完結編にあたる『序 破 急+?』の4部作である事も発表され、僕達は「またエヴァが味わえる!今度こそ納得のいく結末が観れるかもしれない!」と期待を膨らませた。

翌年の2007年、前編にあたる“序”が公開され現代の技術で蘇ったエヴァの世界はとても美しく、薄れかけていたエヴァ熱を一瞬で呼び戻す。
更にTVシリーズを踏襲しつつ、微妙に変化を加える事によってただの総集編ではなくあくまでも“再構築”なんだなと庵野監督の気持ちと今後の展開により一層期待が膨らんだ。
特に、エンドロール暗転後の予告に登場した新キャラ マリには多くの方が驚きと期待を持ったに違いない。
僕が鑑賞していたスクリーン内もざわめいたのを鮮明に覚えている。
そんなエヴァファンの熱量に庵野監督も心を動かされ、それに応えるべくほぼほぼ決定していた脚本を一から見直すほどに僕達の期待に応えようとしてくれた。

その影響もあり、当初の予定より1年遅れの2009年には中編の“破”が公開。
微量の変化を加えてきた前作とは打って変わって今作では新キャラ・新機体・新設定で物語は大きく変化していく。
特に後半の怒涛の展開には胸が熱く、「次はどうなる!?」
と期待せずにはいられなかった。
とても続きが気になる所で物語は終了し、誰もが早く続きが観たい気持ちで一杯になった筈だ。

庵野監督のエヴァはやっぱり凄い!
コレはホントに期待以上だ!
この後どうなっちゃうの!?

と、僕達の期待も最高潮に高まり、迎えた3年後の2012年。
当初の予定より4年遅れ、残すのは『急+?』の『急』が『Q』と改題され、尚且つ完全新作の完結編『?』と同時上映だったのが分割公開へと変更を経て待ちに待った後編『Q』が公開を迎える。
あの激アツ展開から4年待った。膨らみ膨らんだ僕達の期待は物語冒頭から総すかんをくらう。

???
!!??

誰しもがこうなったのではないだろうか?
え?ちょ…待って。え??
もはやTVシリーズとは完全に異なる新作の、正にQ展開に脳内処理速度が追いつかない。
物語はそのままの勢いで僕達を置いてきぼりにしたまま終了。

確かに待ちに待ったエヴァの続編だったのだがコレじゃない感が強く、前作までは“賛”が圧倒的多数だったエヴァファンの意見も賛否両論へと変化していく。

え?意味がわからないよッ!!!
今までがわかりやす過ぎた。コレぞエヴァンゲリオン。

と。

ここで旧劇を知る人の脳裏にはこう過る。

またあの理解し難い難解展開になってしまうのではないだろうか?

そして、僕達の期待を一心に背負った庵野監督は壊れた。

6年間もの間、自身の魂を削って再びエヴァを作り続けた報いだ。
ここまで数年の遅れはありながらも何とか続いていた新劇場版の作業は中断され、改題された完結編である『シンエヴァンゲリオン劇場版』の公開日も未定のまま月日は流れる。
エヴァはもうひょっとしたら未完結のまま終わるのではないだろうかとまでさえも囁かれ始めた。

そんな中、前作公開から3年後の2015年から少しずつだが『シンエヴァ』の情報が出始める。
少しずつだが庵野監督は回復し、前進してくれていたのだ。続く16、17、18、19年と徐々に『シンエヴァ』の情報が解禁され、確実に前進している事が伺えるようになってきた。
そして、コロナウィルスによる2回の公開延期を経て、2021年3月8日『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開となった。

碇シンジ=庵野秀明

さて、本作の主人公 碇シンジについて少し触れてみたい。
思春期真っ只中の14歳の中学2年生。
何も知らずに父親に呼ばれ半ば強制的にエヴァに搭乗。人類を守るというのは表向きで、父親に認められたいがために必死に使徒と闘っていく。
しかし、父親とは何度もすれ違い、時には衝突。
自分の意志とは裏腹に、良かれと思って取った行動で旧劇ではサードインパクトを引き起こしてしまう。
破でも同様に綾波レイを助けるためにとった行動でニアサードインパクトを、Qでは目覚めると何故か14年の月日が経過しており、かつての仲間には冷遇されやっとの事で出来た友 渚カヲルもほぼ自分の行動のせいで目の前で爆死。
更にフォースインパクトも引き起こしかける。これら全ての事象の責任を背負いこみ、シンジは心が折れてしまう。
『シンエヴァ』はここからスタートするのだが、前半部分の大半を使い、大人になったかつての友人の励ましや労い。ミサトの真意。態度や言葉は冷たいものの、常に気にかけてくれるアスカ。村の人々と接する事で人の気持ちを覚え、献身的に接してくれるレイ(仮称)。このようなシンジを取り巻く人々の動きを丁寧に描き、それを受けたシンジは少しずつ立ち直っていくのだが、僕はここでフと思う。

あれ?シンジって庵野監督じゃね?

と。

前述の通り、作品が一人歩きする位に膨れ上がったファンの期待に応えたいがために魂をすり減らし、良かれと思って作ったストーリーや結末が反感を生み、遂には作品制作のスタジオに近づく事も出来ない位に壊れてしまった庵野監督。
そんな状態の監督を支え、回復まで導いたのも妻や友人、そしてかつての戦友であった。

碇ゲンドウ=庵野秀明

“父親というのは子どもにとっていつまでも憧れの存在である”
これが父親の理想の定義ではないだろうか?
つまり“永遠の理想像”である。

妻であるユイにもう一度会いたいという目的のためには他の犠牲も省みず、最終的には人である事すら棄てたゲンドウ。
目的達成のために手段を選ばない確固たる信念を持つゲンドウはシンジの父親であり、まだまだ周りに流され揺らいでしまう少年なシンジの憧れでもあるのではないだろか?
僕はまたフと思った。

あれ?ゲンドウも庵野監督じゃね?

と。

揺るぎない思想を持ち、万人が納得のいくエヴァを造るという目的に向かってつき進む理想の自分=ゲンドウ
様々な感情に捕らわれ、魂をすり減らし中々理想とするモノに近づけない脆く儚い現実の自分=シンジ

つまり、エヴァンゲリオンとは庵野監督自身の理想と現実の葛藤を描いた物語でもあったんじゃないかと考えた。

さらば、全てのエヴァンゲリオン

『さらば、全てのエヴァンゲリオン』
シンエヴァのキャッチコピーでもあり、同様の台詞が予告や劇中で使われている。
僕はこの“エヴァンゲリオン”というのが僕達エヴァファンの事を指しているのではないかと考える。
もう少し噛み砕くと、エヴァは今年でTV版から26年目を迎える。今や世界中にいるエヴァファンの中には、僕のようにTV版放送当初から追い掛けている人もいれば、新劇から入ったという人もいるだろう。ガチ勢もいればエンジョイ勢だっているし年齢や性別も様々だろうし、各々感じ方も違う。
それはTV版や旧劇の結末が表すように、一つのエヴァンゲリオンという誰もが理解出来る着地点が存在しないという事も相まって、各々の中に“エヴァンゲリオン”というモノが存在している。

劇中に大量に登場するエヴァインフィニティ通称“顏なしエヴァ”。
突如として動き出し、ゆっくりと大地を徘徊したり止まっている者もいる。コレが僕達の中にある様々なエヴァンゲリオンを現していて、各々が持つイメージが違うため故に顔が存在しない。

さらば、全てのエヴァンゲリオン
さらば、全てのエヴァファンの中にあるエヴァンゲリオンという存在。
かつて自分が引き起こし、そのせいで曖昧なまま悪く言えば宙ぶらりんになったままのエヴァンゲリオンに決着をつけよう。期待してくれ。

そういう庵野監督の想いが込められたらメッセージなんじゃないかと考えた。

劇中、クライマックスに向けて「自分の落とし前をつける」、そして「父さんの落とし前をつける」というシンジの台詞がある。
そして、絶望の槍ロンギヌスを持った13号機を操るゲンドウと希望の槍カシウスを持った初号機を操るシンジが運命を変えることの出来る唯一の場所、全ての始まり、約束の地ゴルゴタオブジェクトにて闘い、「話をしようよ、父さん。」とお互いが向き合っていく。

この時点でのシンジは、皆のおかけで閉じこもった殻から抜け出せた経験や志半ばで目の前で消えてしまったレイ(仮称)の想いを受け止め、もうかつての何処か頼りなく弱々しい少年のシンジではなく、一つ信念を持った強い大人なシンジへと成長していた。

物語前半部でシンジが全ての行いが自分の責任で、こんな想いをするのならもう人とは関わりたくないとしているのに何で皆こんなに優しいんだ。とレイ(仮称)に問いかけ、「碇くんが好きだから。」と答えたのをきっかけにシンジは立ち直りを見せていくのだが、コレを庵野監督に置き換えると、自分のせいで各々の中にエヴァが着地点の無い状態で生き続けるという呪縛に捕らわれたままにしてしまったのに、どうして多くのエヴァファンは離れずエヴァを好きでいてくれるのか?
そのエヴァファンの想いに応えるべく一つの信念を持ち、理想の自分との決着をつけにいったのだと思った。

最終決戦の舞台は地獄の門の先にある虚構の世界“マイナス宇宙”。ここは人が知覚出来ないため空想が見える。コレは正にエヴァ製作過程の中で何度も地獄を見てきた庵野監督の中にある宇宙(深層心理)だろう。
庵野監督以外は誰も完全なる真意を計り知れない。各々(人)が知覚出来ず空想が見えるのはそのためだ。
かつて庵野監督がインタビューでこう答えていた。
「エヴァは快楽原則に則ってやっている。ありとあらゆる人が見た時に自分の鏡となって返ってくるような作りになっている。情報量がやたら多いし見た人の投射がそのまま返るようになってますからね。各個人によって感じる面白さも違う。」
コレが虚構(理想)と現実を信じる人(ファン)だけが認知出来る各々に存在する空想のエヴァ“エヴァンゲリオン・イマジナリー”ではないだろうか。
故に各々で認知出来るモノも異なってくる。
更にその奥にある運命を変える事の出来る唯一の場所であり、全ての始まり、約束の地“ゴルゴダオブジェクト”。
コレこそ庵野監督の中にあるエヴァンゲリオン。
そこで理想(ゲンドウ)と現実(シンジ)に落とし前(決着)をつける。
天才・庵野秀明の事だ、当初の予定としては普通にアニオタを唸らせる展開を構想していただろう。しかし、膨れ上がった期待には“普通”ではダメだったのだ。
いつしか表現力・技術・時間・資金等の様々な障害で届く筈の無い虚構の世界を追い求めていった理想の自分(ゲンドウ)。
それに少しでも近づこうと必死に足掻き、苦しみ、その結果理想には程遠い世界を何度も創造してしまった現実の自分(シンジ)。
物語のクライマックスではこの二つの葛藤に正面から向き合う。“ネオン・ジェネシス”時間も世界も戻す(繰り返す)事なく、エヴァがなくてもいい新しい世界を創生し、全てのエヴァンゲリオンに終止符を打つために。

シンエヴァンゲリオン劇場版

庵野監督の魂の結晶、エヴァンゲリオンの完結編である『シンエヴァンゲリオン劇場版』ご覧になられた方にはどう映っただろうか?
僕にはエヴァらしく随所に新たな謎を散りばめつつも、TV版・旧劇・新劇と、上手く補完して25年前から置き去りにされていた僕の中のエヴァンゲリオンをエヴァの呪縛から解放してくれたよう思う。
完結という悲壮感、所謂“エヴァロス”は現在それ程感じておらず、寧ろ25年間追い求めてきたモノに一区切りがついてモヤモヤが晴れ、清々しささえ感じている。
きっと同じ想いの方々も多いのではないだろうか。
こんな素晴らしい作品にまで仕上げてきてくれた庵野監督を始め、制作に携わってくれた方々全てに『ありがとう』と伝えたい。
TV版放送当初からリアルタイムでエヴァンゲリオンと同じ時代を過ごす事が出来てホント幸せだったと感じた。
“さらば、全てのエヴァンゲリオン”
このキャッチコピーは裏切る事なく、この作品にピッタリだと思う。

ここまで庵野監督が強い意志を持ち万人が納得するような結末を迎える事が出来た背景には、劇中で全ての落とし前をつけ独りになったシンジを助けに来たマリの存在が大きいだろう。
「どこにいても必ず迎えに行くから。待ってなよ、ワンコ(シンジ)くん。」
劇中で数回、この台詞は使われている。
シンジ=庵野秀明とすると、監督を一番側で支えたのはきっと奥さんの安野モヨコだろう。
故に、マリ=安野モヨコなのだろうか。
それは今後証されていくのかもしれない。

「さようなら、全てのエヴァンゲリオン。」

「さよならって何?」

「“また会う”ためのおまじない。」






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