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【真宗は“禅定”を仏教に必要ないことにしているのか?】(1)

【真宗は“禅定”を仏教に必要ないことにしているのか?】(1)

 前回は*六波羅蜜の前3つの徳が、浄土真宗においてはどう成立するのか? について大先輩のお考えを引用しながら書きました。
その3つである1.布施 2.自戒、3.忍辱 というのは、具体的な状況に即して描けます。しかし、後の2つである5.禅定 6.智慧は精神の内容といった種類のもので、誰にでもわかるかたちで描くことの難しいものです。(4.精進は努力の継続、という意味なので具体的にもできます)

ほとんどの日本人にとって、禅定といえば曹洞宗の“坐禅”を想い浮かべるものかと思われます。そして、男性的で厳しく意思の力がいるもの…というイメージでしょう。
智慧にいたっては、もともと愚かでない、という“質”であって具体的なものとして定義するのは難しいものですね。
 日本社会の一般人にとってこの2つの徳目は経験したことがなく、生活習慣にもなっていないものということでしょう。なので、他人のやっている行為の外見的イメージとして理解してしまうしかないようです。
「毛の生えた亀」、「月の上のうさぎ」、などと同じで、イメージとしては共有できるので会話できるけれど、実体としては何か分からない、といったところでしょう。
そこで、ありとあらゆる陳腐な理解が生じ得るのでしょうが、禅定は自分でやってみて実感してこそ、智慧は自分の中から湧き出てきてこそ分かる…という種類のもので、正しく理解するには自分で正しい修行しなければならない、ということになります。
こうなるとかなりの切実な関心の高さがない限り、あえて理解しようという一般の人は少ないでしょう。
それは、ある意味当たり前で、仏教の修行は“菩薩”や“仏”になるという、未だ人間にとって自明ではないものに「成っていく」、“成仏”する、という目的のためにするものであって、そのままで分かるようならなくていいとも言えるものです。
一般に人が求めているのは、自分を変える骨が折れる作業より、証明されていて効率的に快適な結果が得られる知識や技術です。(ダイエット商品のCMなどにいやになるほど現れていますね)
そして、修行目的のような今ある人間性を超えて初めて理解できるようなもの、に対する憧れや渇望を近代人は時間をかけて見失っていったもののように私には思えます。

仏教では、伝統的にこういう憧れを持つことを“菩提心”を起こす、と言います。人生の意味は既知のもののなかでは完結しない…というものであって、それが人間の持つ希望に繋がっていたのかと思います。
それと比べると、脳科学や心理学というのは人間を既知のパターンとして整理しようとしてしまうところがどうしてもあります。脳科学としてエビデンスがでている禅定=瞑想としてマインドフルネスと呼ばれる一連のものが人気を得ているところがあります。 私もひどく関心を持った時期もあったのですが最近ほとんど関心を失っています。理由は上に述べたような既知のものの中で安心しようとする傾向が目につくからです。(そうではないマインドフルネスというものが、ないわけではないのですが…。)
瞑想というのは学んでいく過程で無意識の力が表面に出てくるところがあり、そこにおける危険を扱うに際して、科学的エビデンスが安心につながるというところまでは分かります。(特にオウム事件を経た日本社会では)
しかし、今知られている人間とはあくまで過程であって結論ではない…という洞察、もしくはその情緒的表現としての憧憬、がなくなった状態で幸せなど求めたら残るのは自己の価値を資産評価として評価する…などということになっていったりしないですかね?
近現代は、マスのレベルで理解される均質化された価値が異様に社会を牽引しすぎて、ついに来るところに来てる感じがあると思います。

本稿は浄土真宗が禅定や智慧という大乗仏教の基本的修行をどう考えているのか? を書くつもりで始めましたが、それ以前の問題として、「今ある人間性を超えていくための修行」、という側面まで見失ったものが“科学的”と言われて社会に定着していることに対する情けなさが先に立ってしまい禅定とは菩薩や仏になるためのものだ、というテーゼを強調してしまうこととなりました。
その意味でタイトルから脱線した文章になっています。
真宗における意味、という本来書くつもりだったことは次回に譲ります。タイトルを見て読んでくれた方はどうもすいません!

*六波羅蜜 大乗仏教における修行の徳目6つ 1.布施 2.持戒 3.忍辱 4.精進 5.禅定 6.智慧 とされる。


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