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【指が道路に落ちていた】

【指が道路に落ちていた】

4月の終わり頃に、ニュースが耳に入り、耳をうたぐった事件がありました。

「埼玉県〇〇区で、道路に人間の人差し指の先が落ちている、という通報があり、警察が事件性があるか調べたところ、付近で荷物の配達員をしていた男が「昨日配達中に車のドアに指をはさんだが、大したケガだと思わず配達を続けていた。」と名乗り出てきました。」

という事件です。
私はビックリしましたが、それと同時にすぐに、2019年に観た『家族を想うとき』というイギリスのケン・ローチ監督の映画を思い浮かべました。
 この映画は、家族のために収入を増やそうと思い、宅配の軽トラックを業者から買取り、そこの契約規定を守りながら最終的にトラックを所有した個人配達業者になろうとする男の話しでした。(日本のコンビニ店長の契約に似ているな、と観た時は感じました。)
この男はストーリーの終わりには、会社の規定にがんじがらめになり、心身を病み、家族が止めるのも無視し働き続けようとするワーク・ホリックになります。 原題の『Sorry we missed you 』は家族の側から見た嘆きがタイトルになっているのでしょう。

たぶん、このニュースの配達員の方は映画の男のようなワーク・ホリック状態だったのではないか、と推察しました。
 先進国の働き方として、契約規定を守れば最終的に独立業者になれる、式の契約がいろんな業態に見られるように思います。しかし、この契約には被契約者がコントロール不可能になる条件がいっぱい含まれている感じがあります。 映画の中では、男は業者規定のノルマをこなさなければどんどん独立への条件はきびしくなる契約を受け入れています。しかし家庭内で色々な問題が起こり、契約時に予想していたようには動けなくなり、それを個人の努力で埋めようとするあまり心身を病んでいく、ということになります。
こういう契約が法律上どう改正されていくべきか?に関しては私には知識がなく正確に論じる資格がありません。
ただ、映画のタイトルとも関係していて気になっていることがあります。

去年、私のうちでは家内が脳出血で搬送され3ヶ月入院しました。今も少し後遺症がありリハビリをしながら家事をしています。
私は入院中は家事を一人でやっていたので、女の人の労働についてかなり考えました。
その流れで去年は『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』という本もかなり熟読しました。
分類的にはフェミニスト・エコノミーと言われるジャンルの本らしいです。 中心になっているテーマとして「経済学や法律に使われている言葉において人間とは、“初めから独立していて、自己責任において選択し、欲望に基づいて社会的契約を結ぶもの”=「成人男子」になっているが、実際の人間は“依存し(特に乳幼児期は)、愛情がなければ機能し得ず、家族間のトラウマを持ち、合理性にもとづかずに選択する=「女性」として女に押しつけられてきた特性も持つものである」、ということが書かれていました。
女性性として合理的社会には存在してはいけないものとして排除されてきているが、人間とはそういう面なしでは生きられない存在だ、というテーマは刺さってくるものでした。

映画の主人公は家族のために契約社会に身を投じていくのですが、そこでの論理と家族が持っているお互いに対する依頼性の高い論理?(感情?)との間にあまりに大きい乖離があり、心身を病んで行きます。
 邦題『家族を想うとき』も、原題『Sorry we missed you 』も共に家族のことを想っているのに家族との感情的絆が壊れていく悲劇を示唆しています。
そもそも、そこで個人が心身を病むほどの努力を要求されるべきものではなく、近現代社会が排除している部分をもう一度考慮して、法律、文化を見直していくべきものだと私は感じました。
このニュースで報じられた方も、そういった乖離の中で当然考慮されるべき自分の身体の痛みを無視して働き続けられるようなパーソナリティになられたのではないか?と確証はないけれど勝手に案じています。

 そして、ちょっと飛躍しますが、この文章で取り上げたような“排除された部分の意識的考慮”、がなされていないのが、日本政府の「子育て支援政策」が言われ始めてから20年もたっているのに実効をあげていない要因の一つのような気もしています。


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