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【言わずもがな…が共有されない】


最近、横浜の方でエレベーターで相乗りになったカップルの会話。

男 「その人がさ、学校の先生やりながらお坊さんやってるわけよ。訳わからないと言うか、そういうものというか….。」
女「えーそれってヤバいんじゃないの!?」

これって還暦すぎた私達の常識からすると、「ヤバい」のは彼らの方ですよね。 例えば地方のお坊さんが専業では生計たてるのが難しく、学校の先生と兼業しているという話しは我々だったら小学校高学年位でもう共有されていることだったように思います。(カップルは20代後半から30代前半の感じ)

もう一つは、最近依頼された仕事での話です。 相続した仏壇を義父が捨てて新しいのに変えたので仏壇の魂入れをしてくれとの依頼がありました。(魂入れという表現は真宗は嫌うのですが) 仏壇の開眼ということで引き受けました。そこで電話で細かい点を確認したのですが、

私 「ご本尊は元のが入っているのですね?」 
施主側「え? ご本尊? あのお札のようなものがありますが?」 
私「お札? 後光を背負った仏様の絵柄ですか?」 
施主側「そうです。」
私「では、それでいいと思います。」

それでお宅まで行ってみたら、お軸のご本尊の阿弥陀さんが右によせてあり、観音菩薩さんのような絵柄のお札が真ん中にありました。これじゃぁどう表現していいかそりゃわからんわ。浄土真宗のご本尊は阿弥陀さまで、真ん中に置くものだ、という常識が共有されていないようでした。

これらの事象は私達の世代まではいわゆる“常識”として共有されていたものが、その下の世代には共有されてない、という例かと思いました。 そして、私達僧侶の仕事というのは慣例という常識があって進むところも多いので、“困ったことになったなー“ というのが正直なところです。 身内などの大切な人が亡くなる…というのは、まず誰にとってもある種想定外のことで、想いが追いつかないところで起き、感情が動揺します。 ですから、それを儀式というかたちで慣例として受容していく…というのが葬送などの儀礼儀式の大事な意味なのだと私は理解しています。            
しかし現代人として受けた教育では、事象をあらかじめ予測してもっとも効率化して処理するのが文化人である…という傾向があって、想定外に動揺する…とか、自分の存在は他に感情的に依存している…と考えることは文化程度が低いかのように受けとっしまいがちな傾向になりがちです。そして、こういう非常事態のことを慣習の力で何とかする、ようなことは普段は関心外で、それが大切なこととして言わずもがなに世代を超えて伝わっていくということはなくなってきているようです。   

そしてこういうことも増えている一方でこんな事例もあります。

これは日本人の私としてはどう考えたものか? という事例です。 NHK のニュースで見たのですが、最近ご遺体の安置してあるお棺に顔を近づけて個人にお別れを告げている間にドライアイスの二酸化炭素を吸って中毒になって病院に運ばれた…という事例がけっこうあるという話です。  私が聞いて最初に連想したのはチベット仏教の伝統では僧侶が読経を始めた後には、身内は遺体には近づけさせない、という話でした。 何故かというと、仏式でお葬式をするということは、輪廻の世界をはなれ菩薩や仏の世界に近づくために儀式をしているのであって、人間の世界への執着を思い出させる僧侶以外の身内との接触はさけるべきだとチベットの伝統では考えるからだそうです。

これは日本人の感覚では“何と不人情な”ということになると思います。 しかしこういう感覚は「引導をわたす」などと言う日本語が存在している以上、昔は少しは意識されていたと考えるべきでしょう。
それがまず消えたので、、遺体はなるべくキレイに、でドライアイスが使用されるようになり、(死臭も弱くなるので)キレイになった遺体の側により近づきたい…になり起こったことかと思われます。
これは仏教儀式が本来どういう意味であるのか?が日本の伝統の中で見失われて、儀式が人情によせられすぎた結果起きた事例で、個人的、経験的に振り返れる範囲を超えている問題かと思います。私は日本人なので身内の遺体をキレイに保ちたいという感覚がわからないわけではありませんのでドライアイスを危険のないものに変えればイイという解決法もあるのかも…ですが、どちらかと言うと根本問題を意識し直す機会にしたらどうかと考えます。

何でも人間の欲求の方に近づけて、技術的に解決すればいいというのではなく、人間の肉体の時間軸を意識してそれを超えたものを探る機会にする、という本当の意味での宗教的解決の探求が日本の文化として残ればいいのにな、と強く思います。

前の2つの事例も悪意があって伝承されなくなった、というよりは教育の目的として、効率的に自立して働ける近現代人を目指した結果、そうじゃない面を意識できなくなった人が増えた、ということ(単純なジェネレーションギャップの問題という部分も多いのかもしれませんが…)だと思います。
そして3つめの事例は今現在の経験の考察というだけでなく、2千年以上の時間と国を超えて伝わってきた仏教のどの部分が日本人の苦痛、苦悩を軽減してくれるのかを専門家と信仰する人が共に話しあって共有しなおすべきことかと思います。
パッと変わる方法がある訳ではありませんが、個々人の意識化する力がある程度集まれば、急に変わりはじめることもあるというのが「文化」というものではないか…とも思っています。
日々コミュニケーションを深めることが大切なのは確かなように思います。



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