戦後日本の革命家の原像 〜桐島聡について〜

死者が出ない爆破事件の犯人なら多分死刑にはならないだろう。なのに40年もの長きにわたり公的な保護から実質切り離された潜伏生活を選び、挙げ句には末期の胃癌で死に行くとは。

彼の死に様を揶揄する人は多くいるし、行った所業からそれはやむを得ないけれど、本質的にはこのような人物はどんなにしょぼくれて見えたとしても、本質的には革命家と呼ぶにふさわしかったと言うべきだろう。

戦後日本の革命運動は合理性や実践性を持たないという点でレーニンや毛沢東のそれとは全く異質のものである。それは「拒否」を中核とした生き方を選択するという意味で極めて個人的実存的美学的な現象であり、社会的に見れば共同性を喪失した戦後日本の若い世代に対して擬似的な共同性を与えるという現象でもあった。

豊かになりつつあるが定型的で非人間的な生き方を余儀なくされつつあった戦後高度成長期の日本社会に我が身を置くことを「拒否」する論理を戦後日本の革命運動は提示していた。そして都市に流れ孤独な境遇にある一部の知的あるいは準知的青年層には、その論理は、それが同時に伴っていた組織的共同性とともに魅力的に映ったであろうことは想像できる。いわゆる全学連全共闘極左過激主義は全てこのような性質を備えていた。

ただし、それは実存的ではあるが実効的ではなく、圧倒的な力を持つ現実の前では、有り体に言えば若さゆえの観念のお遊びに過ぎない側面もあった。それ故に、多くの活動家や準活動家は一定の時期が過ぎると一般社会に我が身を位置づけることを自ら模索し、ある者は公務員になり、ある者は会社員になり、かつて自分が「拒否」したはずの豊かな社会の中で安定した場所を確保していった。

しかし一部の者は「拒否」の論理を貫徹した。
豊かではあるが定型的な生き方に我が身と心を合わせることなく、そうした定型的生き方から見れば流浪の立場に立つことで生きていくことを選ぶものもいた。彼らの中から現代の予備校講師という職業も誕生していったのだが、前述の通り、戦後日本の革命の本質は実存的な「拒否」の論理にあるので、その論理を貫徹した者は定義上「革命家」と呼ぶにふさわしい。

その意味で、今回亡くなった桐島聡氏は「革命家」であったといえる。彼は選択しようと思えばもっと若い段階で自首し刑期を終えて人生を更新する事もできた。合理的に考えれば、その方が良いはずであった。しかし、そのような道は選ばなかった。どのような公的保護も得られぬ窮屈で不自由な潜伏生活を選び、藤沢の街に流れ着き、かの街の中でおそらくは貧しさの中で老いていき病んでいき、おそらくは末期がんの極限的苦痛の中で倒れ果てていった。

かつて埴谷雄高は「部屋でゴロゴロしていても革命家は革命家だ」と定義していたが、そのような言い訳がましい日本共産党的日和見革命家の定義なぞとは無縁に、ひとり「拒否」の論理に殉じた桐島という男に、私は戦後日本の革命家の原像を見る思いがする。

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