ラディカルフェミニズム批判

ラディカルフェミニズムは社会的構築物という概念への固着と事実としての身体性無視という病理を抱えている

例えば、「女だけが産む」という生物学的事実と「女が育てる」という2つのことの結びつきは母性という観念の産物であると某フェミニストは言う。女だけが子供を産むのは事実としても、それゆえ子供は女が育てるというのは必然的ではなく、社会が作り出した観念つまりは社会的構築物である、という問題提起だろう。

しかし、この考えは授乳という哺乳類としての根本的な生物学的事実を見落としている。この授乳という営みは母子の心身にわたる大切な営みであり、子供を育てる根本の部分である。授乳が「育てる」ことの全てでは勿論ないが、育てる営みの出発点となるものであることは確かだ。それ故、「産むこと」と「育てること」とは自然に繋がっている。自分の腹を痛めて産み自分の母乳で養った我が子を育てたいという母の思いは果たしてフェミニズムの言うような社会的構築物なのだろうか。

このフェミニズムの見解は、男女の身体的性差を前提としつつ、その性差を根拠に男女の役割分担を固定化することを社会的構築物とみなし批判する考えだ。それは大いに疑問の残る見解ではあるが、男女の身体的性差の実在を前提にしており、それならまだ理論的には理解できるものだ。

しかし近年のラディカルフェミニズムにはこの「男女の身体的性差」をも社会的構築物とみなす考えがある。この見解では、動物的交尾における射精と受胎という極めて狭い範囲の現象にのみ男女の身体的性差の存在を認め、それ以外の場面で人々が認識する性的な身体差を全て社会的仮構物とし、「男」と「女」に人間を二分することに疑問を提起している。

しかし、性差を交尾の場面にのみ限定するこうした見解は明らかに非現実的である。現実の人間は誰もが男の身体もしくは女の身体のいずれかを生まれ持って生きている。そしてその身体の差を、特に思春期と呼ばれる時期以降、他の身体との比較を通して常に意識して生きている。「男女の身体的性差」は社会的構築物ではなく、現実の身体に基づいて発生した自然な区別なのである。現実において女子トイレにおっさんが入ってきたら生理的忌避感を感じるのが当たり前であり、ハンサムな男性がお客に来たら女性店員は喜ぶものである。
このような当たり前のことを理解困難な理屈をこね回して否定しようとするのがいまのラディカルフェミニズムなのだ。

何故フェミニズムはここまで奇形化したのだろうか。女性の人生に様々な選択肢をもたらしたという点では、戦後日本のフェミニズムは決して無意義ではないと思う。例えば、大学に行きたくても昔の女性は女という理由で親から進学を許されなかったということがざらにあった。だが今ではそのようなことはほぼなくなった。この状況変化にはフェミニズムが貢献した部分もあるだろう。

しかし、現在のフェミニズムは、そのもたらした様々な選択肢の内で「母として生きる」とか「女らしく生きる」という選択肢を躍起になり否定しようとし、さらには男と女という区別さえこの世からなくそうと図り、それを正当化するための無理な理論構築に全精力を使っている。

これは晩年の毛沢東に似ている。毛沢東は中国の人民を解放する革命を実現した点では多大な功績を残した。だがその後、彼は革命を終わりにしようとせず、自らの存在意義確保のためか、中国共産党の内部に「ブルジョワ自由化路線に走る者がいる」という「矛盾」を見つけ、解放後も革命前と同様な階級闘争を継続した。この毛沢東の無茶に今のラディカルフェミニズムはよく似ている。いや、毛沢東というより彼の夫人でヒステリックな江青に似ているというべきだろう。江青にそそのかされた毛沢東の無茶は文化大革命という社会秩序の崩壊をもたらした。ラディカルフェミニズムも同じ災厄をもたらすのだろうか。願わくば早く江青と同じように逮捕され、人民の名においてその誤りを指弾されてほしいものだ。

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