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呪いは祝福で道標でもあった

⚠️caution⚠️


脳内整理のために書いており、同じような要素(ソフトエレガント、地味、ADHD)をお持ちの方や勝手なジャッジメントでしんどい思いをした方にとっては好ましいお話ではないです。もし読まれる方がいらっしゃったら…ですが、「あくまで美雨にだけあてはまるジャッジ」だと言うことを念頭において置いていただけるとありがたいです。

なりたい私はどこにある?


まず、好きなキャラの棚卸をすると「かっこいい」「強い」「美しい」キャラクターが多かった。(自己否定のウィッシュリストなのかも?)
20代の私は割と「可愛い」を好んでいたし、そういったアイテムがクローゼットにはひしめき合っている。どうして「理想」と「思想」と「行動」がチグハグなんだろう?と不思議に思い思考の海に潜るとリヴァイアサンばりの怪物が潜んでいたよ、というお話。

幼少期を振り返る

 翻って幼少期。セーラームーン(プリキュア)では誰が好き?という問いでどういうタイプの女の子が理想かわかると思う。私はといえば、子供の頃のごっこ遊びでは美奈子ちゃんに憧れてはいたものの、小柄な体格と年下キャラが反映されてずっとちびうさだった。選択肢はなかった。未就学児とはいえ、社会生活を送る上で人との関わりの中では自分でキャラを選べない。自分の顔面偏差値・スタイル・コミュニケーション能力や頭の良さなどの総合得点でみんなキャラを制限される。(日本では特にね)。幼稚園児の私が大人っぽい、みんなのアイドル「キャラ」を得ることは許されなかった。
そうやって私は「頼りない、妹キャラの添え物天然美雨ちゃん」としての社会生活をスタートさせた。
 一方で、私は3人姉妹の長女で両親は後継の男の子が欲しかった。結局3人とも女の子で後継がいない訳だが、その代わりに私が墓守として立派に生きていけるよう徹底した教育を行った。日本の田舎において、本家を未来永劫存続させると言うことは何物にも変え難い意味を持つ。もともと周囲に遠慮して行動できるような思慮深さが私に備わっていなかったこともあり、ふわふわした可愛らしい・女らしい要素を排除した選択肢を両親からは与えられた。「しっかりした・真面目な、頼れる」人間になって欲しかったのだと思う。けれど。精神科に連れて行かれたことはなかったが、教育学部で幼児・小学生の教育を専門にしていた母は私がうっすら「普通ではない」ことに気がついていたように思う。得意なことはとことん突き詰めるけれど、気に入らなければ必須項目だろうと見ようともしない。小1の担任からは、こちらの話を聞いていそうで常に違う世界に住んでいるとの評価を頂いた。そういう困った子供だった。そして、さかなクンほどではないが自然科学系の話題になると途端に饒舌になり、理科担当の教頭先生にワーっと捲し立て知識を披露していたらしい。困ったオタクでしかない。当の先生は、「この子の将来が楽しみですね、きっと将来は博士ですね」なんて母に笑って話していたらしいが母は頭を抱えていた、と去年話してくれた。本人は仔細を全く覚えていないが教頭先生とその理科の授業が大好きだったことは何となく頭に残っている。教頭先生の言葉はきっと私の特性にとって初めての祝福だった。母にとっては呪いだったのだろうけど。「この子は普通じゃない」という。そういうこともあり、コミュニケーション能力が重要な要素である文系ではなく理系への進学を私に薦めたのは母だった。理系科目の方がテストの点数的には得意ではなかったものの、結果、大学や高校のクラスなど周囲の環境も含めて私にはあっていた。今では感謝しかない。英語の得点が高いからといって文進しなくてよかった。最終的に理系就職し、研究職として毎日そこそこ楽しく生活している。自身の裁量が強い今の職種でなければうまくやっていけてなかった自信がある。なにより同僚にも恵まれた。(プラスに働いた呪い、つまり祝福となった)

「カッコいい」人間としての根拠がない自分。毒もあるよ。

 上記のエピソードからわかる通り、ADHD持ちで何かを完璧にこなすことや順序立てて物事を進行するのが苦手であり、私にとって昔から「かっこいい」キャラは現実的ではなかった。周りの空気を必死で読んだつもりでも、どうしても周囲とのずれが生じてしまう。可愛いには実績や根拠が必要なくても、かっこいいには周囲が認めていることが必須要素として入ってきてしまうことはないだろうか?私はどうしても「完璧」「マトモな人間」側には寄れなかった。小3くらいのときにダーウィンの進化論を知り、自分は遺伝子プールのもしもの備え側(人類のバグ)だなと思った。その価値観は今でも変わらない。多様性だのなんだの言うが、「普通」が分かって自分の個性を出せる人間と「普通」がわからずどうしてもはみ出してしまう人間では生きやすさが雲泥の差だと思う。gifted(祝福)だのなんだの言う人もいるが、思考や行動が得体の知れない人間は他の人にとって脅威であり、よほど突出した人類にとって都合の良い才能でもない限り申し訳ないけど遠巻きにされると思う。ギフトどころか呪いに他ならない。そして毎度やらかす度に誰かがフォローを入れるわけで…そう扱われてもある程度仕方ないなとも思う。プラスの意味で、諦観して楽しく生きている。別にみんながみんな私に厳しいわけではないけど、合わない人が少なくはないとは思う。(一応フォロー?しておくと、今の職場は研究部門で、程度は様々だがそう言う人間がたくさんいる分割と生きやすい。「変人」に対する許容度が高い。みんな違って割と変。ありがたいことです。)

「普通」「真面目」な外見と「ぶっ飛んだ」内面のギャップ

 それなのに、私の外見は「個性」を許さないのである。どう見たって普通で真面目そうで印象に残らない見た目をしている。イメコン沼の方には早速お察しがつく通り「ソフトエレガント」である。見た目が「真面目そう」「おとなしそう」なのに話すと違和感…というかこれは違う、となるとプラスの印象があっという間にマイナスへと反転する。
 やんちゃな見た目で中身はマトモ、よりマトモそうなのに中身は破壊神、の場合の方がネガティブが大きい。この時の人間の表情の変化はわかりやすい。あっ今失望したな、と見てとれるのである。全くもって余計なお世話ですー、と図太い今なら流せるけど若い私はできなかった。可もなく不可もなくまともそうな外見が呪いとなるなんて。厄介で。

両親から貰った「呪い」と「祝福」

 確かにソフトエレガントの私に「アイドルみたいな可愛い」は似合わない。そういったものから遠ざけていた母は正しい。与えられていたアイテムは高価で素朴なファミリアのお洋服たちで私に似合っていたとも思う。母親としては精一杯の「祝福」だったと思う。そこに確かに愛情はあった。でも、私は違う私にもなってみたかった。
 ド田舎なのに皇族みたいなお固いファッションをしていた私たち姉妹は実際浮いていた。親戚たちはこぞって「こんな芋くさい田舎に皇室みたいな可愛らしいお嬢さんたちは際立っているわ。お母さまのセンスが素晴らしい。」と誉めた。大事な本家の子供たちだったから、それは本家の嫁たる母にとっては何よりの祝福だったに違いない。でも、私たちは嫌だった。失敗してみたかった。みんなと同じユニクロのフリースが欲しかった。ナルミヤインターナショナルのお洋服を着てみたかった。母が私に与えてくれていたものは間違いなく正解だった。母は顔タイプ診断もパーソナルカラーも知らなかったけれど、私にくれたアイテムは見事にそれらと一致していた(センスの良い人なのだ)。それは間違っていない選択肢で、祝福だった。でも同時に呪いだ。顔やキャラに見合った人生を歩みなさいという。コンサバティブな本物こそが正義だ、と。

反抗期、解呪のきざし

 思春期に「女らしい」ふわふわしたもの、ギャルっぽいものから徹底的に隔離されていたため、一人暮らしをしていた大学後期で反動が来た。気が狂ったようにゆるふわな服を集め、短いスカートやショートパンツを履き突如茶髪にし、なんだったら似合っていない訳のわからないツインテールもしていた。デスノートのミサミサみたいな。ちょっとした黒歴史である。今だから笑い話だが、親や周囲は変な男に引っかかったのかと大騒動だったらしい。
 でも若いときにあのなんとも形容し難い怨念を発散させといてよかったと思う。30を過ぎてフリルやリボンへの執着が全くなくなった。勿論私以外にこのルールは適用されない。好きな人は好きでいいし、他の人が身につけていても好きなんだなーとしか思わない。でも今の私には必要ない要素(運命、演歌ではない)かなと思う。
 でも、社会人になって自分の「頼りないキャラ」と「大人しい外見」から外れたファッションはできなかった。社会人になって、より自分のキャラが強固になった。社会能力のない自分に「カッコいい」は無理だと思った。だって、全然カッコよくないのだ。会議はよく忘れるし、ぼんやりしているし、報告書は容量を得ない。「カッコいい」ハイブランドだって未熟な自分には重たすぎる気がして身につけられなかった。(でも実はちまちま集めていた。身につけもしないのに、箪笥の肥やし、ディスプレイと化していた。美しいものが大好きなのだ…)

解呪とこれから

 スタイルを決めたかったのに、結局は内面の問題に落ち着いてしまった。両親からたくさんの祝福(本当に家族の仲は良好なのです)と呪いをもらってすくすく育ったのが私なのだった。
では、その呪い(頼りない自分は自分に似合ったキャラ・服装をすべき、みたいな?)を手放すのかというと。私は、自分の隅に置いておくことにした。祓わないことにした。呪いと理解した上で一緒にいようと思う。実際、顔タイプやPC診断に合った内容の方が他人から褒められる確率は高いし、似合わないアイテムを馴染ませるのにも役に立つ気がする。一種の道標になることだってあると思う。自分にとっては確かに重荷だけれども、それと一緒に生きた時間だって人生の一部で私の価値観の一部だ。「こうあるべき、このほうが似合う」の呪いは無害な他人(エレガントやキュート好きなソフトエレガントさんとか)に向けない限り一緒にいてもいい気がする。専守防衛のリカちゃん(呪術廻戦)みたいな。自分を守るために使っていくのは悪くもないのではないか。
 脳の特性についてはもう仕方ない。人とズレていることがたまに役に立つ研究職という仕事なのでもうそれでいく。迷惑をかけた時には(なるべく避ける努力はしつつ)ちゃんと他の得意な事象でカバーできるようにする、もうそれしかない。みんなと同じが難しい人間なのだ。
 カッコいいキャラじゃないのに、を解決するにはもっと知恵と工夫が必要かもしれない。自問自答を繰り返して、自分なりの落とし所を見つけたいと思う。

呪いと祝福との付き合い方

 世の中の色んな事象で「呪い」と「祝福」の二面が隣り合わせになっていると思う。送り手の感情や価値観、受け手の精神状態や価値観、それぞれが組み合わさってどちらになるかが決まる。例えば、「髪型変えたの前よりいいね」の一言だって呪いにも祝福にもなるのである。送り手に悪意がある場合は論外だが、そうでない場合は要らん呪いにしてダメージを受けないよう生きていきたいと思う。私ももういい大人なので。

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