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ニワトリの解体をして

2022年の3月6日、私も所属するgreenz.jpインターンメンバーのnoteを見て興味を持った、「ニワトリを絞めて、解体して、調理して、食べて、ディスカッションをするワークショップ」に参加してきました。ここでの経験は、絶対に残したいと思いつつも、直後まったく言葉がまとまらず、いつも通りの日々を暮らしながら、胸の中の抱えていました。同じく3月の後半、ゼミの後輩に軽くその話をする機会がありました。正直、まだ考えはまとまっていなく、するつもりもなかったのに、不意に口に出てしまったという感じでした。

ニワトリを解体するWSをしたってこと、締められてるのを見た時は泣いて、でも確かに美味しかったんだ、という話。それに帰ってきた言葉は、「魚だったらどうなの?」という言葉でした。私は、その言葉から、noteを書く気力を与えてもらったと思います。私はそのとき、確かに、嫌な気分になりました。なんでだろうと考えて、私は、解体した二匹のニワトリを、「ニワトリ」と一塊にされ、「魚」という一塊のものと比較されることが、嫌だったんだと思いました。私が、3月6日にいただいた二匹のニワトリは、私の中でただの「ニワトリ」になってはいなかったのだと分かりました。

「魚だったら、泣かなかったんじゃない?」というのがあの時もらった言葉の真意だと思います。確かに、魚を絞めたことはないからわからない。ただ、あの時二匹のニワトリに感じたものは、絶対に他で感じることはないと思います。魚に対して、また他の動物、他のニワトリに対して感じたものと、同じになることは決してない。だって、あの二匹は私にとって、唯一無二のニワトリだったからです。

ニワトリが絞められる、その瞬間に確かに感じた諦めの感情が、私に涙を流させました。名前があったのなら、名前を呼びたかった。外見的な違いもあったけれど、それ以外の違いも、死の瞬間に感じました。肉になる前、あのニワトリたちには確かに生があり、個性があり、感情があった。

解体する時になっても、最初私は手を出せませんでした。私はそのニワトリたちを、もともと生きていた、死んでしまった遺体として、見ていたからでした。でも、直視しないと、という気持ちで、羽を抜いたり触れたり、してるうちに、徐々に遺体ではなく、鶏肉として見るようになりました。肉としてみると、ようやく無理せず触れられました。捌くこともしました。遺体として見ていたニワトリたちを肉として見てようやく、笑えるようになりました。

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同じWSに参加した方が「徐々にニワトリから肉へと呼称が変わっていた」という気づきを共有してくれました。私は、私たちは、そうしないと食べれないんだと思います。日々の生活では、あえて隠されている、生きていたという事実。私は、今もお肉も魚も食べています。でも、肉を見たときに、生きていた事実を思い出すようになりました。今、私の行動に大きく変化はありません。鶏肉も、その他の生き物も食べています。でも、食べる時、いつもではないけれど、あの時のニワトリ達のことを思い起こす時があります。ゆっくりと、気持ちが塗り替えられていってる段階なのかもしれません。

自分の知らない世界を知るきっかけは、いつだって周りの人です。このWSを1人で企画して、呼びかけて、開催してくれたもでこちゃんには、本当に感謝しかありません。一つの経験に落とし込むことも難しいくらい、深く、濃く、忘れられない時間でした。また、率直な言葉を伝えてくれた後輩にもすごく感謝しています。他の人もやってみよう!なんて、気軽に言えることではないけれど(後輩の言葉に混乱して、後輩にはサラッと言ってしまったけど)気になった人は、コメントやSNSで教えてください。

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