いつだって今が最高到達点論争

こんばんは、めておです。国からの自粛要請をしっかり守り、1歩も家から出ない生活を続けております。そんな僕が退屈しないのは、映画やアニメのお陰です。今日は『BEASTARS』と『SUNNY 強い気持ち・強い愛』を見ました。どちらもとても良い映画でした。オススメします。今日は後者を見て感じたことを書きます。

SUNNY 強い気持ち・強い愛 とは?

2011年に製作され、日本でもヒットした韓国映画「サニー 永遠の仲間たち」をリメイクしたものです。90年代、主人公は女子高生グループ「サニー」に所属していました。20年以上の歳月を経て、主人公はグループの仲間の一人に偶然再会するのですが、彼女は余命一ヶ月の病に侵されていました。彼女は主人公に対して「もう一度だけ、サニーのメンバー達と会いたい」と告げます。彼女の望みを叶えるため、主人公がメンバーを探す事になります。

印象に残ったシーン

この映画は、現在(38歳?)と高校生時代を交互に描いており、主人公が当時を懐かしむ様子が印象的です。高校時代に撮影した、仲良し6人組で未来の自分に向けたビデオレターを鑑賞するシーンは、当事者ではない私自身もセンチメンタルな気分にさせてくれました。過去の自分から見て、現在の自分はどう映っているのか。そして未来の自分は現在の自分から見て、どう映るのだろうか。自分に対して誇れる自分であり続けたいと私は感じました。

人はいつ、主人公では無くなるのか

もう一つ印象に残ったシーンがあります。主人公と芹香(余命一ヶ月)が夜にベッドの上で会話するシーンです。結婚はせず、いくつもの会社を経営する芹香に対し、結婚して子供を産み専業主婦を全うする主人公。芹香は「私はこの人生において主人公で居続ける事が出来た」と言っているのに対し、主人公は「私は迷いの中にいる」と答えるのです。この差はなんなのか。今回のnoteの本題に入ります。

主人公であるために必要なもの

ここからは共感して貰えるかは度外視で書きます。私自身もこれに対する自分なりの答えを明確に見いだせている訳ではありません。人によって、自分が主人公であると感じる瞬間には差があると考えているためです。敢えて主人公であるための必須条件を挙げるならば、それは自由であることでは無いでしょうか。

主人公=自由のパラドックス

ここでひとつ、自分自身の人生を思い返して欲しいと思います。自分が今までで一番自由に生きていた瞬間はいつでしたか?言い方を変えましょう。年齢と自由は比例していますか?

このブログを読んでいる方が、まだ学生であるならば、おそらく現在であると答えるでしょう。年齢を重ねるにつれて、親の影響は無くなり、自分で選択出来る幅が広がる人がほとんどなのでは無いでしょうか。

一方で、 このブログを読んでいる方が社会人で、もし「学生時代の方が自由に生きていた」 と答えるのならば、そこにパラドックスが生まれていると私は考えます。少なからず親の影響下にあった学生時代の方が、その影響からは外れたはずの現在(社会人)よりも自由である。そう答える社会人は少なくないと思います(統計とか見て言ってません。主観です)

主人公であり続けるために必要な事

社会人になってからも主人公であり続けるために必要な要素とはなんなのでしょうか。
以上を踏まえて、私自信が導き出した答えは「自ら未来を切り開く力があること」です。改めて言いますが、自由とは主観的なものです。問題は自分がどんな時に自由と感じているかです。それを自分で理解した上で、自分にとっての自由を得るために必要な要素やスキルは何か。それを考えた上で人生を歩んで行くことが、主人公であり続ける事に必要なのでは無いでしょうか。