面白い人間のフリをするのに疲れた

面白い人間であることと、笑われどころが多い人間であることでは意味合いがまるで異なる。もちろん私は面白い人間なんかじゃない。生まれつき体に不調が多く、およそほとんどの社会生活がままならない。ほとんどは私自身にも責任があり、そのことついては少しばかり反省することもあるが、決して"笑われどころ"として飲み込めるほど私は器用じゃなかった。

ある程度の年数を生きる中でそれなりに穏便に、笑われずに済む生き方を模索する必要に迫られた。思いつく限りの努力はしたが、結局のところ自分には社会で生きる才能がないらしい。であればいっそ、自分を「面白い人間」と偽ることで居場所をつくろうじゃないか。笑われない才能はなくとも、面白がられる才能はせめてあってほしかった。

よくSNSは人間関係の縮図と言われるが、本当にその通りだ。たとえば学校生活やツイッターなどにおいて、つまらない人間だと思われれば友達やフォロワーは減る。このお友達文化圏では面白い人間こそが人権を担保され、多かれ少なかれ誰しもが自分が「面白い人間」であることを証明し続けなければならない。生まれつき面白い人間であればこんなこと悩まずに済んだだろう。息を吸ってそれを言葉として吐くだけで面白い人間のために社会は在るように思われた。

持たざる者として、なんとか「会話するだけの価値がある奴」にならなければと、とにかくSNSを常時チェックする。たとえ「摂取」はできずとも、流行りのコンテンツを「認知」しておくことは大前提だからだ。正直いってどれもこれも興味が湧かない。そしてその事実に、自分という人間のつまらなさを痛感させられる。それでも他人と共通の話題を持つ人間になるべく昨日見たアニメやドラマ、芸能ゴシップや学校の裏事情まで、ある種のテンプレの投げ合いに対応できるよう日々脳内シミュレートをしたりと、涙ぐましい面白さ確保の日々が続いた。

疲れた。限界である。無意味である。

私の一過性の努力は、おそらく方向性こそ間違えてはいなかったはずだが、そんなものは誰しもが軽くこなしているタスクに過ぎなかった。「面白い人間」から「会話するだけの価値がある人間」にまでハードルを下げた結果、「なんか会話に参加してくるつまらない奴」にしか成れなかったのだ。

全力で取り繕ってようやっとお情けで築けた人間関係なんぞに一切の価値を見出すことができなかったので、連絡先を一斉に消した。それでもやっぱり人恋しくて、今では細々と文章を書いたり翻訳をしたりしている。ただ、そこまでしても人間との付き合いの中で面白さアピールは継続しなければならない。ものを書くのも、結局のところいつかは面白がってもらえるという魂胆から再開したことだ。なんと情けないことか。

私はなにも好き好んでこんなつまらない人間になったわけではない。こんな私にも好きなものはある。心突き動かされた瞬間もある。思い出さないと立ち消えてしまいそうなほどに個人的で、大切な人生の瞬間があったのだ。

この世には娯楽が溢れ過ぎている。あまりにも多い。それがただ豊かに満ちていればどれだけよかったか。結局のところ、どの娯楽に興じるかにも正解が設けられている。今流行りのアニメや漫画、人気俳優主演のドラマ、挙句の果てにそれ相応の年齢から酒やタバコに性の営みといった下品な嗜好にも触れていなければいけない。そうでもしなければ人間の価値の根幹たる「面白さ」は身につかないらしい。少なくとも人間との会話にはまずついてはいけないだろう。これらの娯楽は所詮は共通の理解があってようやく面白がれるようなものでしかないからだ。個人で完結する娯楽に市民権は与えられていない。

せめて会話をする価値がある相手であることを維持するゲームからは完全に降りたかった。このレースは人の心を壊す。なんで人間の価値に面白さが必要なのか。ただ生きて、仕事をして、罪に問われぬ程度に生きがいを見出せればそれで十分に立派ではないのか。

存在価値を示し続ける世界にファッキュー。私は疲れたので寝る。

(この話はフィクションです)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?