鳥人間コンテスト(5)

 谷口アベベは指を舐め、天を指した。風を読んでいる。
 南陽化成本社の正面にある広場には社員とマスコミが集まっている。今、人類の初飛行が行われようとしいる。今日は南陽化成創立80周年の記念日だ。
 この日のために谷口アベベは血の滲む飛行訓練と減量を行ってきた。軽くするために、昨日から食事を取っていない。

 谷口アベベは目をグッと見開いた。背筋が唸り、翼が大きくしなった。
 絞りぬいた両脚で地面を蹴ると、谷口アベベはみるみるうちに高度を上げて行った。
 高層ビル街の上昇気流が、彼を天に運んでいく。
 集まった群衆が歓声をあげた。先代の会長まで車椅子から天を仰いでいる。
 身体が軽い。風が味方してくれてる——谷口アベベは遠ざかる地面を一瞥した。本物の高揚感がみなぎる。
 努力は、俺を裏切らない。
 24階建ての本社ビルの屋上付近でくるりと一周すると、建設中の新国立競技場が見えた。彼はノスタルジックな気持ちになって、それをすぐに風で流した。
 自分はもう陸上選手ではない。空中選手なのだ。
 そう思いを明らかにして、そう、一仕事がある。胸のハーネスで固定された袋に手をかける。

 南陽化成が新開発した、11μmの薄さながらキャンパス生地並みの強度を誇る夢の素材。通電性もあり、新時代のディスプレイとして利用する研究も進行中だ。
 袋は、その素材でできた「祝 南陽化成本社創立80周年」と印刷されたフラッグがたたまれて収納されている。広げると15畳ほどあるが、重さは100グラムもない。
 旋回中の谷口アベベは、タイミングを見計らってフラッグを広げた。
「祝 南陽化成本社創立80周年」が空にはためくと同時に、谷口アベベのハーネスからそのフラッグがちぎれ、糸が切れた凧のように何処かへ飛んで行った。

 不幸中の幸いだった。だいたいが、そんなものを上空で広げれば墜落の恐れがあったのだ。
 飛んで行った「祝 南陽化成本社創立80周年」は新宿駅の山手線架線に覆いかぶさった。その通電性でショートからの火災を起こした。その日、山手線は夜の11時まで全線不通となった。
 これにより南陽化成が払った損害賠償は13億円。
 広告代理店が試算した広告効果は400億円。
 谷口アベベの責任は問われずに、毎月の給料が五千円上がった。
 まだ誰も知らないが、南陽化成が倒産したのはオリンピックの翌年だった。

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