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小説 『父が死んでも涙が出なかった』

 喪中の葉書の印刷をネットで注文した。5月に父親が死んだからだ。

 一年前の秋、父は脳出血で倒れて、入院してリハビリをしていた。ところが、入院中に大腸ガンが見つかり、80過ぎの脳梗塞を患ってる患者に手術は不可能といわれた。
 脳出血も手術できない箇所だし、大腸の腫瘍からも出血が続き、手の施しようがありません。輸血してもいずれ追いつかなくなります。持っても半年でしょう。と医者。
 倒れる前日まで父は元気だった。俺も、父が倒れる3日ほど前に電話で話したが、変わった様子はなかった。
 自業自得と言われればそれまでだが、大の病院嫌いだった父。元気そうに見えても、体の中は加齢と癌に侵されていたいたようだ。
 ああ、お父さん、死ぬんだな。母も
姉も俺も、簡単に覚悟はできた。

 父は昔っから、年取ったらボンっと倒れてすぐに死んでやる。迷惑はかけないから、お前ら安心しろ。といっていた。
 死に方なんて自分じゃ決められるもんじゃないじゃん!と俺も姉も言いつつも、曽祖母が同じように脳梗塞で倒れ、ほどなく亡くなった経験から、うちの家系はなんとなくそうなるんじゃないかなと思っていた。
 で、そうなった。

 オレの実家は秋田県の小さな町にある、江戸時代の初期から続く造り酒屋だった。
 米と水の豊かな秋田の田舎では、昔はいくつもの造り酒屋があった。しかし、高度成長期の波にもまれ、小さな造り酒屋は大手の酒造メーカーに吸収され、淘汰されていった。
 うちも例外ではなかった。俺が物心ついた時には、実家の裏にある酒蔵は、ただの物置になっていた。その昔は、小さな町でも伝統ある名家に数えられ、酒造りの若い衆や、お手伝いさんを住み込みで雇っていた町屋づくりのだだっ広い家は、俺たち家族四人だけが住み、土蔵造りの古い店舗は、日本酒よりもビールや焼酎とサキイカや柿のタネを売っている、ただの酒屋になっていた。 
 この店は俺の代で終わりにする。こんな何も無い田舎に戻ってくるな。と言う父の言葉通りに、姉も俺も都内の大学に進学し、卒業後は東京で就職し、実家には戻らなかった。

そして父は言葉通り、10年ほど前に店を閉めた。

 住む所だけ残して、あど家ほごして(壊して)おぐがらな。俺と母ちゃん死んだら、更地にせばいい。売ってもいい。
 お前たちに迷惑かけねぇように、家小せぐしとぐがら。

 そう言って父は、地元の業者に頼んで店舗と自宅の2/3を取り壊し、残った母屋を改築して、老後を過ごすのにちょうど良い広さの家にした。そして中庭にあった18本の松の木を切り倒し、自宅の前を広々としたアスファルト敷きにして、近所の人に貸し出した。

 これで俺の仕事は全部終わった。
 あどは墓さ入るだけだ。
 改築が終わったとき、父はそう言った。

ところが、それからしばらくして、父から電話があった。

墓、探してくれ!
住職、チカンで捕まったど!
檀家もへったくれもあるがっ!
死んでから、チカンに経上げられるなんて、おら耐えられん!

 ネットで調べてみると、地方ニュースに『住職、チカンで逮捕』と出ていた。住職の名前も寺の名前も、実家の菩提寺と一致していた。

あれまぁ、住職も魔が差したんかな?
と思い記事を読んでいると、なんと本堂に、盗んだと思われる女性用の下着が大量に隠してあるのまでが見つかったらしい。

 代々の墓、どうすんのや?

 お爺とお婆の骨は、二年前に分骨して大阪のアニキが持ってった。んだがら、俺がここの墓を守る必要なんてもうねんだよ。

 そして住職の事件を契機に、そういうことには潔癖な父が、先祖代々の墓を捨てるのには充分な理由を得たのだった。
 ネットで都内の格安な共同供養墓を探してやると、父は大喜びして、そこに入れくれ!と二つ返事だった。

 お前の言う通りにするよ。俺はなんもわからんから、でもお前に任せられるから助かるよ。死んだら俺も東京人だ。

 できの悪い息子の俺が、父から頼られたのは後にも先にもこれが最初で最後だった。

 共同供養墓に入ることが決まると、面倒なことが嫌いな父は、死んだら、家族以外の人間には知らせるな、葬式もするな、戒名も坊主の経もいらん、と言っていた。実際は金がなくて、葬儀費用で家族に負担をかけたくなかったんだと思う。 そんなこんなで、家族の間で、親父の死ぬ準備はできていた。

 幸か不幸か、脳梗塞の麻痺のせいで、父は入院中、苦しい、痛いなどの苦痛を訴えることもなかった。
 カタチだけのリハビリを受けながら、介護施設が見つかるまで、入院させてくれた病院の配慮には感謝しかない。そして、うまいこと四月に、実家から徒歩で行くことができる介護施設が空き、父はそこに移った。
 しかし、一ヵ月も経たぬうちに、元号が平成から令和に変わった翌日の早朝に、静かに息を引き取っていた。苦しむことがなかったのが、なによりの救いだと、母親は言っていた。

 葬式は父の言う通りにした。
 直葬と言って、お通夜も告別式も行わず、葬儀屋の遺体安置所で一晩置いてもらい、その後すぐに、火葬場に運ぶことになった。参列したのは、母親と姉夫婦、俺の妻と俺の子供二人だけだった。

 最後のお別れをしてください。と葬儀屋が言う。母親が声かけ、姉が声をかけて、ウチの子ども達が、さようならと挨拶したりする。俺は親父の頰のあたりにおデコをつけてみた。80歳の父の肌。それは冷たくて、気持ちが良かった。

 直葬でいんだすよな?お寺さんのお経もねくていんだすよな? 

 火葬場の係りのおじさんが俺に言う。

 はい。

 喪主さん、なんか一言ありますか?

 あ、家族しかいないんで、なんもないです。

 せば、ここ押してください。

 火葬場で俺が点火スイッチを押すと、子供達が堰を切ったように泣き始めた。
 良かったんじゃんか、孫がワンワン泣いてるよ!田舎の酒飲みの、なんの取り柄もない爺さんのために、小さい子供達が泣いてるよ。

俺は、二人の子どもの肩をしっかり抱いてやった。

火葬場の待合室で、缶コーヒーを飲みながら、姉が言った。

最後にね、お父さんを見舞った時に、お前は、俺から何を得た?って言われたのよ。

それで?

それでね、アタシは、お父さんから、本を読むこと、音楽を聴くこと、今のアタシの基礎をくれたのは、お父さんだよって答えたの。

そしたら、お父さん、なんて言ったと思う? 

酒を飲むこも教えたのを忘れるなって!

 姉は、物書きの仕事をしている。

 父は、酒と文学と音楽を愛する男だった。かと言って、お洒落なおじさんでは無い。ランニングシャツ一枚で、ステテコを履いて、でかい湯飲みに燗酒を入れて、どでかい音でクラシック音楽を聴いていた。
無駄に広い家は音楽を聴くにはちょうどよく、田舎なので近所迷惑になることもなかった。
そして、暇な時は、爪をかじりながら本を読んでいた。
父の部屋の書棚は、数百枚のクラシックのレコードと、美しい緑色の表紙の世界文学全集が整然と並んでいたのを覚えている。


あんたは、お父さんに何か言われた?

と姉。

あー、ぜんぜん。

見舞いに行くとさ、いつも、もう家に帰りたいとか、酒呑みてえとか、そんなんばっかだよ。

 東京から3度ほど見舞いに来たが、多分、とりとめのない普段通りの会話しかしていないと思う。
そして脳梗塞の影響もあり、まともな話しをしたかと思えば、話しの時系列がメチャクチャになったり、ひどく昔の話しをしたり、ありもしない話しをしたりした。

東京のお前んちに行くから、飛行機に乗ってたのに、便所に行けないから途中で降ろされたわ!頭さ来た!

あの、清掃員さん、もと女優さんだで。
最近テレビで見ねえなあと思ったら、こんなとこで仕事してるんだな。

こんな話しを、俺は、うんうんと、適当に相槌を打って聞いてやった。

 俺としては、逆に、こんな、なんでも無い会話で良かったと思っている。
父から何を得たなんて言われても、ほいっと思いつくものなんかないのだ。おまけに、テレビドラマみたいに、死に際に何か教訓めいたことを言うことほど、反則行為もないだろう。死に際だけに、たいしたことじゃなくても、何か特別な価値をつけなきゃいけなくなるじゃないか。 

 ただ、一つ、父は病院の天井を見つめながら、ポツリとこうつぶやいたのを覚えている。

 生きるの飽きた。

 第二次世界大戦が始まった年、昭和14年に父は生まれた。
その頃に生まれた人たちは、戦争の不幸を当たり前のように背負わされた。父もその一人だった。
千葉県の軍事工場で働いていた父親が戦争で亡くなり、母親はまだ一歳の父を連れて実家に戻ってきた。
まだ若かった母親は、すぐに再婚して嫁に出された。しかし、嫁ぎ先に子どもを連れて行くことは許されず、父は親戚中をたらい回しにされて、最後は結局、祖父母の元に戻された。
 ちなみに、母親、俺から見ると祖母にあたる人は、病に倒れ、嫁いだ数年後に亡くなっている。
 父は、両親の愛情を受けることがなかったうえに、祖父母からは厄介者のように扱われたらしい。
 その1つの理由が、祖父母の元には父と歳の近い叔父がいたからだ。
 父は叔父のことをアニキと呼んでいた。叔父は優秀で、なにかにつけて父は叔父と比較されたようだった。 
 祖父母からしてみれば、自分たちの子どもの方が可愛いのは当たり前だったかもしれない。
 高校を卒業する頃になって、父は大学への進学を希望した。しかし、叔父が京都大学へ進学し、田舎の酒屋を継がせるのはもったいないほどの優秀さだったこともあり、叔父の代わりに実家で商売を継がされた。

 俺はこの話しを、中学生になった頃に母親から聞いた。
 まさか自分の父親が戦争の不幸を背負わされてるとは思ってもいなかった。

 父は辺鄙な田舎の小さな酒屋の主人に収まったが、しかし商才はなく金にも恵まれることはなかった。
 昭和64年(1989年)に昭和天皇が崩御され、日本中が喪に服し、昭和という激動の時代が終わると、各テレビ局は昭和の歴史を振り返る映像ばかり流していた。どのチャンネルも戦争とその後の復興と発展の映像ばかり。
 戦争に関わる映像は大嫌いだった父だったが、しかし、昭和が終わったその時は、父は何も語らず、その映像を睨みつけるように見ていたのを覚えている。戦後、日本がいくら復興しようとも、いくら発展し経済大国になろうとも、父が失った、両親がいて、愛情を受けて育つという普通のことは取り戻すことはできなかった。今となっては確認のしようがないが、自分ではどうすることもできなかったことに、父は蓋をしていたのかもしれない。

 たまたまだが、昭和から平成になったその年に、俺は都内の、誰でも入れるような滑り止めの私立大学に合格した。
二つ上の姉が進学した大学から比べると雲泥の差だった。
それでも父は、自分が大学に行けなかったこともあり、姉と俺を東京の大学に進学させることができたのが、何よりの誇りのようだった。


 火葬が終わると、子供たちはケロッとして、必死になって骨を拾い、骨箱に入った親父を、わーい!おじいちゃんが箱になった!と言って、俺が持つ!アタシが持つと奪い合いになるほどだった。

俺はまたまた思った。よかったじやんか、箱に入ってメチャ好かれてるよ。

実家に何日か泊まって、色々と手続きをしたけど、大したことはなかった。

父は本当になにも持っておらず、遺品と呼べるものはほとんどなかった。
一応、物置になっている酒蔵を物色してみた。
蔵の重い扉を開けると、いまだにふんわりと糀のいい香りがする。
俺は、蔵にある父のタンスの中から見つけた、ネクタイピンとカフスボタンを形見がわりに貰って帰ってきた。

 家の家紋が入ったカフスボタンをころころと手の中で転がす。
 自営業のオヤジは、冠婚葬祭以外でワイシャツを着ることなどなかったはずだから、カフスなんかほとんどはめることもなく生きてきたはずだ。愛用していたものではなく、たまたま残っていた。それだけだ。

  東京に戻り、久しぶりに自宅のベッドで子供達と寝る。子供達は、俺の腕まくらで寝るのが大好きだという。男の子はもう5年生だから、こんな風に寝ることができるのも、あと一年もないだろう。そろそろ自分の部屋が欲しいと言い出す頃だ。7歳の下の子も女の子だから、あと何年かしたら、俺となんか口もきかなくなるだろう。

 俺も、子どもの頃に、こうして父に抱きついて寝ていた。多分、小学校の6年ぐらいまでそうしていた。

父は子煩悩で、俺と姉をとても可愛がってくれた。もちろん、思春期のころには、どこの家庭でもあるように、俺も姉も両親にひどく反抗した時期もあった。

 母から聞いて、最近知ったことだが、父は、姉と俺を東京に出してから、毎晩、晩酌のたびにポロポロ涙を流して泣いていたらしい。

 人は経験からしか学ぶことができないと、俺は思っている。だから、俺は父みたいに子供を可愛がるのが当たり前だと思っているし、それしかできないのだ。そして、こどもたちが、俺の腕枕ですやすやと寝息を立てて眠る様子は、俺に、とてつもない幸福感を与えてくれる。
 40年前、俺と姉が子供だった頃、親父も俺たちを抱きながら、こんな幸福感に包まれていたのだろうか。 
 俺の友人で、父親と疎遠だったから、自分が父として、子供に対してどう振る舞ったらわからないという奴がいる。
 俺の父はどうだろう。両親の愛情を受けることなく、祖父母に、疎まれながら育った父だが、俺たちに注いでくれた愛情の源泉はなんだったのだろうと、不思議に思う。

 火葬が終わった時に、母親が言ったことを思い出す。

「お父さん、小さいころは親に死に別れて、悲しい思いしたかもしれないけど、最後は幸せだったと思うよ。お父さんにとっては、自分の血が繋がってる人間って、あんた達しかいなかったしね。可愛がってた子供たちや孫たちに見送られて、苦しまずに死んで、最後は全部、思った通りになったんだから。」

 父は生き方を選ぶことはできなかったけど、自分の思い通りの死を選ぶことができた。

俺たち家族はそう思ってる。

 母も姉も俺も、父の死に対して、涙を流すことはなかったのは、そのためだろう。

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