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SHHis、そして斑鳩ルカについて

 どうも、いれぶんと申す者でげす。こちらはアイドルマスターシャイニーカラーズに実装される新ユニット「SHHis」と、初のライバルアイドル的存在である「斑鳩ルカ」について考えたり調べたりしていたら色々こんがらがり過ぎて気が狂いそうになったので吐き出した怪文書です。以下注意点です。

・SHHisについてはまだ何もわからん状態なのでここに書いてあることはほとんど誇大妄想だと思ってください。
・色々軽く調べたりしただけで、上手く思考がまとまっていないので乱筆乱文もいいところだと思いますが許して。
・ほとんど憶測の解釈になりますが、それらを押し付ける意図のものではありません。

 では以下本文となります。
(公開時期的に後出しじゃんけん感ありますが本来お蔵入りさせようとしてた怪文書なので許してちょんまげわっぱ!)

SHHisというユニット

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 シャニマス2ndライブでその存在が発表され、界隈はすっかり話題で持ちきりとなった新アイドルユニット「SHHis」。七草はづきの妹である七草にちか、そしてアイドルをすでに経験している状態で283プロにやってきた緋田美琴の2人ユニットです。まずはこちらから見ていきます。
 もうこの時点で情報盛りだくさん過ぎるのですが、取り敢えず彼女たちのパーソナリティの部分は置いておいて、ユニットの名前を考えます。
 取り敢えず現段階では「she is(彼女は)」「しーっ(静かにしろという意味のあれ)ズ」「seeds(種)」ということがよく言われていますね。ひとつ目に関してはよくわからないのですが、少なくとも後ろふたつについてはユニットのロゴのデザインから見てもまず間違いのないものであろうと思います。
 そしてこの記事では特にその「種」「しーっ」の部分について思うところがあったのでつらつらと、というかぐちゃぐちゃと書き立てます。調べてたどり着いた情報だけで深読みでき過ぎて気が狂いそうになってしまったのでもう脳内はぐちゃぐちゃですし、当然それによって書いた文章もぐちゃぐちゃです。それでもよろしいという方はお読みくださいね。

ミレー、そしてゴッホの「種まく人」

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 さて、ここで絵画の話になります。めー↑っちゃ話が飛躍したでしょ?こんな調子でいきますよ。
 上掲の絵画はミレーの代表作のひとつ「種まく人」です。ミレーという画家は所謂「農民画家」と言われる画家で、当時の農民たちの暮らしを切り取って描く人だったようです。そしてこの「種まく人」は当時の美術サロンなんかで入選もしたようなので当時から相応の評価があった絵なのでしょう。どうやら賛否両論というか、政治的な議論を巻き起こしたようですが…。

ミレーが夏の終わりに麦の種を蒔く農民の姿にインスピレーションを受けて描いた作品です。この作品は、新約聖書の福音書などに見られる「種をまく人のたとえ」と関連付けて解釈されます。「種をまく人のたとえ」は、心を開いて言葉を受け入れる者(良い土地)にのみ、イエスが蒔いた信仰の「種」は実を結ぶ、という教えです。イエスが希望を持って辛抱強く信仰の「種」を蒔き続けたように農民が後の芽吹きに望みをかけて麦の種を蒔く、ミレーはその両者の姿を重ね合わせてこの絵を描いたと言われています。ミレーの農民画は、同時代や後世の画家に影響を与え、たびたび模写されました。特にゴッホがこの作品に触発されて独自の色彩で再構成した「種蒔く人」は、ミレーとの主題の噛み砕き方や表現の仕方の違いにおいて興味深く、有名な作品です。

https://media.thisisgallery.com/works/jeanfrancoismillet_03 より

 しかしながらこの絵は宗教的な意味合いを強く含むという風に言われています。というのも、キリスト教の福音書の中によく出てくる話として「種を蒔く人のたとえ」というものがあるらしいのですが、この絵はそれをモチーフにしていると言われています。
 そのたとえ話において、蒔かれている「種」というのはイエス・キリストの言葉のことを指すとされており、ミレーは信仰を根付かせるために地道な努力をしたイエスと種を蒔く農民を重ねてこの絵を描いたのだろうという風に解釈されているようです。

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  ここでゴッホの「種まく人」にも少し触れます。何よりこの絵画についての話を聞いた時に色々と頭の中でスパークしてこれを書くに至りましたので…。
 この絵は見ての通りミレーの「種まく人」にインスパイアされてゴッホが描いたものです。農夫の立ち方がまんまそれですね。農夫や労働というテーマで絵を描いていたものの、生前には評価されず半狂乱の中自ら命を絶ったゴッホにとって、同じく農民画で地位を築いていたミレーは羨望の対象だったようで、ミレーの絵をモチーフにして絵を描くことはよくあったらしいです。
 さて、なぜここでゴッホの話になるかというと、私が最近たまたまNHKの「日曜美術館」という番組をでゴッホについての特集を録画で見たからです。そこではゴッホの生涯や思想にあたる部分を彼の描いてきたモチーフなんかを通して読み解いていたのですが、そこで専門家の方が言っていた言葉を聞いた時、脳裏によぎったのは「SHHis」の存在でした。

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 その専門家の方は「ゴッホは神の言葉を種まく人になろうとしていた」というのです。これは先述の通りのキリスト教の聖書からの意味、そしてミレーの「種まく人」に対するゴッホの羨望の気持ちを持つ言葉ですが、この「神の言葉を種まく人」という言葉に限界オタクの脳は限界ギリギリぶっ飛びスパーキングです。

 ここでようやくSHHisの話に戻りますが、まず最初に述べたように、「SHHis」というのは「seeds」、つまり「種」を表しているだろうと思えるので、私が「種まく人」と関連付けたのは納得いただけるかと思います。
 しかし私が最も脳みそスパーキンを起こしたのは「神の言葉」の方です。こちらも先述の通り、「種」というのはイエス・キリストの言葉のことを指すものですし、それは「神の言葉」と言っていいでしょう。そして「神の言葉」というのを日本語での言い方で何か言い換えるならばそれは「命/御言」と言えてしまいますよね。
 「命/御言」。何と読むかお判りでしょうか。どちらも「みこと」です。……あれ?SHHisというアイドルユニットにおいて七草にちかの隣に立つもう一人のアイドル、彼女の名前は緋田「美琴」でしたね。こちらもまた「みこと」です。ん~…。

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気が狂う!!!!!!!
ぐあーーーーーー!!!!!!!!

 これ倒れるかと思いましたね。なんだこれは。偶然の一致なのか?それとも気の狂ったオタクのただの深読みか?と思わないでもないですが、ここまで綺麗にそれっぽくなってしまうと「もしかしたら」と思わざるを得ません。しかもこのゲームはあのシャニマスです。これくらいやりかねません。
 とはいえ、現段階ではこのミレーやゴッホの絵画に根付くキリスト教的な「種を蒔く人のたとえ」がSHHisのモチーフのひとつだという風に言ったとしても、2人の物語もパーソナリティも見えていない以上このことが何を意味するのかは全く分かりません。
 しかしながら、どこかでにちかが美琴のことを、及び「アイドル」という存在を尊敬、というか「別次元の存在に対する畏敬」じみたものすら感じさせる目線で見ているような部分が4コマ漫画やexコミュの時点から見受けられる気がします。そんなにちかにとって「アイドル経験者の美琴」は神であり、そして美琴の言葉はそのまま「御言」になってしまうという関係性になるのではないかと思わせます。また、「命」と書いて「みこと」と読む場合はそれそのものが日本の神様を表す名前にもなりますよね。イザナギノミコトとかね。なんか怖くなってきたな。
 ともすればきっと、「美琴は神の言葉を放つもの=イエス」であり、にちかは「種を蒔く(人になりたい)人=ゴッホ」であるという構図になってくるのでは?という風に考えられます。実際はまだ何もわかりませんが…。

 さて、とりあえずここでいったんSHHisの話を切り上げますが、ここまで用いてきた福音書における「種を蒔く人のたとえ」も掲載しておきましょう。多分すぐお気づきになるでしょうが、特に最初の部分を見てください。ここまでくるとやっぱり偶然とは思えないってなっちゃうポイントです。

ルカによる福音書第8章4節から8節
「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた」

http://www.thebible.jp/%E3%80%8C%E7%A8%AE%E3%82%92%E8%92%94%E3%81%8F%E4%BA%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88.htm より

斑鳩ルカという存在

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 いやおい!!!!「種を蒔く人のたとえ」が記述される福音書の内のひとつ、それは「ルカの福音書」です。変な汗出ますよね。もうなんとなくいろいろな因縁を感じますが、取り敢えず283プロと深い因縁の関係にありそうな気がしてならないシャニマス初のライバルアイドル「斑鳩ルカ」についても考えていきます。
 斑鳩ルカはどうやら巷でカルト的な人気を集めているアイドルのようで「カミサマ」と呼ばれているようです。ここでもまた「神」なんてものが出てくるとなると関連を疑わざるを得ませんが、ルカもまたひとつの「神」であることが匂わされます。うーん…。
  さらに、「私は使われも捨てられもしねー」という言葉がルカのキャラクター紹介ページに掲載されていますが、これは昨年の夏の越境イベントである「アジェンダ283」との関連が指摘されています。「アジェンダ283」ではゴミ拾いを通して「こうして捨てられているゴミにも意味があった」という風な話で、それを拾い上げて様々な学びを得ていく23人の物語でした。
 斑鳩ルカの「使われも捨てられもしない」という言葉からこのゴミの話題に繋がるのは納得のいくところですが、この「ゴミ」というのは前述の「種」という風にも捉えられないでしょうか?

 ルカの福音書において、蒔かれた「種」は人に踏みつけられたり、鳥に食べられたりして芽吹かなかったものもあれば、うまく芽吹いてその数を何倍にも大きくしたということが語られていますが、この「芽吹かなかった種」というのが「ゴミ」だと思えます。
 それらの「ゴミ」にしっかりと意味を見出したのが「アジェンダ283」だったわけですが、そのことに対しての斑鳩ルカの「使われも捨てられもしない」という言葉は彼女自身、または美琴の事、もしかしたらアイドルそのものに対する価値観の表れなのかもしれません。そう考えるとうまい具合にライバルとして283プロと対立してるなと思います。彼女はしっかりと芽吹いて「カミサマ」として信仰を集め、芽吹かなかった「ゴミ」にはなりたくないのかもしれません。

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 さて、ここからはまた話を飛躍させますが、今度は名前の「斑鳩」の方について考えてみたいと思います。
 「斑鳩」という言葉はイカルという鳥を表していたり、実はそうではないという説もあったりしてその部分にもかなり意味深いものを私は見出していますが、取り敢えずここでは奈良県にある斑鳩町の方にフォーカスして考えます。
 斑鳩町というところにはあるとっても有名な建造物があります。歴史の教科書なんかにもまず間違いなく出てくる有名なお寺、「法隆寺」がある場所です。そして法隆寺を建立したのは誰でしょう?そう、聖徳太子ですね。厩戸皇子とも言われている超メジャー偉人です。

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 さて、そんな聖徳太子ですが、こんな言い方どうかと思いますけど「胡散臭い」ですよね。眉唾物のエピソードが多すぎて実在性すら危ぶまれます。
 特に槍玉にあげたいのは「厩戸皇子」という名前の由来ですが、聖徳太子は母親の夢に出てきて「夜を救いたいからお前から生まれる」という風に言い、そしてその母親は急に産気づいて馬小屋の前で聖徳太子を生んだため「厩戸皇子」という名前になったという伝説があります。
 お判りかもしれませんが、このエピソードはキリスト教の聖書における「聖母マリアの受胎告知」と酷似します。これは偶然というわけでは無く、当時は遣唐使の派遣が盛んに行われていたことを考えると、大陸の方で伝わったキリスト教のお話が日本にも伝わった可能性を示唆しています。しかもここで伝わったこの内容は「ルカの福音書」の内容である可能性も高いようです。おいおいおい…これもう言い逃れできないだろ…。
 とはいえ、聖徳太子の怪しげな伝説、とりわけ「受胎告知」されて生まれたという部分を考えれば聖徳太子もまたひとつの「神」と言っていいと思います。あまり神様という存在として考えられてるとは思えませんが…。一応歴史上の偉人だったわけですが最近歴史の教科書にも載らなくなったという話も聞くのでそういう意味ではもう偉人ではなく「神」なのかもしれません。

 さて、「斑鳩」という地にある聖徳太子のエピソード、「ルカ」という福音書を残した人物と同じ名前、そして「カミサマ」ともてはやされていること。このあたりを考えるとやはり斑鳩ルカを取り巻くモチーフにも「神」、さらに言えばキリスト教絡みのモチーフがあるように思えます。可愛いアイドル育てるゲームでこんなテーマの取り方する?こわ。

SHHisと斑鳩ルカ、神、偶像、アイドル

 ここまでの憶測を考えると、SHHisは「緋田美琴という神とその信奉者七草にちか」、斑鳩ルカは「現代少女たちのカミサマ」という構図に感じられます。さらに、ここで思い出して欲しいのはSHHisのユニット曲の名前が「OH MY GOD」だということです。もうトドメですね。やはりこの3人を取り巻くテーマには「神」があります。
 ただ、そう確信を持てたところで現段階ではやはり何も分かりませんし、そもそもこれが当たっている読み取り方なのかもわかりません。しかしながら、「神」というものを語ろうとするならばよく語られるであろうテーマがあります。

 「偶像」という概念です。偶像というのは何かしらの素材を用いて作り上げた像のことを言いますが、概ねの場合宗教的な意味を持ちます。例えば仏教においては仏像は偶像ということになりますし、それらを拝んだりしますよね。
 しかし、ユダヤ教やキリスト教では偶像を対象として信仰することは強く禁止されています。ユダヤ教・キリスト教における唯一絶対の神の偶像を作るとしてもその像自体は神ではないし、それを崇め奉るということは勝手な想像で偶像を作った存在、つまり神による愚かな被造物である自分自身たちを崇めているという風に言えてしまう、というような理屈だったような気がします。あんまり詳しくないんですけどね。
 そろそろ何を言わんとしているかはお察しいただけるかもしれませんが、「偶像」を英語にするとそれは「idol」になります。そして我々がよく知るこの国の「アイドル」というものも、この「偶像」という意味の「idol」に由来するものです。

 今の時点では何もわかりませんが、ここまで材料が揃ってしまうと、SHHisという存在と斑鳩ルカというアイドルのテーマはきっと「神と偶像」みたいなものなんだろうと思わざるを得ません。
 どこかにいるかもしれない、絶対的な威光を放ち人々を平伏させる圧倒的な存在としての「神」。愚かで弱い人類がそんな神の存在に己の欲望を投影する形で見出した虚影としての「偶像」。果たしてそのどちらが本当に人の心を掴む「アイドル」なのか?また、「アイドル」というのはそのどちらであるべきなのか?「偶像」を崇拝するのは正しくないとするならば、「アイドル」は?「偶像」として見出した「アイドル」の裏側にある「人」は本当に「神」なのか?
 SHHisと斑鳩ルカは、そんな10代・20代の、しかもアイドルというものに強い気持ちを抱いているであろう3人の人間に負わせるにはあまりにも重いテーマを扱うつもりなのかもしれません。だって「神」にしても「偶像」にしても、それはもう普通の「人」ではなくなるというのに…。
 その覚悟をこんなうら若きアイドルたちに持たせようというのか…?そうだとするとどうかしてるだろシャニマス。本当にこれに答え出せんの?高山???俺には無理だぞ。やはり私は事務所の観葉植物に徹した方が良さそうです。霧子様がくれるお水美味しい!!!!

「耳」

 ここからは私の更なるスーパー憶測こじつけやっちゃうぞのコーナーになります!まだまだわからないことだらけだからやりたい放題だぜ!!
 さてこの項のタイトルにある通り、「耳」の話がしたいと思います。いきなりなんだよって思うかもしれませんが、ここまでの記事の中で書いてきた中で、どうやらイエス、ゴッホそして聖徳太子の3人には「耳」にまつわる有名なエピソードがあるはずです。多分!

 まず、イエスについてはどうやら「耳を開いてもらった男」というエピソードがあるようです。これは「耳も聞こえず話すこともできない男に対し、イエスが奇跡を起こし耳を開いてやり、結果として耳が聞こえるようになり話すこともできるようになった」というものです。
 ここでのイエスの行動に、その男に対して「指をその男の両耳に差し入れた」という部分があります。もともと耳の聞こえない男の耳を塞ぐという行為は「周りの音を聴こうとするのではなく、内に聞こえる神の言葉に集中せよ」という風に解釈できるのだろうと感じます。つまり周囲から断絶し、神の言葉を「聞く耳を持て」ということなのかなと思います。

 話は変わってゴッホといえば、精神的にかなり不安定なところがあって、田舎の精神病院で治療を受けながら絵を描いていた人なのですが、その生涯において「己の左耳を切り落とす」という事件を起こしています。
 狂乱の中、果たして何故耳を切り落としたのか、それについては諸説あるところですが、確固たる説は無さそうです。しかしながら、音の感覚器官である耳を切り落とすということは、例えば町や社会の喧騒であったり、もしくは当時一緒に暮らしていたゴーギャンの声や人々の声と言ったものなんかに対しての拒絶反応という風に取れるように思います。これはゴッホと社会との隔絶みたいなものを感じさせますね。
 都会の喧騒から離れ遠い田舎で療養していたことや、その偏屈で頑固な性格から考えると、ある意味でゴッホは「聞く耳を持たない」という風に言えるのではないでしょうか。物理的にも持たなくなってしまっているし。耳切るの想像するだけで痛い。

 一方で、聖徳太子に関する「耳」のエピソードといえば「豊聡耳(とよとみみ)」がありますね。聖徳太子のもとに陳情しに訪れた多数の人々が同時にまくしたてた言葉を、それぞれ聞き取ってしっかりと返答をしたというエピソードのことを指します。これもなかなか眉唾物ですよね~もしかしたらできる人いるかもってギリギリ思えなくもないラインですが…。
 さて、これを先ほどのゴッホの話と関連を考えるならば、聖徳太子は凄まじく高いレベルの「聞く耳を持っている」と言えるかと思います。相手が有象無象の多数であろうと、それをすべて聞き入れ、欲しい答えを返してやることができるというのですから。

 今までの記事の中で述べてきたことを対応させると、それぞれキリスト及びゴッホとSHHis、聖徳太子と斑鳩ルカという風になるのかなと思います。
 そう考えると、「SHHis」というユニット名やユニットロゴが「しーっ」、つまり「静かにしろ」という意味の行動をモチーフに取っている意味がなんとなく見えるように思えます。先に述べた部分で、イエスもゴッホも「耳」にまつわるエピソードを中心として「周囲の喧騒からの隔絶」という部分が見えるというようなことを述べました。どちらもまた周囲に「静かにしろ」と言っていたのかもしれません。
 とはいえ、現段階では私の足りない脳みそでは上手く言えないのですが、このイエスとゴッホの「静かにしろ」というものはどうにも同じものとは思えません。やはりゴッホは「耳を開いてもらった男」ではないのでしょうか…。この辺の考えを上手く言語化できないのですが、もしかしたらこの辺の違和感がSHHisを考える鍵なのかもしれませんね。誰か代わりに考えてくれ(放り投げ)。

 また、斑鳩ルカについては聖徳太子が関連付けられるわけですが、斑鳩ルカは「現代少女たちのカミサマ」であるという風に説明されていることから考えると、おそらく現代の未だ若く不安定な少女たちに対して何か言って欲しいことを言ってくれる存在なのかなと思えます。
 例えば今「うっせぇわ」という曲が大流行していますが、これは社会に抑圧された若者たちの大人への反抗心を感じさせる歌です。この歌については尾崎豊との関連性が指摘されていたりもしますが、とどのつまり「うっせぇわ」も尾崎豊も、どこか自分たちが抑圧されていると思っていても声を届けられない「若者たちの言葉の代弁者」としてウケたのだろうと感じます。そしてそれ故に大きく祀り上げられるだろうと思えます。
 今の段階では何もわかりませんが、斑鳩ルカのその如何にも刺々しい出で立ちや口調を考えると、そういった少女たちの反抗や不満の言葉や気持なんかを聞き取り、感じ取り、その代弁者のような形で寄り添うような存在、つまり聖徳太子のような「人々の言葉を聞き届ける」存在としての「カミサマ」なのかなと思います。
 ただそう考えると斑鳩ルカの「使われも捨てられもしない」という言葉はどういう意味になるのやら…もし今私が考えているこの記事で書いたような存在ならばそれは正直ちょっと「使われてる」という風に見えるんですけどね…。例えば、かつて尾崎豊を聞いてきた世代が今「うっせぇわ」を聴いている若者を抑圧している側にいるというのは「尾崎豊を捨てた」という風にも言えるし、それと重ねて考えると…。こういう反抗心のアイコンみたいな存在が不特定多数の人間の若い頃の不満の拠り所として使い捨てされるなんて、なんかありがちなテーマだけど凄いモヤモヤするやつだな…うーん…(昏倒)。

まとめ

 さあ、いかがでしたでしょうか?は?いかがもクソもないだろ。もはやただの憶測の域から出ていないことを書き散らかしただけのものです。なにもまとめられません。これはただの落書き。
 そんなものなので、書いたはいいけどお蔵入りさせようかなと思っていたのですが、にちかのW.I.M.G.編を見たところ案外正解に近いところを行けていたのでは?と思い、ある意味で答え合わせをするように、また美琴やルカが来た時にどうなるかという部分に対するワクワクみたいな気持ちもあって一応の形にして公開しました。
 正直なところ七草にちかの背負うものがあまりにも重過ぎてこっちは気が狂いそうでしたがみなさんはどうでしたでしょうか。きっといろんな怪文書が作られているのかな?それは楽しみだな~きっといろんな解釈がなされるでしょうし、その重なりがより物語の色を広げます。きっとこれが俺たちのL@YERED WINGなんだ!知らんけど!

 ほんとになんにも取り留めのない文章でしたが、ここまで読んでくれた方、もしいらっしゃるなら貴重なお時間頂きまして本当にありがとうございます。これから先にSHHisについて書くことがあるかどうかは分かりませんが、このくだらない拙文が何か少しでもSHHis学者さんの考察の材料なんかになると良いなと思います。これが俺の蒔いた「種」だ!!誰か芽吹かしてくれ!!ていやーーーーーー!!!!(小宮果穂)(全力で放り投げ)(他力本願)

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