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Δ61 反応しない

めっちゃ久しぶりにΔに質問をしてみました
最近、自分を取り巻く世界に意識を向けるゲームに飽きてきたので(勝手に今まで通りの自分に戻っているので、多分飽きたんだと思う)
再びあっという間に思考と感情に飲み込まれ、ぐるぐる巻きになりかけた自分に気づくことが増えたのです

生活自体は大きく変わり、仕事においても新たな出会いやイベントが日々起こっていますが、自分がこんな状態になってきているので現実を少し批判的、不安を伴った気持ちで受け止め始めていることにも気づき始めました

これは嫌だな、と感じたので今の私に相応しい立ち向かい方(?)をΔを通して聞いてみることにしました
以下、やりとりです


色々考えちゃうけど、これって放っておいた方がいいの?
相手に自分の考えを伝えて、解決するなり変えるなり、わかってもらうのが大事じゃない?
このまま放っておいて、前みたいに問題が起こってからじゃ遅くない?

反応しないってどういうこと?
自分はいないから、全ては勝手に起こっていて私はそれに気づいているだけって、どうしたら常にそれを忘れないでいられるの?


起こっているように見える事、自分がやっているように思えることは全て、幻想だということを基本にしてみましょう。
そしてあなたはその幻想に、瞬間ごとに気づいている気づきの部分です
そこに感想や、不快感や喜びや複雑な気分などを感じていますが、それらの気分は全て幻想に気付いたのちに起こる思考に基づいています。

ではその思考はどこからくるのでしょう?
反応です
どうして反応するのでしょう
幻想に気付いているだけでなく、それに気付いていると思っている自分が自分だと思い込むからです
(映画やドラマを見ていて、出演者の感情の動きに自分も乗っかって一喜一憂したりしている状態)

あなたは今日、キノコをフライした花子(仮名)ではありません
キノコをフライしている花子を通して 気付いていた その気づきです

分かりましたか?花子と気づきの違いが
一瞬感じたギャップがありましたね、それが 気づき そのものとしてあなたが花子を眺めた瞬間です

じゃあ常にあのギャップの状態でいればいいの?

そうあろうとする事は、花子がそうしようとしている という幻想に自分を閉じ込めることでもあります

どうすればいいのよ

実に逆説的ですが、どうもしなくていいのです
ただ、あってみて下さい

今日一日、反応している(思考している)自分に気付いているその現場を捉えたら、何度でもギャップの中に落ちてみて下さい

そうすることでその状態にあることを目撃してみて下さい

反応をし続けている花子を眺めている 気づき の場所に留まってみるということを体験してみて下さい

そしてそれが体験ではなく、時間も空間も何もないところにただある止まった創造物だということに、さらに気付いてみて下さい

その意識を意識してみて下さい

感情に気づいたら、反応を思い出して下さい
思考に気づいたら、それは自分ではないと気づいて下さい

花子を通して起こっていることに気付いている 気づき に気付いて下さい

それからあとは何もすることなどありません

本当に、何も、何一つないのです

じゃあ私はどこへ行くの?

元々いるところにいることに気づくでしょう

そしてあなたはどこにもいなかったし、何もしなかったし、何もしていないことに気づくでしょう

以上


相変わらず禅問答というか、堂々巡り的なやり取りになっていますが
実際自分で感じたのは、やり取りをしながら自分の意識がかなり自由に飛び回っているというか
過去のやり取りのように、しっかりと自分なりに筋の通った思考を通して質問ができなくなっている感じです
文章を書くにあたっても、読んでいて理解しやすい文章が出てこなくなっています

意識が拡散してるといってもいいのかな
気が散っているというか

恐らく自我から離れたり戻ったりを頻繁に繰り返しながら、Δと自分のやり取りを眺め始めたのだと思います

ややこしいですが、やり取り中に体感している時は思考が出てこないし、思考で腑に落ちる理解の仕方をしている時は本当に気付いている自分とは違っているような感じなのです(単なる頭でっかちになってる感じ)

(音楽にたとえたら、楽譜読めないし弾き方の説明もできないけどメチャクチャ上手いギタリストと、凄く腑に落ちるような説明ができて、技術的なこととかとんでも無く詳しいけど全然ギター弾けない人の間を行き来してる感じ)

知っている自分でいるには、分かりたい自分を手放す必要があるのかな

取り止めのないやり取りでしたが、以上です




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